絵本の中の君③
「悪かったね」
積み上げられた書類と薬学の本の間から綱手が顔を上げた。
「いえ、これで以上ですか?」
頼まれた書類を執務室へ運び込んだイルカは未だ未整理として山積みされている書類が置かれた机の上に置いた。
「ああ、今日はそんなものだな」
そうイルカに告げる綱手の視線は、既に広げられた書類の束に落とされていた。
忙しいのは分かるが。
あまり無理をなさらないで欲しい。
綱手が労わられるのが嫌いなのは知っている。
だからこそ人一倍優しいのだが。
「では、失礼します」
軽く頭を下げる。
「カカシと仲良くしてるそうだな」
背を向け扉に手をかけた時、綱手の思いもよらない台詞に身体が固まった。ドクリ、と心臓が血液を早く流し始めた。
振り返れば綱手は変わらず視線を机に向けたまま。
鼓動の早さからか体温の変化からか、すぐに嘘は見抜かれる。綱手に誤魔化しは効かない。どう返答すべきか思案していると、綱手は動かしていたペンを止め、ようやく頭を上げた。
その目はイルカ全体を眺め、最後に褐色の瞳をイルカの顔に向けた。
「何だい。知らないとでも思ってたのかい」
「……あ、……いえ」
「今はね、出払って誰もここにはいやしないよ」
催促とばかりに投げやりに片手を上げた。
「で、どうなんだい」
「……はい、お付き合いさせてもらってます…」
しおらしいイルカの返答にやはりなと言いたげに、軽く鼻を鳴らした。
「お前だったら他に相手がいくらでもいるだろう」
「俺は…全く…」
それはカカシに言う言葉ではないのか。
自分のような特徴もない何処にでもいる普通の男は、良い人止まりで昇格はなかなかない。口下手となると更にだ。
綱手は大袈裟に溜息をつき、頭が痛いと指を額に当てた。
「…どれだけ愚純なんだろうね」
「はぁ…」
イルカはどう取ればいいのか分からず苦笑した。
「良くも悪くも、お前は本当に真面目だな」
固まっているイルカを、呆れ半分の表情で見て腕を組む。張り艶のある豊満な胸が強調された。
「……それで。これは本気なのか?」
未決済の棚からおもむろに取り出し、任務申請書をイルカに見せた。
イルカの名前が入っている。イルカ自身が申請した。
綱手の印は押されていない。
ナルトが里を離れてから、各国の国境付近で戦いが増えてきている。
木の葉も例外ではない。
不安定な情勢に上忍元より能力に長けた中忍も任務で里を離れる事が増えてきていた。
カカシももう2週間、戻ってきていない。
申請は先月からしていた。中々書類が降りてこないとは思っていたが。成る程綱手で止まっていたのか。
綱手は申請書を見詰めるイルカの顔をじっと見た。
「……今は人手が足りない。それは事実だ。しかしな、お前は里で生徒を見る立場だろう……違うか」
計るような眼差しがイルカに向けられた。
「俺より他に教師は沢山います。だけど、戦地へ行ける者は少ない。俺は今すべき事を選択しただけです」
「今すべき事だと?」
「最前線でなくとも、忍びとして俺は共に戦いたいんです」
綱手は短い笑を零した。笑い捨てた様にも感じる笑い方だった。だが目は笑っていない。
イルカを見据えた。
「…まさかカカシと、とは言わんだろうな。戦い方は様々だ。お前はそれをわきまえてると思ってたのは間違いだったようだね」
一瞬顔を曇らせる。が、すぐに表情を戻した。見た目は若く綺麗な女性だが、眼光はかなり鋭い。
「私はね、誰も無駄死にさせるつもりはないよ」
「はい。分かっています」
申請書を机に置き、両手を組んで顎を支えた。眉間に深い皺が見て取れる。
「………前線には派遣許可は出来ない。策源地だ。いいな」
「はい、構いません」
「……いい大人の色恋に口を挟むつもりはないけどね……」
考え込む様に綱手は言葉を切った。
「俺には、大切な人です」
相手が綱手だから言える言葉だと、敢えてイルカは口にした。
イルカの言葉に褐色の瞳がから表情が消え、暫く間を置いた後、口を開いた。
