again⑦

いつにも増して酷い顔でイルカは鏡の前に立っていた。
泣きはらした目は重く腫れている。
何もかも嘘であって欲しいと思うのに。
熱を持った腫れぼったい顔は否応なしにこれが現実だと実感させる。
とりあえずこの顔をどうにかしないと。
イルカは洗面台の蛇口をひねり、冷水を顔に浴びせた。

自分に都合良く消していた記憶が戻った瞬間、目から涙が溢れた。それは止まる事がなく、真っ暗な校庭で一人イルカは泣いた。
あの時、カカシは自分の口にした言葉に驚いたわけでもなく呆れたわけでもなく、ーー傷ついたのだ。
どんな理由にせよ、俺はまたカカシを傷つけた。
一頻り泣いても涙は枯れなかった。拭いても拭いてもじわじわと目から涙が滲みイルカの頬を濡らした。
とっくに終バスがなくなっていた。こんな状態で電車を使う事は到底出来なくて、イルカは歩いて帰った。
さすがに知り合いと顔を合わす事はなかったが、全く人が通らない道があるわけでもなく。ぐずぐずと鼻を啜りながら歩く自分はさぞかし気味が悪かった事だろう。
なんとか家に戻ったイルカは靴を脱ぎ捨てるとそのまま着替えずにベットにもぐり込み、布団の中で声を出して泣いた。
今まで愚かにもずっと恋人同士だったと思いこんでいた事が悲しかった訳ではない。
思い出した全ての記憶と今の現状全てに感情が揺さぶられた。
ただ、もう十分泣いた。

ーーでも。
 馬鹿だねえ、お前は
苛立ちや呆れと、次期火影へ打診した自責の念が含んだ表情と共に発せられた綱手の言葉が頭を過ぎり、イルカは濡れた顔をタオルで拭きながら笑った。
今更ながら綱手様の言う通り、俺は馬鹿なのかもしれない。
いや、馬鹿以上に最低な男だ。
薄く笑って部屋に戻り、再びベットの上に仰向けに倒れ込んだ。
運良く今日が土曜日で良かった。
こんな顔でとても出勤は出来ない。
部屋は相変わらず汚れているし、昨日は風呂も入らず寝てしまった。今自分にやるべき事は、目の前にある部屋掃除ぐらいだろう。
ああ、その前に風呂風呂。
イルカは一呼吸置くと、そこからのそりと起きあがった。

自分の心は上手く整理はついていなかったが、気持ちは落ち着きを取り戻していた。
いつものように同じ時間に起き、顔を洗って昨日の夕飯の残りで朝食を食べる。
歯を磨き、身支度をしてイルカはバスの時間に間に合うよう家を出た。
朝ほど人が忙しく動いている時間はないだろう。昔の里の記憶もあるが、まだこの時代よりは皆ゆったりと朝の時間を過ごしていたように思える。
耳にイヤホンをして自転車を漕ぐ男子学生。携帯を見ながら早足で歩く女子高生や駅に駆け込むサラリーマン。皆口数もほとんどなく人の波に呑まれていく。
ごちゃごちゃとしたしかし殺伐とした雑踏を聞きながら、ふと里にいた頃が懐かしく思え、思わず歩きながら笑った。イルカはバス停からいつもと同じバスに乗った。
バスの中は自分の降りるバス停より先にある高校生でごった返していた。顔見知りがいるはずなのに、皆同じような顔で携帯へ視線を落としている。不意にカカシも同じように高校へ向かっているだろうか、とか頭を過ぎるがそれを締め出す。今日の授業を頭に浮かべた。

受け持つ3年生の月曜日は6時間授業だった。
給食が終わり昼休みが過ぎて掃除が終わると午後の授業が始まる。その頃から生徒達の中では眠たそうにする子供や、集中力に欠けてくる子供は少なくはない。
休み明けの月曜と言うことで尚更だるそうにしている子供も多い。
活を入れながら最後の体育の授業が終わり、片づけをしている中、
「先生」
一人の女子生徒が駆け寄ってきた。
振り返ると少し動揺しているのが分かる。
「どうした」
直ぐに問うイルカに、女子生徒が用具入れとなっている倉庫を指さした。
「男の子達が喧嘩してる。止めてもやめてくれないの」
またか。
ため息を吐き出した。何故か週始めの月曜か週終わりの金曜に揉め事を起こす事が多い。イルカは女子生徒の頭を撫でた。
「教えてくれてありがとうな。お前は先に教室戻ってろ、いいな?」
イルカのその一言で女子生徒はそれだけで安心したのか、ホッとした顔でこくりと頷いた。

