はちみつ④
中忍になって間もない頃、上官の性欲処理として男がそれに就かされると言うのを聞いた事があった。ただ自分は火影と言う高みよりアカデミーで教員になると言う現実に近い夢を志していた。そのこともあって任務の合間には勉強ばかりで。戦場に行く事もなく、その存在すら忘れつつあった。
その経験はしておけばよかった。
不意に考えさせられた。自分の無知さ加減からそう思う。経験があれば昨日みたいに怖じ気付かないで済んだから。
カカシのあの寂しそうな表情。思い出しただけで居たたまれなくなる。彼は優しい。経験もある。だから気にもしていないだろうが、それでもあんな事を何回も繰り返したら、いい加減嫌になるかもしれない。
カカシをがっかりさせたくない。
居酒屋で一人肩を落とす。その肩を叩かれ、イルカは顔を上げた。
「別にいいよ」
一度だけ伽の相手をして欲しいと言った時、男は驚いた顔を見せたが、イルカの申し出に躊躇する素振りも見せずそう答えた。
一度任務を共にした事があるこの中忍は、イルカからしたら肌が合わない男だった。その任務の時もそうだったが、不真面目な態度が嫌だった。ただ忍びの腕は良かった。その為任務で里を出る事が多いらしく、里で顔を合わせたのは久しぶりだった。この男もたまたま一人で酒を飲みに来たのだと言う。隣の席に座り飲み出した時に、思い出したのだ。この男が伽の役をした事があると言っていたのを。
その久しぶりに会った男は騒がしい店内で少しだけ気むずかしそうな顔を作った。
「でも、何で?」
ビールを飲みながら聞かれ、イルカはどう言おうか考えるが、何も言えない。
「何も聞かずにお願いしたい、じゃ駄目か」
ジッとイルカの目を見て、考え込む。
「いいけどよ、お前ってそんなタイプに見えなかったからよ」
そう言って男はビールを飲み干し、袖で口を拭った。
「じゃあ行く?」
席を立たれ、イルカはえ、と男を見た。
「え、じゃなくて。ヤるならさ、これからでもいいだろ?ちゃんと教えてやるよ」
ニヤリと笑うその顔にイルカは苦笑いする。この男はもうその気なのだ。でも早い方がいい。
イルカは力強く頷くと、男の後を追って支払いを済ませると居酒屋を出た。
「俺の部屋でいいよな?」
自分の部屋より相手の部屋の方がいい。問いにすぐ頷くと男は了解したと歩き出す。カカシのマンションと違う方向で内心ホッとしながら、イルカは男の後を歩きついて行く。
割り当てられた中忍アパートでもない、普通のアパートの中に入る。自分のアパートよりは高そうなのは任務で仕事をこなしているからだろうか。小綺麗なアパートの一室で男は鍵を取り出すとガチャリと部屋を開けた。
黙って入る男の後に続いてイルカも部屋に入る。
鼻についたには煙草と男の匂い。自分の友人の家もそうだし自分の家もそうだろうが、何故か今は胸くそ悪く感じて、少しだけ顔を顰めていた。
「悪いな、ちょっと汚れてる」
男は言いながら床に落ちているゴミを足で除けた。
同じ男の部屋にいるだけの筈なのに、目的があるからだろうか。何故か気分が悪い。居心地の悪さに直ぐにでもこの部屋から出たくなる衝動に駆られる。が、自分でお願いしたのにそれは出来ない。
「ほら、ベットはこっちだからよ」
部屋で立ち尽くすイルカを見て、男が手招きする。イルカは緊張する身体にゆっくり深呼吸すると、寝室へと足を向けた。
男の顔が近づき、驚いて顔を背けていた。
「あ、キスは駄目?」
言われて眉をぐっと寄せる。覆い被されて気分は増々悪くなる一方で。それでもこれは間違ってないと、心の中で何度も呟く。ガチガチに固まったイルカを見下ろして、その男が笑った。
