絵本の中の君⑦

里を出る為の荷物は纏めた。
昨夜見た報告書を見てから頭痛が止まない。
仕方がなくイルカは嫌いな薬を口にして、溜息を零した。
一睡もしないまま悩んだ。
報告書を持ってカカシに問い詰めようかと、何度も思ったが出来なかった。
カカシはどうして嘘をついていたのか。何を知り、何を怖がっているのか。
あの報告書は紛れもなく自分とカカシが繋がっていた証なのに。自分に記憶がないから考える事も出来ない。
再び頭痛が襲い、その痛みに顔を顰めた。
問い詰めたとしても、きっとカカシは何も話さない。素直に話すくらいならきっとこんな事にもならなかっただろう。
元より会う事すら拒まれているのに。
綱手に話しても、あの時期は綱手は里に不在だった。知っていたとしても話すとは思えない。
誰にぶつける事も出来ない怒りと同時に現れるどうしようもない不安は、イルカの頭を混乱させた。
カカシの口からでた自分の名前。
ーー虚ろな目。
あの目だけは気になっていた。時々彼はあの目をして、自分を呼んだ。
呼ばれる名前は確かに自分の名前なのに。その場にいない誰かに囁くようだった。

ただ単に反対を押し切り、戦地に任務派遣の希望を出したから、そこからくる過度な心配からカカシはおかしくなったのだと思っていた。
だけどそれは些細なきっかけで、大きな元凶が他にあるとしたらーー。
自分の知らない記憶にあるとしたら。
見えない不安に押しつぶされそうになる。
ドクドクと心臓が波打つ。
纏めた荷物を見下ろした。
今日里を出なくてはならない。
カカシが好きだ。どうしようもなく好きだ。
好きだからカカシの為に里を出ると決めた。
でも、これで本当にいいのか分からない。
ーー逃げるのか、俺は。
鞄を持つ手に力が入る。

ドアを叩かれ顔を上げた。
誰だろう。里を発つ事はほとんどの人は知らない。
でも、きっとカカシじゃ無い。
何故だろう。なんとなく分かる。あの目を見た時、カカシはもう自分には会いに来ないと感じた。
早朝とは言えまだ外は暗い。
再び響く扉の叩く音に息を吐いてイルカは立ち上がった。
目の前にいる意外な人に驚き目を丸くする。
「……おはようございます。今、いいですか」
シズネは申し訳なさそうに頭を下げた。

綱手からの火急な用かと伺えば首を振られ、イルカがお茶を淹れようとしたらシズネは断った。
荷物を纏めたのに申し訳ないですから、と座布団さえ断り床の上にちょこんと座った。その態度にイルカはどうしていいのか困った。シズネは、火影の秘書役であり格上の上忍だ。
カカシによって寝台に拘束された時に助けてくれたのはこのシズネだった。それに関してもイルカを複雑な気持ちにさせる。
カカシの屈折した愛情を見られたからか、気まずさを感じてしまい何を話したらいいのかわからない。対面するようにイルカも座り顔を伺えば、シズネは沈んだ面持ちをしていた。
続く沈黙に、イルカはいい加減怪訝な顔をして口を開いた。
「…あの」
「あ、はい」
「一体こんな朝早くから、どうされたんですか?」
言いにくそうに顔を顰めたまま、シズネはチラとイルカを見た。その目は酷く不安そうに見える。
「…?」
不思議に感じる。何処と無く落ち着きがない。自分を助けてくれた時の彼女はとても冷静でカカシを前にしても毅然としていた。
シズネは一回唇を噛むと、ゆるりと口を開いた。

「もし、…もしあなたの為だと言ったら、イルカさんは信じてくれますか」










ああ、辛いな。
睫毛を伏せながらイルカは薄っすらと微笑んだ。
シズネは悩んだのだろう。
彼女の顔色の悪さが見て取れた。自分も酷い顔をしていたと思う。
告げられた言葉は頭にすんなりと入り込み、驚くほど冷静に聞いていた。
彼女は綱手が持つ心の傷を痛いほど分かっていたからこそ、イルカの元に来て、自分の知る真実を告げたのだ。後悔の渦の中にいた綱手を一番近くで見続けていたから。
彼女の中でカカシの悲痛は綱手の悲痛と重なっていた。
”失ってからでは遅いんです”
シズネの震える黒い目はそう訴えるようだった。



太陽が昇り始め、薄っすらと明るさを増している空の下イルカは歩いていた。
月がまだ空に浮かんでいる。夜見る月とは違い、空の色と共に溶けて無くなりそうな色をしていた。
足を止めてぼんやりと見上げた。
月が消えるとほっとする。
カカシがそう言っていたことを思い出した。
いつ言われたのか。付き合う前だったか。付き合ってからか。
自分が何故だと理由を聞いたのかも思い出せない。カカシは朝が弱い。自分よりも睡眠のリズムがずれているからか、イルカが目を覚ます頃、いつもカカシは子どものようなあどけない寝顔を見せながら隣でぐっすりと寝ていた。暖かいカカシの温もりを思い出したくて目を瞑る。
ふと頭に浮かんだ。朝まで2人で体を重ね、空が白み始めた頃疲れ果て抱き合って寝ようとした時の事を。うつらうつらした頭の中で、カカシがその言葉を口にしたのを思い出した。あの時は寝ぼけているからと、さして気にも留めていなかったが。
イルカは再び月を見上げた。