「……まぁいい、話は以上だ」
話に取り残された気分のイルカは眉をひそめたが、用は済んだと片手を振られ、仕方なく執務室を後にする。
イルカが去り、暫くして綱手は1人嘆息を漏らした。机に置かれたイルカの任務申請書に目を落とす。
「カカシと同じ事言うんじゃないよ」
眉間に皺を寄せ掌を額に当てる。深刻な表情を誰に隠すでもなく、その顔を両手で覆った。
*
カカシが帰ってきたのは3日後だった。
夕飯を仕度していたイルカは、玄関の開いた音に振り返った。
「お帰りなさい」
ひょこりと顔を出して言えば、カカシは屈んで靴を脱いでいた。俯いたまま顔を中々上げない。
「………カカシさん?」
疲れているとは言えどことなく様子がおかしい。どこか怪我をしたのか。
カカシの顔を伺おうとした時、顔を上げた。
ーーあれ。
なんだろう。なんと言うか…覇気がない、気がする。疲れて果てているみたいだ。そのくらい酷い戦場だと話には聞いていたが。
「カカシさん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
かぶせる様に言われて、
「お疲れでしょう。お風呂にしますか?」
「……………」
黙ったまま動かないカカシは自分をジッと見ている。見ているが、焦点が合ってないような。
流石に心配が湧き上がりイルカは眉頭を寄せた。
「カカシさん」
前に進み腕に触れようと手を上げた時、その手をカカシが掴んだ。
「俺、言ったよね」
低い声だった。
言ったって、何をだ?
考えるより先にカカシが言葉を繋いだ。
「戦場にはいかないでって、言ったじゃない」
動揺は直ぐに顔に現れる。
イルカは目を泳がせカカシから視線を外した。
誰にも言っていない情報のはずだ。申請書をあげる事務方の人間と、戦場にいたカカシが接触するはずがない。
あるとすれば、ーー五代目。たぶんでなくとも、きっとそうだろう。
イルカが戦場へ行くのをすぐに賛成とは思っていなかった、あの強い眼差しが脳裏に浮かんだ。
「答えて」
掴む手が強くなり、イルカは顔を顰めた。
「……っ、でも俺は決めたんです。確かにカカシ先生から行かないでと言われました。だけど俺だって木の葉の忍びです。情況は悪くなる一方で、ここで、あなたの帰りを待つだけなんて嫌なんです」
言い切った口調に、ぐっとカカシの眉間に皺が寄った。
「情況の変化を一介の中忍が予想出来るものじゃないよ」
的を射ていたが余りにも無粋だ。かぁっと顔が赤く染まり、悔しさにイルカは唇を噛んだ。
「そんな事は…分かってます」
「その状況が悪くならないように俺たちは命を懸けてます。ナルトの修行もじき終わるでしょう。全て上手くは行かないかもしれないけど、皆出来る事をしている」
「…俺だって出来る事をしたいから申請したんです」
「駄目だ!」
カカシの大きな声はイルカの身体を竦みあがらせた。
いつもの穏和で物腰の柔らかいカカシではない。滲み出る怒りに似た殺気に、イルカは知らずと額に汗をかいていた。
イルカの様子にカカシは自分を抑えるように口を開いた。
「…あなたにはアカデミーに生徒がいるじゃない」
「でもそれは俺でなくても、」
「あなたじゃなきゃ駄目なんだ」
懇願に近い響きだった。カカシは強い眼差しで間近にあるイルカを見詰めた。
必要とされる事は嬉しい。今まで培ってきたものを認められ、役職冥利に尽きる。
だけど、自分も忍びとして果たすべき事もあるはずだ。
教え子が戦場に行くのを送り、迎える立場だけでいたくない。カカシにだってそうだ。カカシが最前線へ出かけるのを黙って見送り、帰るまで不安を胸に抱き待ち続ける。
こんなに里が不安定になってきてるのに。
カカシの指に力が抜け、スルリと外された。
「何で分からないかな」
苛立ちを含めた言葉を吐き、カカシは困り果てた顔をした。
カカシさんこそ、何で分かってくれないんだ。