「すっげ、初めてって感じ」
からかうような笑い方に羞恥に目を伏せる。初めてはやはり誰でも嫌なものなのだ。カカシも、もしかしたらそう思うのかもしれない。だったらこの選択は間違ってはいない。
顔を背けた事によって剥きだしになったイルカの項に吸い付く。瞬間悪寒が走り、腕で男を突っぱねていた。その腕を反対に強く捕まれ、反射的にまたイルカは力を入れるが、簡単にねじ伏せされ抵抗出来なくされる。自分より力がある忍びだと、それを思い出す。抵抗を緩めないイルカに男が舌打ちをした。
「自分でお願いして、そりゃないんじゃないの?」
「....っ」
その台詞に言葉を詰まらせれば、また首元に顔を埋められ、舐められた舌の感触に再び身体が粟だった。
無理だ。
そう悟る。好きでもない相手とこんな事、出来ない。
「やっ、やっぱり、止める...っ!」
そう言ったが、イルカの台詞に男は腕の力を緩めない。逆にさらに手首を強く持たれてイルカは驚いた。
「思ったよりさ、お前よさそうだもん。最後までやっちゃおうよ」
顔を上げた男の顔に、イルカは青くなった。
雄の色濃い目がはっきりと目の前にある。その顔を見たら一瞬怯んでいた。その間にまた男がイルカのズボンに手をかける。思わず声を漏らしていた。
「や、...やめ!やめろ...!」
「無理無理。この部屋意外に防音だしね」
余裕の顔に体中が嫌な汗を掻き始めていた。上衣に手が入り込む。自分の肌を這う指が気持ち悪い。
焦りと吐き気に泣きそうになる。
でも仕方がないのかもしれない。イルカは力では勝れない相手にそう感じた。だって、自分がそうしてくれと頼んだのだ。
今後悔しても、どうしようもない。イルカは諦めに目を固く閉じる。
バン!と衝撃と共に物凄い音が聞こえた。閉じていた目を開けた瞬間、覆い被さっていた男が、イルカから剥がれ部屋の隅に飛んでいくのが見えた。
何が起こったのか。ベットに仰向けに沈んでいた身体を起こし、息を呑んだ。立っていたのはカカシだった。信じられないとイルカは目を見張ると、部屋の隅に投げ出された男が小さく呻き顔を上げ、殺気を放つカカシを見て顔色を消した。
「これ、何?どういう事?」
カカシの冷たい目線はイルカに向けられている。
真っ白になっていた。
何て言えばいいのか。機能しなくなった頭でカカシの言葉は辛うじて理解出来るが。イルカは固まったまま、ただカカシの顔を見つめた。その顔は見たことがない位に険しい。
「なんで...カカシ上...忍...?本物...?」
飛ばされた衝撃に咽せながら男が呟いた。
「アンタさぁ...人の物に手を出して、どうなるか分かってる?」
カカシの声に男が目を剥いた。
「へ?カカシ上忍の...?」
状況が掴めないと男は間の抜けた声を出す。
「俺の、恋人」
言葉と共に滲み出る殺気に部屋が凍り付くような空気に包まれていた。
「こい...びと?」
鸚鵡返しする男を無視して歩み寄って来たカカシに男はヒッと短い悲鳴と共に身を縮めた。
「お、俺はイルカに、頼まれただけで!」
「頼まれた?」
「イルカに、伽の相手をしてくれって、それで、俺は、」
泣きそうになりながら話す男の台詞にカカシの眉間に深い皺が寄る。思わずイルカは顔を下に向けた。
「もういい」
カカシは身体の向きを変え、イルカに近づくと、イルカの腕を引っ張り上げた。よろと立ち上がるイルカの服の乱れを見てまた顔を顰めると、イルカから目を逸らす。掴んだ腕を離さずカカシは歩き出した。
引っ張られるままにイルカは歩き、部屋の隅に呆然と二人を眺める男を置いて、部屋を後にした。
