向日葵と。⑥

「お早う」
目を開ければ、向日葵の顔が目の前にあり、驚きに目を見開いた。黒く丸い目がイルカを映している。そのイルカの驚いた顔にしてやったりの顔を見せ、頬にえくぼが見える。寝室は向日葵が寝泊まりしている為、自分は居間で布団を敷き、寝ているのだが。
「珍しいね、イルカにいが遅起きなんて」
向日葵が遮光のカーテンを勢いよく引くと、太陽の光が部屋を一気に明るくした。振り向いた向日葵の髪は朝日に艶やかに輝いている。
昨日はあのまま布団に潜り、向日葵が帰ってきても寝たふりを決め込んで、息を潜めていた。
向日葵は鼻歌交じりに帰って来ると、風呂に入り、直ぐに寝室へ姿を消した。イルカはそれからしばらく眠れなかった。いつ自分が寝たのかも覚えてない。未だ胸にある息苦しさからくるのから、余り寝ていない頭は重くて身体も怠い。
ただ、向日葵によって開け放たれた窓からは、気持ちのいい風が舞い込んできた。
既に蝉が鳴き始めている。
「ほら、私が作ったの」
ぼんやりしているイルカの視界に飛び込んできたのは出来たてのお弁当だった。
俵型のオニギリに卵焼き。ブロッコリーとウィンナー、プチトマト。シンプルだか彩りよく飾られている。
「カカシさんに」
「そっか…」
勝手に漏れる重い溜息に、向日葵は視線を向けたが、すぐに背を向ける。
「はい。イルカにいにも」
ずいと目の前に出され、ヒヨコの柄の布に包まれたお弁当に、イルカは慌てて両手で受け取った。やはり作りたてで、暖かさが掌から伝わってくる。
昨日の出来事で自分の気持ちは地まで落ちていたのに。たったこれだけの事に、可愛らしい向日葵の行為は素直に受け取れた。
ただイルカは小さく笑って向日葵を見た。
「ありがとうな」
向日葵は、少しだけ目を開いて。すぐに気難しそうな顔をした。
「残さないで食べてよね!」
母親ぶったような口調に自然と顔が綻んだ。
「残すわけないだろ。でも夏なんだから、少しだけでも冷ましておかないと痛むぞ」
「え!そうなの?」
向日葵は慌ててイルカからお弁当を取り上げると台所へ向かい、お弁当を二つ広げる。
良かったー。これで安心。
などと言う向日葵を見て微笑んで洗面所へ向かった。
蛇口をひねり何度も水で顔を濡らす。
忘れたい。
昨日の情景を。
忘れたい。
歪んだ顔を見せてはいけない。
胸の奥底にある苦しみを、なくしたい。
向日葵が帰ればきっと元の通りになる。だから、昨日の事は忘れよう。カカシを責めて何になる。行き過ぎだと怒りをぶつけるのは簡単だ。だが、きっとカカシは自分を責めるだろう。
カカシは最初反対をした。それでも頷いたのは向日葵と自分の気持ちの為だ。
分かりきった喧嘩をして彼と仲を拗らしたくなかった。
理由は簡単だ。カカシが好きだから。
だから、我慢しよう。
水を止めてタオルで顔を拭く。
鏡に映る自分の顔。おろした髪は少し寝癖がついていた。寝不足の為か目の下にもクマがあるように思える。
ひどい顔だな。
思わず笑いを零した。
それ以上見ていたくなく、鏡から視線を外して着替えに入った。
居間に戻れば、簡単な朝食が置かれている。
「ほら、遅刻しちゃうよ!」
向日葵に手招きをして急かされる。座って手を合わせて味噌汁を口にする。
「どう?」
向日葵に上目遣いに聞かれ、
「ああ、美味いよ」
言えばホッとした表情を見せた。
「イルカにいは料理だけは上手いから、良かった〜」
「だけは余計だろ」
「あ、そうね」
歯を見せて笑った。
「でも良かった。カカシさんにも作ってあげれるもん」
イルカの箸を持つ手がピクリと動いた。そこから無理に顔を緩ませる。
「…だけどお前、明日には帰るだろ」
だからその夢物語も明日で終わりだと、向日葵を見れば、平然とした顔をしながら味噌汁を飲んでいる。
「カカシさんね、将来一緒に住んでもいいよって」
「……は?」
それはないだろう。と続ける前に、向日葵はお椀を置いてイルカを見た。
「それに、カカシさんに昨日突然キスされちゃった。真剣に考えてるんだって」
忘れたいと思っていた事が嫌でも頭に浮かんでくる。イルカは言葉が出なくなっていた。
真剣って何を。
向日葵は一体何を言ってるんだ。冗談にしてはあまりにも酷い。
「あ!ほら!時間!!」
向日葵がイルカが手に持つ箸を取って、背中を押した。
「あ、お弁当!」
ヒヨコの柄に包まれたお弁当を渡される。
目を白黒させるうちに荷物を持たされ家から追い出された。