カカシの矢印と自分の矢印は交差を出来ずに行き場をなくし、ただ、自分の意見を喋っているだけだ。
だが、上手く伝えれない。
近くにいるのに。手を伸ばせばすぐ触れるのに。カカシがなんだかとても遠く感じる。
か細い糸で繋がってるようだ。
「今すぐ申請を取り消して下さい」
その糸さえ呆気なく断ち切られた気がした。
発せられた言葉はあまりにもそっけなく、冷たい声色だった。
反抗心に似た感情がイルカを包む。
「嫌です」
ギュッと拳に力を入れる。
カカシがゆっくりと息を吐き出したのが聞こえた。
嫌な空気だ。険悪どころではない。カカシとの距離が一気に離れてしまった気がする。
「……頑固なあなたは嫌いじゃないけど、今回は可愛くないですね」
カカシの手がイルカの頬に触れた。冷たい指先でゆっくりと摩る。
優しく摩るのに、カカシは無表情で冷え切った目をしている。
変だ。今日のカカシはおかしい。
意見の食い違いにカカシがこんなにも喰い下がらない事はなかった。
戦場から帰ったばかりで精神が昂ぶっているからか。いや、カカシ程の忍びが今回の任務で鋼の精神を乱されるとは到底思えない。
侮辱するような言葉さえ敢えて選んで言っているようにも見える。申請を取り下げろだなんて。
どうしてしまったんだ。カカシが分からない。それか、単に俺の身を案じてるからだろうか。カカシを案じるからこそ、その気持ちは否定できない。だけど話し合いすら持とうとしない姿勢に疑問を感じてしまう。
「あの、カカシさん俺の派遣先は策源地です」
「知ってますよ。何処だろうが戦地に変わりない。戦況は常に変化するんだ。あなたがいつ最前線に物資を補給しに来る事になるか分からないでしょ?」
イルカは直ぐに反論出来なかった。
「それで自分の身を確保したとでも俺に言いたいの?戦場がどんなだか知ってる?笑わせないでよ」
イルカはぎゅっと唇を噛み俯いた。
カカシの言っている事は正しい。実戦経験の無さを浮き彫りにされれば、それまでだ。
しかし、経験は積むもので、このまま里の平和に浸かってるわけにはいかない。
口に出そうとした時、カカシが溜息を零して前髪をかき上げた。
不毛な会話しても無意味なんだよね。
ぼそりと呟かれ、顔を上げカカシを見た。
カカシは心底困った顔をしていた。
「ね、先生。どうしたら行かないでくれるの?」
ガシガシと頭を掻いて、その手をイルカの肩に乗せる。
「どうしたらって…」
「望む体制があるなら俺から上に話しつけるから、言ってよ」
「な、何言ってるんですか?カカシさんらしくないですよ」
「お願い、行かないで。ね、ここに居て」
カカシの口調は少し早口になっている。
イルカは眉をひそめた。カカシの顔色は悪くなっていく一方だ。
変に鼓動が早まった。
「カカシさん…」
言っている事は滅茶苦茶だ。
肩に置かれた手は徐々に力がこもる。カカシの指は食い込み骨がギシリと音を立て、思わず顔を顰めた。
「っ、いたっ、痛いです」
「この肩壊したら任務なんて行けないね」
「……え?」
一瞬肩の痛みを忘れた。
今、なんて言った?
ワンテンポ遅れてカカシの言った意味が脳に入り、イルカの顔がみるみる青くなった。
今のは本当にカカシの言葉なのか。
そんなイルカを気にする訳でもなく視線を腕に移した。
「それとも腕にする?脚でもいいよね」
「何言って……」
不意に肩を掴んでいた手が緩み、瞬間軽々身体を担がれた。
「カカシさん!?」
イルカの声は耳に届いていないかの様に、答える事はなかった。
荒々しく寝台に乗せると両手首を掴みあげられる。物凄い力はイルカの抵抗をビクともさせない。カカシのもう片方の手は腰にあるポーチを探る。
出された紐に目を開いた。
「カカシさん、何を…」
カカシは涼しい顔のまま、器用な指先はイルカの両手首をみるみるうちに寝台に縛り上げる。
そのままカカシは身体を下にずらし、両足首も同じ様に縛り上げる。
ここまでされ、ようやく気がついた。正気の沙汰ではない。
