書庫室とカカシ①

窓から見える紫陽花の花に葉に、朝降っていた雨がまだ残っている。
太陽に輝ききらきらと輝いているそれを、カカシは横目で眺め。
「カカシさん」
名前を呼ばれて目をイルカに戻した。
本棚に立ったままもたれ掛かったカカシを、イルカが振り返って見ていた。
手には何冊も本を抱えている。
無言で目を向けたカカシに、イルカは口を開く。
「まだもう少しかかるので、もしあれならもう行っていただいても構わないですけど」
少し申し訳なさそうに見えるが、その言葉にカカシは微かに眉を寄せた。
「あれって何よ」
不機嫌そうに返され、イルカは一瞬きょとんとするが、その意図が分かったのか、苦笑いを浮かべた。
「いや、だってカカシさん退屈そうなので」
「別に。好きで待ってるんだから、いいでしょ」
最後のいいでしょの、しょをと言うか言わないかでカカシはふいと視線を窓の外に移す。
カカシのそんな態度を眺めたイルカは息を吐き出すと、こっちを見ていないカカシに密かに小さく微笑んだが。
それもしっかりカカシには分かっていた。
昼休みの食後の空いた時間を利用して、書庫室で残っている仕事を済ませたいと言ったのはイルカだった。
出来るなら残業をせずに早く帰りたい。
そんな意図も分かっていたからカカシは、素直に承諾した。
イルカと正式につき合い始めて数週間。
正式に、とは。その前からよく分からない関係が続いていたからに他ならない。
それはもちろん自分が原因で。

もともと自分は人とちゃんとしたつき合いをしてこなかった。
だから、その延長線でイルカにも手を出した。
相手も承諾したのだから、それでいいと思っていたのに。
いつもいつも、イルカは身体を繋ぐ時に悲しそうな顔で痛そうだった。身体は素直に反応を示すも、心が拒絶しているのがよく分かった。
そんな相手は初めてで。そんな相手ならさっさと関係を解消すればいいだけのはずだと分かっていたが。それが出来なかった。
それに、最初は気にしていなかったはずなのに。
途中から、それが気になって仕方がなかった。
だから。
 そろそろ普通のつき合いをしませんか。
カカシはイルカにそう告げた。
その時のイルカの顔。
今でもはっきりと思い出せる。
同時に胸が痛む。
言い提案だと思ったのに。
イルカのあの打ちのめされたような顔。
泣くかと思ったが、何故かイルカは口元に笑みを浮かべ。
 無理です。
そうハッキリと自分に言った。
ああ、この人なら言いかねない。そう思うけど。それは自分にとっては欲しかった返事じゃない。
だから、無理と言われても。カカシはイルカと関係を続けた。
我ながらよく分からない感情だったと思った。執拗な拘りなんて。自分にはナンセンスだと。

でも。
その理由は、今はもうはっきりと分かっている。
それでも関係を続けたのは。
イルカと一緒にいたかったからだ。
そして。好きだから。
それも、最近気が付いた。
いや、気が付かされた。イルカに。
無理だと言いながら自分との関係を断ち切らないイルカに苛立ったから、色々とイルカに口出すようになった。
そんなカカシの言葉を、イルカはずっと黙って聞いていたが。ある日イルカはカカシを見てハッキリと言った。
 好きなら好きって言えばいいでしょう
怒った口調でもなく。強い眼差しをカカシ向けた。
黒く澄んだ目にカカシを映して。
 俺は、どこかに行く気もないんだから。ーーだから、言えよ。好きだって。
そこでようやく気が付いた自分も自分だ。
イルカに言われるままに、好きだと、口にしていた。
そのカカシを見て、満足げにイルカは黒い目を緩ませ、微笑み。

(....ま、そこからちゃんとつき合いだしたんだよね)
カカシは外の紫陽花を眺めて、ぼんやりと内心呟く。
今まで自分のペースで人とつき合ってこなかったから(とは言ってもセックスフレンドしかいないが)、正直戸惑う事も多い。
しかし、イルカの方は、何も変わらない。至って普通で。
だけど言うならば、前より自分の意見を言うようになってきた。
いや、違う。イルカはだいぶ変わった。
今までがイルカであってイルカでなかったんだ。
前より喜怒哀楽がハッキリと分かるようになった。
そして、何よりもーー笑うようになった。
「カカシさん」
再び名前を呼ばれ、意識を引き戻されイルカへ顔を向ける。
さっきより少し深刻そうな顔になっている。
「もうちょっとで終わるんで。座っててくれてもいいんですけど」
「もうちょっとならいいよ。気にしないで」
「でも、」
「目の前に座って、俺に見られてる方が余計やりにくいと思うけど」
言われてイルカは、少し考えるように口を結んだ。
「...まあ、そうですけど。...分かりました」
そこからイルカは、再び整理を始める。
再び訪れる沈黙に。
カカシの当初浮かんでいた悩みが、再び浮上する。
そう、自分は今悩んでいる。
前述の通り、イルカが初めての交際相手。
だから。
当たり前がよく分からない。
チラ、と横目でイルカを見つめれば、真面目な顔で書類を読み、ファイルし。そこで立ち上がった。机の上にあった本を全て抱え、棚に向かう。
カカシは焦りにまた眉を寄せる。

キスってどんなタイミングだっけ?

それがカカシの疑問であり悩みだった。
今まではセックスの流れでしかしたことがなかった。
本で知識はもちろんあるから、分かってはいるけど。
いざイルカを目の前にして。
今までの流れも経験もなかったから。
どうしても自然なキスが出来ない。
少し前、しようとした。
家でご飯を台所で作っているイルカの背後に立ち、イルカが振り返ったところで、ーー。
不意に近い距離になったカカシに気が付き、イルカは驚いた声を上げた。そこから少し顔を近づけたカカシに、イルカは素直に不思議そうな顔をしながらも怪訝そうな顔を見せた。
「驚かさないでください。気配消さないでくださいって前も言いましたよね?俺包丁持ってるんですよ」
イルカは包丁を軽く持ち上げカカシに見せる。
「手伝ってくれるんですか?」
背を向けられ、大根を再び切り始めるイルカに、カカシは少し言葉を失うが。うん、と答えるしかなかった。
「じゃあ、お皿、青い中皿2枚出して置いてください。あとお椀とーー」
落胆した事に、当たり前だがイルカは気が付いていなかった。
良かったと言えば良かった。
キスしようとして勘違いされ顔色なくす自分に気が付いて欲しい訳がない。
よく考えたら。
イルカには分からなくて当たり前なのかもしれない。
今まで身体の繋がりでしか、コミュニケーションをろくにとってこなかったのは事実で。
だから、イルカはまさか自分がそんな事を考えているなんて。思っても見ないのだろう。
自分が悪いと言えばそれまでだ。

カカシは小さく息を吐き出し、背を向けて本棚に向かって立っているイルカを見つめた。
この前は失敗したが。
でも。
こんなシチュエーションだったら。イルカだって流石に気が付くはずだ。
ーー今度こそ。

カカシは決意するように、自分に纏った緊張をなくすように。
再び息をゆっくり吐き出し、イルカに向かって足を一歩踏み出した。


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