昼休み、当たり前のようにカカシは姿を現さない。来ないと分かっているから、イルカは一人職員室で自分の席で食べていた。本当は外で食べたかったがそんな気分にはなれない。同じ弁当をカカシも食べていると思っただけで胸が詰まり食欲がなくなりそうになる。でも、向日葵の初めて作った弁当は美味しかったが、箸が進まない。残さないと言った手前、無理にでも胃に詰め込んで、終わらせた。
「お、ここにいたか」
顔を上げるとアスマが火のついていない煙草を加えながら職員室に入ってきた。
「アスマさん」
ここに来る事自体珍しく、イルカは慌てて席を立てば、手でいいからと言われ、椅子に座りなおす。
座ったイルカの前まで来たアスマは職員室を見渡した。
「何だ、お前一人で飯か」
「ええ、今日は」
1人で食べていると指摘されるのが嫌という訳でもないが、別の人間から1人だと言われると妙に寂しさを感じて辛くなる。誤魔化すようにイルカは小さく笑った。
机の上に置かれたままの弁当を包んでいる可愛らしいヒヨコの柄に片眉を吊り上げられ、
「あ、これは、親戚の子が作ってですね、」
と言えば、アスマはイルカを見て笑った。
「ああ、五代目が言ってた子か」
言ってたって何をだろうか。
だがその意味が何となく分かり、それだけで気持ちが重くなる。今はもう何も考えたくない。自分への苛立ちとカカシへの苛立ちと、見出せない答えに息が詰まりそうになる。
「どうした」
視線を落としていたイルカはアスマの声で我に帰った。
「いえ、別に」
無理に微笑むと、アスマがポケットから紙を取り出した。
「これ、カカシの報告書だ。昨日今日とカカシと仲良く任務でな。カカシに頼んだけど、渡しそびれたみたいだからよ。悪りいな、昨日のだ」
と、手渡された紙を開けば、確かにアスマとカカシの昨日の任務報告書だった。定時内に終わっている。昨日は一日中受け付けにいたのに、カカシは姿を見せなかった。
普通に来ればいいはずじゃないか。それをアスマに渡す理由がどこにある。
自然と手に力が入り、報告書にシワが寄る。
「不備ねえよな?」
言われてイルカは頷いた。
「あ、はい」
「今からまた任務だから、よろしくな」
背を向けたアスマに頭を下げると、ふと振り返った。
「イルカ今日暇か」
「え?」
「カカシにフラれちまったからよ。どうだ久しぶりに飲みにでも」
煙草を口に挟んだまま、指で呑む仕草をする。
カカシにフラれた。向日葵との約束があるから。見えない苛立ちがイルカの心を支配していた。
「あー…無理にとは言ってねえぞ」
浮かない表情のイルカにかけられた台詞に、顔を上げてアスマをしっかりと見た。
「行きます」
強く頷けば、そうか、とアスマは笑って片手を上げ再び背を向けた。
肩越しに6時には終わるから7時に酒酒屋でな、と告げられる。それにもイルカは頷いて。
1人になった職員室で、カカシの報告書をジッと眺めた。



イルカは6時には仕事が終わっていた。残っていても仕方がないと、イルカはすぐに報告所を後にした。向日葵の世話をする名目で明日まではノー残業と綱手から言い渡されていたからだ。それもカカシが口添えをしてくれていたのを思い出す。
いつも優しくて。自分の事より、何より最優先で相手を考えて行動してくれる。歳上だという事もあるだろうが、今までの人生経験においても勝っている彼は、常に正しい道を導いてくれる。
だからカカシが、向日葵の言った通り、自分ではなく向日葵を選んだのなら、それは仕方がない事なのかもしれない。
そんな考えがふと浮かんだら、苦しくなった。彼が幸せなら、いいと思えるのに。それでも彼と一緒にいたいと願う自分もいる。恋ってこんなに苦しいものなのか。