カカシの部屋に入るまで、一言もカカシは喋らなかった。部屋に入りドアを閉める。漸くカカシはイルカの腕を離した。カカシに掴まれ少しジンとした痛みが残る手首をさすりながら、背を向けたままのカカシを見た。無言のままカカシは何も言わない。
カカシは、額当てを取り口布をズラすと、前髪をぐしゃと掻いた。
「あの、」
「説明してください」
弱々しく言いかけた言葉は、カカシの怒りが籠もる声によってかき消された。
「ねえ」
静かに、カカシの低い声が部屋に響く。背中を見せたままのカカシからは表情が伺えない。言い訳をするつもりもないが、どう説明すればいいのか。あんな場面を見られて、それにあの男の言っている事に嘘はないのだ。
それに、なんでカカシはあの部屋に来たのだろうか。今日は会う約束さえしていなかったのに。
イルカの沈黙にカカシは大げさな程息を吐き出し、振り返る。イルカに顔を向けたカカシはまさしく、こみ上げる怒りを我慢しているかのように、眉根を強く寄せていた。
「ね、先生。あの男の言った事は本当なの?」
イルカは素直に思わず俯いた。
「すみません...」
小さな声で言えば、またカカシは息を吐き捨てた。
「何でそんな事を...っ!」
「だって...」
「だって、何?」
真剣な眼差しのカカシに、イルカは眉を顰め、唇を掻んだ。
「だって...俺、初めてで」
「初めて。何がですか」
「....男の人と...す、する事が...」
カカシは目を見開いた。
「初めてだから。セックスしたことないから、あの男に教えてもらおうと、そう言ってるの?」
冗談でしょ、とカカシが頭を振った。
「カカシさんに迷惑かけたくなくて、」
「迷惑?」
そこで言葉を切って、何かに耐えるように、カカシは顔を歪める。苛立ちに任せて片手を頭に当てた。
「カカシさん...」
「こんな事されて、俺がどんな気持ちか分かる?」
どんな気持ち。考えようとしても、カカシのような経験がない時点でカカシの立場で考えようがない。だが、自分のしようとした事は間違っていた。彼をこんなに怒らせてしまっているのだ。
俯いたまま困るイルカの姿を見て、またカカシはため息を吐いた。
「いいです、もう」
「え?」
顔を上げると、カカシは玄関へ向かって歩いていた。
「カカシさん、何処へ」
その声に肩越しにイルカを見た。
「今から女、連れてくるから」
「え、ーー?」
何を言っているのかと、眉を顰めた。
「ここで、先生の前でセックスしてあげる」
言って背を向けたカカシにイルカは慌てた。玄関で下足を履くカカシに走り寄り腕を掴むと直ぐに振り払われる。
「やめ、やめてください!」
「何で。それと同じでしょ?アナタのしようとした事は」
イルカは頭を強く振ってまたカカシの腕を掴んだ。
そんなつもりじゃない、が上手く言葉が出てこない。
「やだ!やだ!...やだ!!!」
同じ言葉を繰り返すイルカにカカシは小さく息を吐き出す。
「ごめんなさい...本当に、ごめんなさい」
両手でカカシの腕を掴んだまま、イルカは絞り出すように言った。
「俺、カカシさんに嫌われたくなくて...それでだけで...っ、浮気しようとしたんじゃなくて、」
「........」
カカシは視線を逸らしたまま。何も答えない。ごめんなさいと呟くイルカに届いたのは、小さく息を吐き出した音。カカシは下を向いたまま、口を開いた。
「嫌うわけないでしょ」
笑いを吐き捨てるように、静かに零した。
「浮気しようとしたわけじゃないなんて、そんなの分かってますよ。でもね、ごめんなさいって謝るけど、何したのか分かってる?ねえ、...イルカさん。アンタ全然分かってない。迷惑だと思ったから?だからあの男と寝たら俺の迷惑にならないとでも思ったの?」