釈放される時間も、シズネはイルカに告げていた。
拘禁されていた建物から出てきたカカシは一人だった。もしかしたら監視役として暗部を付けられているかもしれないと考えていたが、いてもいなくても関係ない。それでもカカシの前に姿を見せるつもりでいた。
イルカを見つけて予想していなかったのか、カカシは一瞬驚いた顔見せたが、すぐに無表情にイルカを見た。
「なんのご用ですか」
他人行儀な言葉を敢えて選んでいるのだろう。イルカは構わず口を開いた。
「話をしたくて、会いに来ました」
「話はないと言ったはずですが」
ポケットに手を入れ、冷たい声でカカシは言った。虚ろな目を地面に落としている。
カカシの後ろには今にも無くなりそうな月が浮かんでいる。丸でカカシが目の前からいなくなってしまうような錯覚を覚え、不安が掻き立てられる。
振り切るように一歩近づいたイルカをカカシの声が遮った。
「俺、また何するか分からないですよ」
その言葉はイルカの体を硬直させた。カカシにされた事を忘れた訳ではない。
首を絞めたくなると、そうイルカに言ったカカシの台詞。
カカシに酷い事をさせたのも、酷い言葉を言わせたのも、カカシをここまで追い詰めたのも、カカシを狂わせたのも。
全ては俺を守る為。

ごめんなさいカカシさん。

何も知らないで、自分はただカカシに怯えた。カカシの気持ちを何りもせずに。

「…転籍する事はカカシさんの為だと思ってました。でも、違った。カカシさん、俺はあなたが好きだ」
イルカの告白に、カカシは薄っすら口を開いた。何か言おうとしているのか。
暫くイルカを見つめていたが、グッと眉を寄せ口を噤んだ。
「…命令に背く事はあなたには出来ないはずですよ」
「今里を出る事はあなたから逃げる事だ。俺は逃げたくない」
「そんな真剣に考える事ですか。別に俺といなくても新しい場所で新しい恋人を見つければいい」
カカシはふっと小さく笑った。
この現実から離れるように、目の前の俺から逃げようとしている。
「それは俺が決める事です」
強く言えば、カカシはふと表情を消した。
「感情的になった言葉ほど信用なんてできないものですよ。熱が冷めれば俺への気持ちなんて無くなります」
「いい加減にしてください!」
イルカの怒号にカカシは目を丸くした。そして視線を下げる。
感情的になって何が悪い。抑揚の無い恋愛なんて、そんな物愛でも何でもない。
「俺を見てください、カカシさん」
ひたすら過去に囚われているカカシさんの方が間違っている。
何で今の俺を見ようとしない。
カカシは長い嘆息を吐き出した。自分を落ち着かせている様にも見える。
「…じゃあどう言えば分かってくれるの?」
ポツリと呟く様に言った。
「俺、あなたといるとおかしくなりそう。本当に、好きで好きであなたをこの手で殺しちゃう」
カカシは今にも泣き出しそうな顔をして、肩が小刻みに震えている。
「だから一緒にはいられない」
カカシは優しい笑みを浮かべた。
「ごめんねイルカ先生、大好き。だから別れよう」
カカシの目から涙が落ちた。
それは丸で宝石のように綺麗だ。
泣きながら顔に微笑みを浮かべていた。
ああ、そうだ。
今思えば、カカシは出会った時から最初からこの笑みを浮かべていた。
いつも。
苦しそうに、綺麗な笑顔を見せる。
そして今も。
過去に怯え、自分を押し殺して。
最後までこの表情を貫いて。
俺の前から消えようとしている。

きっと、この苦しみから解放したら、カカシは本当に笑えるのだ。

「…大丈夫ですよ、カカシさん」
そう呟いたイルカはごそごそとポケットに手を入れ、小さな黒い瓶を取り出した。それはすっぽりとイルカの掌に収まっている。
カカシが目を見開き片手を上げた時、イルカはぐいと煽り瓶の中にある液体を全て飲み干した。
甘美な毒は喉が焼けるように甘く、花の蜜の香りが口に広がった。
「ばっ、何してるの!?」
カカシがイルカに飛びつくように駆け寄り既に空になった瓶を奪い取る。イルカを覗き込むカカシの顔は真っ青だ。
その表情からこれがどのくらいの毒性があるか分かる。
イルカは笑いを零した。
「…もうこれ…で…里か…ら出れな…」
もう舌が痺れてきている。まともに喋れないが、満足そうに微笑むイルカにカカシはくしゃりと顔を顰めた。
「馬鹿な事をっ!!」
今にも泣き出しそうな顔をしていた。
ーーやっと自分を見てくれた。
俺がこの人を庇った時も同じ顔をしたんだろうか。
手足も痺れ出して体温が急激に上昇するのが分かる。
カカシはイルカを抱えると地面から飛んだ。既に意識が朦朧としている。ぼやける視界の中にカカシの顔を見る。
浮遊感のある身体はカカシが抱いて移動しているからか、あるいは毒のせいか。
だるいのに、カカシに抱かれた身体は気持ち良い。
「…カシ、さ…」
途切れ途切れに名前を呼べばカカシがイルカを見た。
「喋らないで」
グッとカカシの手に力が入ったのが分かった。
「お…れは、はな、…た、くな」
「うん。分かった、分かったから」
だから喋らないで、と言うカカシの声は暖かく。それだけで嬉しい。

あの日、カカシからの拘束を解かれた日。カカシの脱がれたベストから見つけた。
すぐに分かった。きっと自分に飲ませる為のーー毒。
何故だろう。
持っていなければいけないと思った。
そしていつか自分が飲むだろう。そう思った。

それが現実になった。ただ、それだけだ。

イルカの意識はプツリと途絶えた。


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