「おう、イルカ」
店に向かうイルカに、別方向からアスマが現れ、片手を上げた。
「早かったですね」
切り替えようと慌てて笑顔を作る。アスマは煙草を吹かしてイルカの横に並んだ。
「まあな。でも今回はちゃんとカカシに報告に行かせたからよ」
だから俺はそのまま来た。
アスマは任務に疲労の表情をワザと見せ、笑う。カカシと、名前が出ただけでまた胸が苦しくなっていた。
酒酒屋に着き、アスマと連れ立って店に入った。金曜だからか、早い時間だと言うのに客が多く入っている。奥の和室へ通され、アスマがビールとつまみを適当に頼む。
この店は少し前にカカシと来た以来だった。あの時もこうして和室に通されて。鰈の煮付けが美味しくて、家で作ろうと2人で休みの日の楽しみにしたっけ。
上手くお互いに休みが合わないせいもあって、結局あのまま作ってない。
カカシのいつもの優しい微笑みが頭に浮かび、何故だか悲しい気持ちになった。カカシと距離が離れてしまった気がする。何もないのに。いや、何もない訳じゃないが、でも、自分とカカシの仲はなにも変わってない筈なのに。
もしこのまま離れてしまったらと考えただけで怖くなった。
苦しいけど、カカシと付き合っていたい。別れたくない。
「イルカ」
「え?」
「ビール。ほら」
気がつけば、つまみとビールがテーブルに並べられ、アスマがジョッキを持ってイルカを見ていた。
「すみません。いただきます」
口にすれば、ああ、と言ったアスマもビールを飲む。
「なんか、あったのか」
「え?」
「えっと、なんだっけ。お前の親戚の子。あれ関係でなんかあったか」
的を射た台詞にイルカは少し息を呑み、テーブルに視線を落としていた。
「…言いたくなきゃいいけどよ。お前は生徒の事になると周りがみえなくなるからな」
まあ、生徒じゃねえけど、似たようなもんだろ?と言われ、その通りだと、イルカは曖昧な笑みを浮かべた。
「中忍選抜試験の時もよカカシに食ってかかったろ」
アスマは笑って懐かしそうな顔をして、イルカを伺い見た。
「全部彼奴らを思ってんだと分かってるけどな、何でも自分で背負おうとするのはお前の悪い癖だ」
立て肘をついたままアスマはビールを口にする。イルカが顔を上げてアスマを見ると、口元を上げ、眉を下げた。
「カカシには言ったのか」
「………は?」
「カカシだよ。何だお前、俺が知らないとでも思ってんのか」
硬直したイルカを見てアスマは呆れた顔をした。煙草に火をつけ深く吸う。煙を口から吐き出しながら視線は並べられた料理に向けた。
「彼奴がお前の恋人なのは胸糞悪いからよ、言うつもりも無かったけどな、…思ってるよりカカシは頼り甲斐があるから、」
「知ってます」
イルカの言葉に、アスマは黙ってイルカを見た。
「だったらちゃんと面と向かって話したらどうだ」
お前らが不仲だとこっちが面倒臭いんだよ。
笑ってアスマはグリルされたソーセージを口にする。
きっと今日渡された任務報告書の事を言ってるのだろう。それはこっちだってそうだ。自分を避ける理由なんかないはずなのに。
「今日の任務もどうもボーッとしてやがってな、腹立つから終わった後に蹴り入れといたけどな」
思い詰める顔になっていくイルカの顔を眺めながら、アスマは眉根を寄せて、ため息まじりにビールを勢いよく飲んだ。
カカシが任務でボーッとする理由はなんだろうか。向日葵の事を考えて?
だって、それ以外、ないだろ。
どこまで分かっているのか分からないが、アスマはただ、ビールを飲み、ひと段落ついたところで、早々とイルカを席から立たせた。
「俺が誘ったから気にするな」
それより親戚の子がいるならもう帰れ、と自分の分を払おうとしたが断られ、帰るよう促され、仕方なしに店を1人出る。

時計を見て、8時にもなっていない。きっと向日葵はまだ帰っていないと思うが。
正直昨日みたいなのは見たくない。1人でもう一軒行こうかと繁華街をぶらぶらと何処に行く訳でもなく歩いていた。
「イルカ先生」
腕を掴まれた。
不意過ぎて、酒が入っていた事もあり、驚きながらもゆっくりと眉を寄せて掴まれた腕を見れば、カカシが自分の腕を掴んでいた。
目の前にいるカカシに、一瞬夢かと混乱して、その顔をジッと見る。カカシは少しだけ目を眇めているようにも見える。すぐにかける言葉が出てこなくて、イルカは目を逸らしていた。
「イルカ先生」
再び自分を呼ぶその声は、酷く久しぶりに聞いた気がした。少し、苛立ちを含んでいるように感じた。
「何やってるの、こんなところで」
言われて、逸らしてした目をカカシに向ける。
何やってるって。
口を少し開いて。どう、何を言ったら良いのか。青い目から再び視線を逸らしていた。
カカシから溜息が聞こえる。
「兎に角、歩きましょう」
その意味が分からないが、イルカは返事さえ出来ずに、掴まれた腕をカカシに引かれる形になる。手甲から伸びる指はしっかりと自分の腕を掴んでいる。歩きながら少しだけ伺い見えるカカシの横顔を眺める。真剣に、ただ前を向いているカカシの顔を見て、彼は一体何を話すのか。
不安だけがイルカの心に浮かび上がっていた。


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