斜めから見えるカカシの顔は苦しそうで。微かに銀色の睫毛が震えていた。
その表情に胸がズキと痛みが走った。馬鹿な事をしたと、カカシに言われて、表情を見せられ、そこで初めて気づかされた。カカシと上手くいきたくて、ただそれだけで頭が一杯で。自分の事しか考えていなかった。
何て、馬鹿な事をーー。
「それに、そんな悩んでるなら、なんで俺に一言、言ってくれなかったんですか」
力なく出たカカシの言葉。カカシは腕を振り解くとイルカに向き直った。
「そんな俺は頼りないですか?」
直ぐにイルカは首を横に振る。
「...付き合ってたらセックスしたいのは、当たり前になっちゃってるけど、...俺はね先生。あなたと一緒にいるだけで十分幸せなんですよ。だから、それは先って言うか...おまけで付いてくるようなもんで。もっと大切なものって、他にあるんじゃないの?」
聞きながら目頭が熱くなり鼻がつんとした。泣きたくない。顔に力を入れるが、自分が余りにも情けなくて、カカシの気持ちが真っ直ぐに突き刺さる。カカシの言うことは尤もだ。こんなのカカシへの裏切りに過ぎない。信頼していないと、思われても仕方がない。
コクンと頷けば、イルカの目から、我慢していた涙が落ちた。
「ごめんなさい」
カカシは苦しそうにイルカの顔を見つめる。少しだけ優しさに満ちている。零れる涙を拭っているとふわと抱き寄せられ、頭を撫でられた。
「分かってくれたなら、いいから」
あくまでも優しく。そして、カカシは直ぐ身体を離す。目をカカシに向けると、眉を寄せ、軽く瞼を伏せた。
「今日は、もう帰って。...送れないけど」
カカシは一人になりたいのだ。本当はもっとカカシの熱が、暖かさが欲しかった。でも、仕方がない。泣いてはいけない。
袖でごしごしと目を擦り、イルカは無理に笑顔を作ると部屋を出た。
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その経験はしておけばよかった。
不意に考えさせられた。自分の無知さ加減からそう思う。経験があれば昨日みたいに怖じ気付かないで済んだから。
カカシのあの寂しそうな表情。思い出しただけで居たたまれなくなる。彼は優しい。経験もある。だから気にもしていないだろうが、それでもあんな事を何回も繰り返したら、いい加減嫌になるかもしれない。
カカシをがっかりさせたくない。
居酒屋で一人肩を落とす。その肩を叩かれ、イルカは顔を上げた。
「別にいいよ」
一度だけ伽の相手をして欲しいと言った時、男は驚いた顔を見せたが、イルカの申し出に躊躇する素振りも見せずそう答えた。
一度任務を共にした事があるこの中忍は、イルカからしたら肌が合わない男だった。その任務の時もそうだったが、不真面目な態度が嫌だった。ただ忍びの腕は良かった。その為任務で里を出る事が多いらしく、里で顔を合わせたのは久しぶりだった。この男もたまたま一人で酒を飲みに来たのだと言う。隣の席に座り飲み出した時に、思い出したのだ。この男が伽の役をした事があると言っていたのを。
その久しぶりに会った男は騒がしい店内で少しだけ気むずかしそうな顔を作った。
「でも、何で?」
ビールを飲みながら聞かれ、イルカはどう言おうか考えるが、何も言えない。
「何も聞かずにお願いしたい、じゃ駄目か」
ジッとイルカの目を見て、考え込む。
「いいけどよ、お前ってそんなタイプに見えなかったからよ」
そう言って男はビールを飲み干し、袖で口を拭った。
「じゃあ行く?」
席を立たれ、イルカはえ、と男を見た。
「え、じゃなくて。ヤるならさ、これからでもいいだろ?ちゃんと教えてやるよ」