もはや冗談ではすまされなくなっている。
身体は寝台に縛り付けられていた。
「何の真似ですか…こんな事してどうするつもりです」
冷ややかに見下ろしているカカシを睨みつければ、ん?と首を傾げた。
「あなたが余りに強情だから。暫くは頭を冷やしてもらいますよ」
さも当たり前のように言い、カカシは続ける。
「五代目には俺から言って申請を取り消してもらいます。体調不良とでも言っておきますか。理由は何とでもつけれますからね」
底冷えする目に背中がヒヤリと冷たいものが走る。
「待ってください。こんなやり方あなたらしくない。カカシさん、これを解いて。考え直してください」
カカシは短く笑いを零した。
「先生口調で説教ですか」
「そんなつもりは、俺はただ……」
「あなたがいけないんですよ。俺の言った事を守っていればこんな事にならなかったのに…イルカ先生がいけないんだ」
カカシは悲しそうな顔をしていた。縛り付けられているのは自分なのに、カカシは苦しそうに顔を顰めた。
「何処にも行かないで。…イルカ先生はずっとここに居て」
お願いだから、とカカシが指を伸ばし頬に触れた。手甲から伸びる白くて長い指。イルカが大好きな手だ。
カカシの素顔が見たい。素直に思った。帰ってきたままのカカシは未だ右目しか露わにしていない。
その右目を薄っすら細めた。この状況にそぐわない顔。カカシ屈み込み銀髪が頬にかかる。
「俺の側から離れないで」
口布を指で引き下ろす。
囁かれる吐息が首元にかかり、柔らかい唇を押し当てられた。カカシの舌がネロリと這い身体がびくりと跳ねた。
「カカシさん」
「イルカ先生……」
酷く優しい声色で恋人が甘く囁く。
「何処にも行かせない。俺がイルカを守る」
カカシの手がイルカの上衣から中に入り込む。
全身がゾワリと波立った。無抵抗な格好にされているイルカは不安ともどかしさに身を捩る。
「お願いです。解いてください…っ」
「イルカ、イルカ…」
耳に届いていないのか。弄る手はさらに上に移動してイルカの弱い場所を探り当てる。
「カカシさん、止めて」
イルカの呼吸が荒くなる。
動けないのが辛いのか。カカシに言葉が届いていないから辛いのか。
たぶん両方だ。自然と黒い目が潤みを増し、涙が溜まる。
カカシは顔を上げ、額当てを取り床に落とした。カン、と金属音が響く。
「愛してるよ、イルカ」
薄暗い部屋の中、カカシは確かに笑った。
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積み上げられた書類と薬学の本の間から綱手が顔を上げた。
「いえ、これで以上ですか?」
頼まれた書類を執務室へ運び込んだイルカは未だ未整理として山積みされている書類が置かれた机の上に置いた。
「ああ、今日はそんなものだな」
そうイルカに告げる綱手の視線は、既に広げられた書類の束に落とされていた。
忙しいのは分かるが。
あまり無理をなさらないで欲しい。
綱手が労わられるのが嫌いなのは知っている。
だからこそ人一倍優しいのだが。
「では、失礼します」
軽く頭を下げる。
「カカシと仲良くしてるそうだな」
背を向け扉に手をかけた時、綱手の思いもよらない台詞に身体が固まった。ドクリ、と心臓が血液を早く流し始めた。
振り返れば綱手は変わらず視線を机に向けたまま。
鼓動の早さからか体温の変化からか、すぐに嘘は見抜かれる。綱手に誤魔化しは効かない。どう返答すべきか思案していると、綱手は動かしていたペンを止め、ようやく頭を上げた。
その目はイルカ全体を眺め、最後に褐色の瞳をイルカの顔に向けた。
「何だい。知らないとでも思ってたのかい」
「……あ、……いえ」
「今はね、出払って誰もここにはいやしないよ」
催促とばかりに投げやりに片手を上げた。
「で、どうなんだい」
「……はい、お付き合いさせてもらってます…」
しおらしいイルカの返答にやはりなと言いたげに、軽く鼻を鳴らした。
