手遅れ①

「どうしたの?」
細い煙草を吸いながら、聞いてきた女に目を向けた。
「何が?」
「ぼんやりしてる」
そう言われてもカカシには自覚がなかった。
「そーお?」
カカシは起きあがり脱ぎ捨てた服を手に取った。
「でもちゃんと集中してたでしょ?」
ふざけた口調で返しながら下着を身につける。
女が笑った。
「そうね」
アンダーウェアを着込んでいたカカシの腕に、女の手がかかる。
目を向けるとその赤い口元が微笑んだ。
「もう行くの?」
「任務」
それを聞いて同じ上忍である女は、なんだ、とその言葉で簡単に諦め、ため息混じりに手を離した。
少し前にたまたま任務で一緒になった女。ただそれだけで、向こうもそう思っている。
甘ったるい執着がないのがいい。
どの道忍びとして生きるのを選択したからには。後腐れないこんな関係が一番楽。
同じ死線を越えてきたから、お互いに持てる感情。
カカシは額宛てを縛りながら、ふと数日前の事を思い出す。
 たぶん俺はその人がずっと好きだ
ナルトにそう告げた時のイルカのあの表情。
嬉しそうに、ナルトに向かってはにかんだあの顔。
ずっと
死ぬまで
そんな相手に巡り会った事がない。
じわじわと胸が疼く。
今日この女と歩いている時に、偶然イルカに会った。いや、すれ違っただけが。
夕飯を一緒に食べようと女に誘われ。店まで向かっている時に。夕暮れ時の人混む時間帯に。イルカは買い物を済ませた後だったのか。買い物袋を手に提げていた。
一瞬目が合ったが、イルカによって直ぐに外された。
買い物袋から見えていたネギ。少し重そうだったのは他に重い野菜を買っていたのだろうか。
イルカが家で自炊する為に。
それと。
そんな買い物帰りで、あの見せたイルカの目。
「ほら、また」
「え?」
言われて女に顔を向けると、可笑しそうに微笑んだ。
「やっぱりぼーっとしてるように見えるけど」
カカシは一笑して女を視界から外す。
「気のせいでしょ」
覆面をして、カカシはポーチを付けると部屋から出た。