ニヤリと笑うその顔にイルカは苦笑いする。この男はもうその気なのだ。でも早い方がいい。
イルカは力強く頷くと、男の後を追って支払いを済ませると居酒屋を出た。
「俺の部屋でいいよな?」
自分の部屋より相手の部屋の方がいい。問いにすぐ頷くと男は了解したと歩き出す。カカシのマンションと違う方向で内心ホッとしながら、イルカは男の後を歩きついて行く。
割り当てられた中忍アパートでもない、普通のアパートの中に入る。自分のアパートよりは高そうなのは任務で仕事をこなしているからだろうか。小綺麗なアパートの一室で男は鍵を取り出すとガチャリと部屋を開けた。
黙って入る男の後に続いてイルカも部屋に入る。
鼻についたには煙草と男の匂い。自分の友人の家もそうだし自分の家もそうだろうが、何故か今は胸くそ悪く感じて、少しだけ顔を顰めていた。
「悪いな、ちょっと汚れてる」
男は言いながら床に落ちているゴミを足で除けた。
同じ男の部屋にいるだけの筈なのに、目的があるからだろうか。何故か気分が悪い。居心地の悪さに直ぐにでもこの部屋から出たくなる衝動に駆られる。が、自分でお願いしたのにそれは出来ない。
「ほら、ベットはこっちだからよ」
部屋で立ち尽くすイルカを見て、男が手招きする。イルカは緊張する身体にゆっくり深呼吸すると、寝室へと足を向けた。
男の顔が近づき、驚いて顔を背けていた。
「あ、キスは駄目?」
言われて眉をぐっと寄せる。覆い被されて気分は増々悪くなる一方で。それでもこれは間違ってないと、心の中で何度も呟く。ガチガチに固まったイルカを見下ろして、その男が笑った。
「すっげ、初めてって感じ」
からかうような笑い方に羞恥に目を伏せる。初めてはやはり誰でも嫌なものなのだ。カカシも、もしかしたらそう思うのかもしれない。だったらこの選択は間違ってはいない。
顔を背けた事によって剥きだしになったイルカの項に吸い付く。瞬間悪寒が走り、腕で男を突っぱねていた。その腕を反対に強く捕まれ、反射的にまたイルカは力を入れるが、簡単にねじ伏せされ抵抗出来なくされる。自分より力がある忍びだと、それを思い出す。抵抗を緩めないイルカに男が舌打ちをした。
「自分でお願いして、そりゃないんじゃないの?」
「....っ」
その台詞に言葉を詰まらせれば、また首元に顔を埋められ、舐められた舌の感触に再び身体が粟だった。
無理だ。
そう悟る。好きでもない相手とこんな事、出来ない。
「やっ、やっぱり、止める...っ!」
そう言ったが、イルカの台詞に男は腕の力を緩めない。逆にさらに手首を強く持たれてイルカは驚いた。
「思ったよりさ、お前よさそうだもん。最後までやっちゃおうよ」
顔を上げた男の顔に、イルカは青くなった。
雄の色濃い目がはっきりと目の前にある。その顔を見たら一瞬怯んでいた。その間にまた男がイルカのズボンに手をかける。思わず声を漏らしていた。
「や、...やめ!やめろ...!」
「無理無理。この部屋意外に防音だしね」
余裕の顔に体中が嫌な汗を掻き始めていた。上衣に手が入り込む。自分の肌を這う指が気持ち悪い。
焦りと吐き気に泣きそうになる。
でも仕方がないのかもしれない。イルカは力では勝れない相手にそう感じた。だって、自分がそうしてくれと頼んだのだ。
今後悔しても、どうしようもない。イルカは諦めに目を固く閉じる。
バン!と衝撃と共に物凄い音が聞こえた。閉じていた目を開けた瞬間、覆い被さっていた男が、イルカから剥がれ部屋の隅に飛んでいくのが見えた。