「お前だったら他に相手がいくらでもいるだろう」
「俺は…全く…」
それはカカシに言う言葉ではないのか。
自分のような特徴もない何処にでもいる普通の男は、良い人止まりで昇格はなかなかない。口下手となると更にだ。
綱手は大袈裟に溜息をつき、頭が痛いと指を額に当てた。
「…どれだけ愚純なんだろうね」
「はぁ…」
イルカはどう取ればいいのか分からず苦笑した。
「良くも悪くも、お前は本当に真面目だな」
固まっているイルカを、呆れ半分の表情で見て腕を組む。張り艶のある豊満な胸が強調された。
「……それで。これは本気なのか?」
未決済の棚からおもむろに取り出し、任務申請書をイルカに見せた。
イルカの名前が入っている。イルカ自身が申請した。
綱手の印は押されていない。
ナルトが里を離れてから、各国の国境付近で戦いが増えてきている。
木の葉も例外ではない。
不安定な情勢に上忍元より能力に長けた中忍も任務で里を離れる事が増えてきていた。
カカシももう2週間、戻ってきていない。
申請は先月からしていた。中々書類が降りてこないとは思っていたが。成る程綱手で止まっていたのか。
綱手は申請書を見詰めるイルカの顔をじっと見た。
「……今は人手が足りない。それは事実だ。しかしな、お前は里で生徒を見る立場だろう……違うか」
計るような眼差しがイルカに向けられた。
「俺より他に教師は沢山います。だけど、戦地へ行ける者は少ない。俺は今すべき事を選択しただけです」
「今すべき事だと?」
「最前線でなくとも、忍びとして俺は共に戦いたいんです」
綱手は短い笑を零した。笑い捨てた様にも感じる笑い方だった。だが目は笑っていない。
イルカを見据えた。
「…まさかカカシと、とは言わんだろうな。戦い方は様々だ。お前はそれをわきまえてると思ってたのは間違いだったようだね」
一瞬顔を曇らせる。が、すぐに表情を戻した。見た目は若く綺麗な女性だが、眼光はかなり鋭い。
「私はね、誰も無駄死にさせるつもりはないよ」
「はい。分かっています」
申請書を机に置き、両手を組んで顎を支えた。眉間に深い皺が見て取れる。
「………前線には派遣許可は出来ない。策源地だ。いいな」
「はい、構いません」
「……いい大人の色恋に口を挟むつもりはないけどね……」
考え込む様に綱手は言葉を切った。
「俺には、大切な人です」
相手が綱手だから言える言葉だと、敢えてイルカは口にした。
イルカの言葉に褐色の瞳がから表情が消え、暫く間を置いた後、口を開いた。
「……まぁいい、話は以上だ」
話に取り残された気分のイルカは眉をひそめたが、用は済んだと片手を振られ、仕方なく執務室を後にする。
イルカが去り、暫くして綱手は1人嘆息を漏らした。机に置かれたイルカの任務申請書に目を落とす。
「カカシと同じ事言うんじゃないよ」
眉間に皺を寄せ掌を額に当てる。深刻な表情を誰に隠すでもなく、その顔を両手で覆った。
*
カカシが帰ってきたのは3日後だった。
夕飯を仕度していたイルカは、玄関の開いた音に振り返った。
「お帰りなさい」
ひょこりと顔を出して言えば、カカシは屈んで靴を脱いでいた。俯いたまま顔を中々上げない。
「………カカシさん?」
疲れているとは言えどことなく様子がおかしい。どこか怪我をしたのか。
カカシの顔を伺おうとした時、顔を上げた。
ーーあれ。
なんだろう。なんと言うか…覇気がない、気がする。疲れて果てているみたいだ。そのくらい酷い戦場だと話には聞いていたが。
「カカシさん、大丈夫ですか」
「大丈夫」
かぶせる様に言われて、
「お疲れでしょう。お風呂にしますか?」
「……………」
黙ったまま動かないカカシは自分をジッと見ている。見ているが、焦点が合ってないような。
流石に心配が湧き上がりイルカは眉頭を寄せた。
「カカシさん」
前に進み腕に触れようと手を上げた時、その手をカカシが掴んだ。
「俺、言ったよね」
低い声だった。
言ったって、何をだ?