駆けつけたイルカの目に飛び込んできたのは、生徒が馬乗りになって相手を殴っている光景だった。
イルカは駆け寄ると、殴っている男子生徒を掴んで相手から引きはがした。
「離せよっ」
尚も構わず相手に殴りかかろうとする少年を片手で抑え、地面に転がっている相手の生徒の怪我を確認する。
幸い怪我と言う怪我は見あたらず、ホッと胸をなで下ろすが、突き飛ばした時に転んだのだろうか、足の膝から血が滲んでいた。
片づけをしていた生徒四人のうち、さっきの女子生徒を含めこの子も喧嘩を始め取っ組み合っていた二人に驚き呆然としていたのだろう。その生徒へ顔を向けた。
「悪いがこいつ足を怪我してるから、保健室に連れて行ってくれるか?」
「え?あ、うん」
相手から引き離す事で宥める事が先決だと考えたイルカは、殴られ半泣きになりながらも殴った相手を睨んでいる生徒の肩に手を置いた。
「話は後でちゃんと聞く、先に保健室に行って手当を受けるんだぞ。分かったな」
イルカの念を押す声に、殴られていた生徒は渋々頷いた。
二人の背中を見送り、イルカはそこでようやく生徒から腕を離した。
「いってえ」
と、わざとらしいふてくされた声が返ってくるが、イルカはゆっくりとため息を吐き出した。
膝を折り、生徒の高さに視線を合わせる。
「何があった?」
「・・・・・・別に」
殴っていたその現状に、ばつが悪いのか生徒は顔を背ける。
イルカはじっとその横顔を見つめた。
「そうか?じゃあお前は理由もなく相手を殴るようなやつだったのか?」
「違う!」
憤って声を荒げた生徒は、イルカに勢いよく向き直り、そこからまた視線を地面に落とした。
「・・・・・・理由もないのに殴ったなんか・・・・・・するもんか」
「だよな」
頭を撫でると、驚き顔を上げる生徒に優しく微笑む。
「そんな事は俺が一番よく知ってる」
瞬間、生徒の顔が強ばり、目から涙がこぼれ落ちた。
「あいつ・・・・・・俺の事馬鹿にしたから」
零れる涙を自分の拳でごしごし拭きながら、生徒は呟くように口にした。
「俺が、音楽の先生の事好きだって、言ったら馬鹿にしてきて」
「え?」
驚き聞き返すと、涙で濡らした目がイルカを見つめた。
「音楽の先生が好きだって言っただけなのに」
この春学校に新しく入った音楽を担当している女性教員は、教員免許を取ったばかりでイルカよりひとまわり若い。
面白くて楽しいと自分の受け持つクラスの生徒にも人気があった。ちょうど自分とカカシが出会ったのも同じ年齢だった事を不意に思い出した。
「ねえ先生、何もおかしくないよね?」
聞かれて心臓が鳴った。慌ててまた、え?と聞き返すと生徒が口を開く。
「俺が音楽の先生を好きだって事」
今度は胸がズキリと痛んだ。
この目の前にいる生徒は男で、好きだと言う先生は女性で。だから生徒の言っている事と自分とカカシとを重ねる事は違うと思うのに。その質問はイルカの胸に重くのしかかった。
「・・・・・・いや、何もおかしくない」
「そうだよね」
「ああ、そうだ。好きになった相手がたまたま先生だったって事だろう。確かに歳は離れているが、その気持ちをおかしいなんて俺は・・・・・・思わない」
「だよね!」
「ああ、ただ暴力はよくない」
イルカの台詞にぐっと生徒は苦しそうに口をへの字にし、声のトーンが下がった。
「それは・・・・・・」
「自分の大切な気持ちを否定されて馬鹿にされたら誰だって怒るのは当たり前だ。でもな、だからといって相手を殴るのは間違ってる。そうだろ?」
「・・・・・・うん」
うなだれた生徒の頭を優しく撫でる。
「じゃあどうする?」
「・・・・・・謝る」
「そうだな。たぶん向こうも今頃保健室で悪かったって思ってるはずだ」
「そうかな?」
聞かれてイルカは目を細めて微笑んだ。
「ああ」
「俺謝ってくる!」
「あ、おい」
「じゃあ教室で」
明るい声でそう返事されイルカはつられて笑い、教室でな、と手を振った。彼の背中から成長を感じ、それはイルカにとって誇らしく感じた。
上げていた手を下ろしながら、イルカの笑顔が消える。

しかし。じゃあもし生徒の思う相手が。男子生徒の思う相手が男性の教員だっとしたら、俺の答えは変わったのだろうか。
答えはーー変わらないと分かっている。
生徒とは違い自分に複雑な事情が絡んでいようとも、それは変わらないはずなのに。
何が間違っていて何が正論なのか。
自分の事を棚に上げて子ども達に言える立場じゃないじゃないのに。
なのに俺は。
頭の中がぐしゃぐしゃになりそうになり、イルカは思わず空を仰いだ。
大きく深呼吸し、ゆっくりと目を開けると教室へ向かって歩き出した。



NEXT→

スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。