何が起こったのか。ベットに仰向けに沈んでいた身体を起こし、息を呑んだ。立っていたのはカカシだった。信じられないとイルカは目を見張ると、部屋の隅に投げ出された男が小さく呻き顔を上げ、殺気を放つカカシを見て顔色を消した。
「これ、何?どういう事?」
カカシの冷たい目線はイルカに向けられている。
真っ白になっていた。
何て言えばいいのか。機能しなくなった頭でカカシの言葉は辛うじて理解出来るが。イルカは固まったまま、ただカカシの顔を見つめた。その顔は見たことがない位に険しい。
「なんで...カカシ上...忍...?本物...?」
飛ばされた衝撃に咽せながら男が呟いた。
「アンタさぁ...人の物に手を出して、どうなるか分かってる?」
カカシの声に男が目を剥いた。
「へ?カカシ上忍の...?」
状況が掴めないと男は間の抜けた声を出す。
「俺の、恋人」
言葉と共に滲み出る殺気に部屋が凍り付くような空気に包まれていた。
「こい...びと?」
鸚鵡返しする男を無視して歩み寄って来たカカシに男はヒッと短い悲鳴と共に身を縮めた。
「お、俺はイルカに、頼まれただけで!」
「頼まれた?」
「イルカに、伽の相手をしてくれって、それで、俺は、」
泣きそうになりながら話す男の台詞にカカシの眉間に深い皺が寄る。思わずイルカは顔を下に向けた。
「もういい」
カカシは身体の向きを変え、イルカに近づくと、イルカの腕を引っ張り上げた。よろと立ち上がるイルカの服の乱れを見てまた顔を顰めると、イルカから目を逸らす。掴んだ腕を離さずカカシは歩き出した。
引っ張られるままにイルカは歩き、部屋の隅に呆然と二人を眺める男を置いて、部屋を後にした。
カカシの部屋に入るまで、一言もカカシは喋らなかった。部屋に入りドアを閉める。漸くカカシはイルカの腕を離した。カカシに掴まれ少しジンとした痛みが残る手首をさすりながら、背を向けたままのカカシを見た。無言のままカカシは何も言わない。
カカシは、額当てを取り口布をズラすと、前髪をぐしゃと掻いた。
「あの、」
「説明してください」
弱々しく言いかけた言葉は、カカシの怒りが籠もる声によってかき消された。
「ねえ」
静かに、カカシの低い声が部屋に響く。背中を見せたままのカカシからは表情が伺えない。言い訳をするつもりもないが、どう説明すればいいのか。あんな場面を見られて、それにあの男の言っている事に嘘はないのだ。
それに、なんでカカシはあの部屋に来たのだろうか。今日は会う約束さえしていなかったのに。
イルカの沈黙にカカシは大げさな程息を吐き出し、振り返る。イルカに顔を向けたカカシはまさしく、こみ上げる怒りを我慢しているかのように、眉根を強く寄せていた。
「ね、先生。あの男の言った事は本当なの?」
イルカは素直に思わず俯いた。
「すみません...」
小さな声で言えば、またカカシは息を吐き捨てた。
「何でそんな事を...っ!」
「だって...」
「だって、何?」
真剣な眼差しのカカシに、イルカは眉を顰め、唇を掻んだ。
「だって...俺、初めてで」
「初めて。何がですか」
「....男の人と...す、する事が...」
カカシは目を見開いた。
「初めてだから。セックスしたことないから、あの男に教えてもらおうと、そう言ってるの?」
冗談でしょ、とカカシが頭を振った。
「カカシさんに迷惑かけたくなくて、」
「迷惑?」
そこで言葉を切って、何かに耐えるように、カカシは顔を歪める。苛立ちに任せて片手を頭に当てた。
「カカシさん...」
「こんな事されて、俺がどんな気持ちか分かる?」
どんな気持ち。考えようとしても、カカシのような経験がない時点でカカシの立場で考えようがない。だが、自分のしようとした事は間違っていた。彼をこんなに怒らせてしまっているのだ。