考えるより先にカカシが言葉を繋いだ。
「戦場にはいかないでって、言ったじゃない」
動揺は直ぐに顔に現れる。
イルカは目を泳がせカカシから視線を外した。
誰にも言っていない情報のはずだ。申請書をあげる事務方の人間と、戦場にいたカカシが接触するはずがない。
あるとすれば、ーー五代目。たぶんでなくとも、きっとそうだろう。
イルカが戦場へ行くのをすぐに賛成とは思っていなかった、あの強い眼差しが脳裏に浮かんだ。
「答えて」
掴む手が強くなり、イルカは顔を顰めた。
「……っ、でも俺は決めたんです。確かにカカシ先生から行かないでと言われました。だけど俺だって木の葉の忍びです。情況は悪くなる一方で、ここで、あなたの帰りを待つだけなんて嫌なんです」
言い切った口調に、ぐっとカカシの眉間に皺が寄った。
「情況の変化を一介の中忍が予想出来るものじゃないよ」
的を射ていたが余りにも無粋だ。かぁっと顔が赤く染まり、悔しさにイルカは唇を噛んだ。
「そんな事は…分かってます」
「その状況が悪くならないように俺たちは命を懸けてます。ナルトの修行もじき終わるでしょう。全て上手くは行かないかもしれないけど、皆出来る事をしている」
「…俺だって出来る事をしたいから申請したんです」
「駄目だ!」
カカシの大きな声はイルカの身体を竦みあがらせた。
いつもの穏和で物腰の柔らかいカカシではない。滲み出る怒りに似た殺気に、イルカは知らずと額に汗をかいていた。
イルカの様子にカカシは自分を抑えるように口を開いた。
「…あなたにはアカデミーに生徒がいるじゃない」
「でもそれは俺でなくても、」
「あなたじゃなきゃ駄目なんだ」
懇願に近い響きだった。カカシは強い眼差しで間近にあるイルカを見詰めた。
必要とされる事は嬉しい。今まで培ってきたものを認められ、役職冥利に尽きる。
だけど、自分も忍びとして果たすべき事もあるはずだ。
教え子が戦場に行くのを送り、迎える立場だけでいたくない。カカシにだってそうだ。カカシが最前線へ出かけるのを黙って見送り、帰るまで不安を胸に抱き待ち続ける。
こんなに里が不安定になってきてるのに。
カカシの指に力が抜け、スルリと外された。
「何で分からないかな」
苛立ちを含めた言葉を吐き、カカシは困り果てた顔をした。
カカシさんこそ、何で分かってくれないんだ。
カカシの矢印と自分の矢印は交差を出来ずに行き場をなくし、ただ、自分の意見を喋っているだけだ。
だが、上手く伝えれない。
近くにいるのに。手を伸ばせばすぐ触れるのに。カカシがなんだかとても遠く感じる。
か細い糸で繋がってるようだ。
「今すぐ申請を取り消して下さい」
その糸さえ呆気なく断ち切られた気がした。
発せられた言葉はあまりにもそっけなく、冷たい声色だった。
反抗心に似た感情がイルカを包む。
「嫌です」
ギュッと拳に力を入れる。
カカシがゆっくりと息を吐き出したのが聞こえた。
嫌な空気だ。険悪どころではない。カカシとの距離が一気に離れてしまった気がする。
「……頑固なあなたは嫌いじゃないけど、今回は可愛くないですね」
カカシの手がイルカの頬に触れた。冷たい指先でゆっくりと摩る。
優しく摩るのに、カカシは無表情で冷え切った目をしている。
変だ。今日のカカシはおかしい。
意見の食い違いにカカシがこんなにも喰い下がらない事はなかった。
戦場から帰ったばかりで精神が昂ぶっているからか。いや、カカシ程の忍びが今回の任務で鋼の精神を乱されるとは到底思えない。
侮辱するような言葉さえ敢えて選んで言っているようにも見える。申請を取り下げろだなんて。
どうしてしまったんだ。カカシが分からない。それか、単に俺の身を案じてるからだろうか。カカシを案じるからこそ、その気持ちは否定できない。だけど話し合いすら持とうとしない姿勢に疑問を感じてしまう。
「あの、カカシさん俺の派遣先は策源地です」
「知ってますよ。何処だろうが戦地に変わりない。戦況は常に変化するんだ。あなたがいつ最前線に物資を補給しに来る事になるか分からないでしょ?」
イルカは直ぐに反論出来なかった。
「それで自分の身を確保したとでも俺に言いたいの?戦場がどんなだか知ってる?笑わせないでよ」
イルカはぎゅっと唇を噛み俯いた。
カカシの言っている事は正しい。実戦経験の無さを浮き彫りにされれば、それまでだ。
しかし、経験は積むもので、このまま里の平和に浸かってるわけにはいかない。
口に出そうとした時、カカシが溜息を零して前髪をかき上げた。
不毛な会話しても無意味なんだよね。
ぼそりと呟かれ、顔を上げカカシを見た。
カカシは心底困った顔をしていた。
「ね、先生。どうしたら行かないでくれるの?」
ガシガシと頭を掻いて、その手をイルカの肩に乗せる。
「どうしたらって…」
「望む体制があるなら俺から上に話しつけるから、言ってよ」
「な、何言ってるんですか?カカシさんらしくないですよ」
「お願い、行かないで。ね、ここに居て」
カカシの口調は少し早口になっている。
イルカは眉をひそめた。カカシの顔色は悪くなっていく一方だ。
変に鼓動が早まった。
「カカシさん…」
言っている事は滅茶苦茶だ。
肩に置かれた手は徐々に力がこもる。カカシの指は食い込み骨がギシリと音を立て、思わず顔を顰めた。
「っ、いたっ、痛いです」
「この肩壊したら任務なんて行けないね」
「……え?」
一瞬肩の痛みを忘れた。
今、なんて言った?