あ、と声を出したのは同時だった。
約束をすっぽかされた。ていうか女(紅)を選んだアスマに仕方なく一人で呑むことになり。
時間的に、案の定、込み合ってるのでカウンターでよろしければ、と店員に促され。通された先の席の横にいた相手を見て。
向こうも、店員に隣よろしいでしょうかと声をかけられ、顔を上げカカシの顔を見て。
同じように驚いた声を出した。
「こんばんは」
少し戸惑いを見せたイルカが先に頭を下げる。
「どーも」
カカシもニコと微笑んで、椅子を引いて腰を下ろした。
この前の会話から、勿論合うのは報告の時だけで。いつものように挨拶程度しか交わすこともなかった。
あの後、イルカと何か話そうかとカカシは思った。でも。向こうの警戒心たらない。ぎこちない笑顔を作られ、目を逸らされ。カカシは仕方なく何も言わない事を選んだ。
そこからのこのシチュエーションに、気まずさは感じたが。元々自分は伸びきった神経だ。
「ビールちょうだい。あと冷や奴と煮魚」
戸惑ったままのイルカを横目に、カカシはカウンター越しに注文する。
手渡された熱いおしぼりで手を拭った。
横目でイルカを窺えば、焼き魚に枝豆。それに半分まで呑んだビール。
「一人なの?」
カカシは口を開いていた。
魚へ向けていたイルカの箸が止まる。
「あ、ええ。まあ」
そこで魚の身を解しながら。
「友人と約束してたんですが、急に約束ドタキャンされちゃって」
「あ、俺も」
言うと、イルカが驚いたように顔をカカシに向けた。
「一緒だね」
微笑むと、そこで要約。初めてイルカの目が微笑んだ。
注文していたビールが置かれ、カカシは覆面を顎まで下げると、一気に半分呑んだ。今日は蒸し暑いから、冷たいビールが気持ちいい。
注文していた冷や奴が置かれる。それを箸で崩しながら。
「当てていーい?」
口にした言葉にイルカは、え、と声を出した。
「もう死んでる人って事はないよね?」
イルカはまた、え、と言った。カカシは薬味と一緒に豆腐を口に運ぶ。
「いやね、この前の話。イルカ先生の好きな人」
そこまで言ってビールを一口呑む。
イルカは。
少しぽかんとしてカカシを見ていた。ふっと表情が陰る。少し下に視線をずらした。
「いえ、残念ながら」
「ふーん」
カカシは顔を前に戻してまたビールを呑んだ。イルカの強い思いから、その可能性も勝手にあると思っていたが。
でも、違うのか。
煮魚が運ばれてくる。
「なんか気になっちゃってね」
笑ってみるも、イルカは何も答えない。
「だって俺の周りにはそんな情熱的なやついないし、」
イルカが笑いを零したのが聞こえた。
「俺は別に情熱的でも何でもないですよ。普通です」
「普通?」
今度はカカシが笑っていた。行儀悪く立て肘を付きながらグラスを傾けるカカシに。イルカは怪訝そうな目を向けた。
「普通じゃないでしょ。一生片思いする人なんてそう聞かないよ」
「...そんな事はないですよ」
「あるよ」
イルカの目つきが変わった。強い眼差しがカカシを見つめる。
そこで初めて自分が、ムキになっている事に気が付く。こんな事は滅多にない。
どうもこのタイプの人間と話す事もなかったからか。
調子が狂う。
大体。何で自分もこんなにムキになっていたんだろうか。もやもやした気持ちになった時、ふっと表情を消したイルカは、前を向く。
「すみません...」
謝られ、カカシはどうしたものかと、項に近い髪を掻いた。
「...ま、人それぞれだもんね」
カカシは立て肘をついたまま首筋に手を当て、イルカを見つめ。そこから斜め上へ視線を向けた。古びた梁はここの建物の年齢を表すように、濃い飴色を見せている。
黙ったイルカは、また魚を食べる事を再開させた。
その隣で、カカシはイルカの不機嫌な空気をただ黙って感じていた。
イルカは、カカシの言葉に素直に受け入れ、素直に向き合う。あまりにも真っ直ぐすぎて、何でイルカがここまで怒るのか。
この前の買い物袋を下げたイルカを見てから、どんな料理を作るのか、とか。何が食べ物が好きなのかとか、ふと浮かんだ疑問を聞きたいと思うのに。
この男はどこが地雷か分からない。
聞いたらまたどこかで不機嫌になるのだろうか。
カカシは隣でもくもくと魚を食べるイルカを横目で見てビールを呑みながら。カカシは沈黙を破ることにする。ビールを飲み干し、テーブルに置く。
「じゃあさ、すっごい高嶺の花を狙ってるとか?」
再会された質問に、イルカはどんな反応をするのか。窺っていると、こくりと魚を飲み込んで、そこからビールを一口呑んだ。
「....またその話ですか」
「いいじゃない」
少し砕けた甘えたような言い方に、イルカは、困ったように眉を寄せた。そこからふうと息を吐き出し、諦めたように口元を緩めたイルカは、カカシへ顔を向ける。
「違いますよ」
そう言った。
ああ、大丈夫そうだ。
カカシは内心安堵する。
「くノ一なんてそう数いないしねえ」
自分が知りうるくノ一が頭に浮かぶが、イルカと繋がりがあるとするならば、そこで半数以上が消える。
逆に、自分が知らないアカデミーの同僚や事務方の女だったらまず分からない。
カカシは箸を弄ぶように動かしながら、
「受付の目の大きい、」
「みさきさんですか、違います」
「じゃあ結構胸デカい子いたよね」
「違いますよ」
取りあえず口にしても呆気なく否定され、その言い方は相手に失礼ですよ、と注意され、カカシは口を尖らせた。
「はいはい...でも難しいなぁ。面食いじゃないって事だよね」
独り言のように呟くカカシに、イルカはクスリと笑ってビールを呑む。
「もういいじゃないですか」
言われてカカシはイルカへ顔を向けた。
「だって悔しいじゃない」
酒が入って少し気持ちが緩んでいるのか、カカシの子供みたいな口調に、イルカはまた目元を緩ませた。
「カカシさんには分かりっこないですよ」
その穏やかな表情が、カカシの癇に障った。丸で絶対に分からないと言い切られたような、言い方にも感じる。
カカシはイルカの顔を覗いた。
「余裕なんだね」
口の端を上げてイルカを上目遣いで見ると、イルカは一瞬目を丸くして。別に、と困ったような表情で目を逸らした。
カカシは小さく息を吐き出す。
「って事はさ。俺の知らない女って事でしょ?」
微かにイルカの眉根が寄った。が、直ぐにイルカは微笑む。
「どうでしょうね」
「うわ、はぐらかした」
カカシの言葉に、イルカはただ微笑むだけ。そこからふっと黒い目をカカシに向けた。
「カカシさんこそ、この前素敵な彼女と一緒だったじゃないですか」
切り替わった話に、カカシは首を傾げた。
素敵な彼女。何処かのラブソングの歌詞の一部のような。自分には縁のない。久方ぶりに耳にしたフレーズにも感じた。
「素敵な彼女?」
「あの、夕方。商店街で」
そこで分かる。あの数日前の事をイルカが言っていると。カカシは笑った。
「彼女じゃないよ、同僚」
そう言いながら、カカシはビールをカウンター越しに注文した。
空になったグラスを店員に渡し、そこからイルカへ顔を向ける。
「...イルカ先生?」
少し呆けたようなイルカの表情に、カカシは名前を呼んでいた。イルカはぴくりと反応してカカシを見る。
「どうしたの?」
聞けば、イルカは首を振った。
「いえ、てっきり...恋人かとばかり、」
カカシは笑ってイルカを見た。
「まさか。俺にはそう言うのいないの。あの日はたまたま会って飯食おうって言われただけ」
ほら、あの最近出来た中華の店。
そこまで言うと、イルカが、ワンテンポ遅れてああ、と相槌を打った。
「点心が美味しいって噂の」
「うん、そうそう。イルカ先生は行った?」
「まだなんです」
イルカは、眉を下げて残念そうに微笑む。
「そうなんだ。じゃあ今度一緒に行く?」
自然な会話だった。はずだった。
でも、イルカは。笑顔を固まらせた。
「俺...ですか?」
「うん。行ってないならさ、行こうよ。俺あの後任務入ってたからそんな食べなかったし」
片手で持っていたグラスを両手で掴み直しながら、イルカは俯いた。
「俺なんか...一緒に行っても楽しくないですよ」
その言葉が不思議に感じて、カカシは肩肘を付きながらイルカを見つめた。
「そーお?俺は今でも十分楽しいけど」
真面目に、素直に言っただけだった。イルカの前だと、手探りな部分もあるが、それ以上に変な警戒心が要らないと感じていた。要は、一緒にいても苦ではない、と言う事だ。
直後にグラスを持つイルカの手に、力が入ったのが分かった。
ああ、どっかまた地雷だったかなあ、と思うも、踏んだ後じゃ手遅れだし。なんて呑気に構えながらビールの呑む。
そんなカカシにイルカは顔を上げ、
「ありがとうございます」
目を緩ませながら、イルカは微笑んだ。


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