俯いたまま困るイルカの姿を見て、またカカシはため息を吐いた。
「いいです、もう」
「え?」
顔を上げると、カカシは玄関へ向かって歩いていた。
「カカシさん、何処へ」
その声に肩越しにイルカを見た。
「今から女、連れてくるから」
「え、ーー?」
何を言っているのかと、眉を顰めた。
「ここで、先生の前でセックスしてあげる」
言って背を向けたカカシにイルカは慌てた。玄関で下足を履くカカシに走り寄り腕を掴むと直ぐに振り払われる。
「やめ、やめてください!」
「何で。それと同じでしょ?アナタのしようとした事は」
イルカは頭を強く振ってまたカカシの腕を掴んだ。
そんなつもりじゃない、が上手く言葉が出てこない。
「やだ!やだ!...やだ!!!」
同じ言葉を繰り返すイルカにカカシは小さく息を吐き出す。
「ごめんなさい...本当に、ごめんなさい」
両手でカカシの腕を掴んだまま、イルカは絞り出すように言った。
「俺、カカシさんに嫌われたくなくて...それでだけで...っ、浮気しようとしたんじゃなくて、」
「........」
カカシは視線を逸らしたまま。何も答えない。ごめんなさいと呟くイルカに届いたのは、小さく息を吐き出した音。カカシは下を向いたまま、口を開いた。
「嫌うわけないでしょ」
笑いを吐き捨てるように、静かに零した。
「浮気しようとしたわけじゃないなんて、そんなの分かってますよ。でもね、ごめんなさいって謝るけど、何したのか分かってる?ねえ、...イルカさん。アンタ全然分かってない。迷惑だと思ったから?だからあの男と寝たら俺の迷惑にならないとでも思ったの?」
斜めから見えるカカシの顔は苦しそうで。微かに銀色の睫毛が震えていた。
その表情に胸がズキと痛みが走った。馬鹿な事をしたと、カカシに言われて、表情を見せられ、そこで初めて気づかされた。カカシと上手くいきたくて、ただそれだけで頭が一杯で。自分の事しか考えていなかった。
何て、馬鹿な事をーー。
「それに、そんな悩んでるなら、なんで俺に一言、言ってくれなかったんですか」
力なく出たカカシの言葉。カカシは腕を振り解くとイルカに向き直った。
「そんな俺は頼りないですか?」
直ぐにイルカは首を横に振る。
「...付き合ってたらセックスしたいのは、当たり前になっちゃってるけど、...俺はね先生。あなたと一緒にいるだけで十分幸せなんですよ。だから、それは先って言うか...おまけで付いてくるようなもんで。もっと大切なものって、他にあるんじゃないの?」
聞きながら目頭が熱くなり鼻がつんとした。泣きたくない。顔に力を入れるが、自分が余りにも情けなくて、カカシの気持ちが真っ直ぐに突き刺さる。カカシの言うことは尤もだ。こんなのカカシへの裏切りに過ぎない。信頼していないと、思われても仕方がない。
コクンと頷けば、イルカの目から、我慢していた涙が落ちた。
「ごめんなさい」
カカシは苦しそうにイルカの顔を見つめる。少しだけ優しさに満ちている。零れる涙を拭っているとふわと抱き寄せられ、頭を撫でられた。
「分かってくれたなら、いいから」
あくまでも優しく。そして、カカシは直ぐ身体を離す。目をカカシに向けると、眉を寄せ、軽く瞼を伏せた。
「今日は、もう帰って。...送れないけど」
カカシは一人になりたいのだ。本当はもっとカカシの熱が、暖かさが欲しかった。でも、仕方がない。泣いてはいけない。
袖でごしごしと目を擦り、イルカは無理に笑顔を作ると部屋を出た。
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