ワンテンポ遅れてカカシの言った意味が脳に入り、イルカの顔がみるみる青くなった。
今のは本当にカカシの言葉なのか。
そんなイルカを気にする訳でもなく視線を腕に移した。
「それとも腕にする?脚でもいいよね」
「何言って……」
不意に肩を掴んでいた手が緩み、瞬間軽々身体を担がれた。
「カカシさん!?」
イルカの声は耳に届いていないかの様に、答える事はなかった。
荒々しく寝台に乗せると両手首を掴みあげられる。物凄い力はイルカの抵抗をビクともさせない。カカシのもう片方の手は腰にあるポーチを探る。
出された紐に目を開いた。
「カカシさん、何を…」
カカシは涼しい顔のまま、器用な指先はイルカの両手首をみるみるうちに寝台に縛り上げる。
そのままカカシは身体を下にずらし、両足首も同じ様に縛り上げる。
ここまでされ、ようやく気がついた。正気の沙汰ではない。
もはや冗談ではすまされなくなっている。
身体は寝台に縛り付けられていた。
「何の真似ですか…こんな事してどうするつもりです」
冷ややかに見下ろしているカカシを睨みつければ、ん?と首を傾げた。
「あなたが余りに強情だから。暫くは頭を冷やしてもらいますよ」
さも当たり前のように言い、カカシは続ける。
「五代目には俺から言って申請を取り消してもらいます。体調不良とでも言っておきますか。理由は何とでもつけれますからね」
底冷えする目に背中がヒヤリと冷たいものが走る。
「待ってください。こんなやり方あなたらしくない。カカシさん、これを解いて。考え直してください」
カカシは短く笑いを零した。
「先生口調で説教ですか」
「そんなつもりは、俺はただ……」
「あなたがいけないんですよ。俺の言った事を守っていればこんな事にならなかったのに…イルカ先生がいけないんだ」
カカシは悲しそうな顔をしていた。縛り付けられているのは自分なのに、カカシは苦しそうに顔を顰めた。
「何処にも行かないで。…イルカ先生はずっとここに居て」
お願いだから、とカカシが指を伸ばし頬に触れた。手甲から伸びる白くて長い指。イルカが大好きな手だ。
カカシの素顔が見たい。素直に思った。帰ってきたままのカカシは未だ右目しか露わにしていない。
その右目を薄っすら細めた。この状況にそぐわない顔。カカシ屈み込み銀髪が頬にかかる。
「俺の側から離れないで」
口布を指で引き下ろす。
囁かれる吐息が首元にかかり、柔らかい唇を押し当てられた。カカシの舌がネロリと這い身体がびくりと跳ねた。
「カカシさん」
「イルカ先生……」
酷く優しい声色で恋人が甘く囁く。
「何処にも行かせない。俺がイルカを守る」
カカシの手がイルカの上衣から中に入り込む。
全身がゾワリと波立った。無抵抗な格好にされているイルカは不安ともどかしさに身を捩る。
「お願いです。解いてください…っ」
「イルカ、イルカ…」
耳に届いていないのか。弄る手はさらに上に移動してイルカの弱い場所を探り当てる。
「カカシさん、止めて」
イルカの呼吸が荒くなる。
動けないのが辛いのか。カカシに言葉が届いていないから辛いのか。
たぶん両方だ。自然と黒い目が潤みを増し、涙が溜まる。
カカシは顔を上げ、額当てを取り床に落とした。カン、と金属音が響く。
「愛してるよ、イルカ」
薄暗い部屋の中、カカシは確かに笑った。
NEXT→
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