一つだけの①

時は冬。風はなく、ヒンヤリとした空気に包まれている。暗い曇は今にも雪が降り出しそうだった。
(せめて雪が降ればいいのに...)
冷たい指先を暖めるようにガシガシと袖で擦り、少しだけ眉をひそめる。
口元からは白い息が出た。
(今日は冷え込むって言ってたっけな)
朝テレビで見た天気予報を、ボンヤリとした頭で思い出しながら空を見上げた。
寒さに急かされるように、イルカはアカデミーへ足を速めた。


「そう言えば、聞いたか?はたけ上忍、...らしくて」
少し離れた場所からの会話にはたけカカシの名前が出て、イルカはふと顔を上げた。
(...最近よく名前が出るな)
イルカの中でのはたけカカシの印象はほとんどなかった。
と言うか、上忍にである上に接点もなく、ろくな会話すらした事がない。
ただ、今年度からカカシはアカデミーではフォーマンセルで生徒を受け持つようになり、
報告書を出す為に受付に顔を出す事も多くなった。
無論イルカに顔を合わす回数も増える。
その生徒は自分の教え子であり、カカシはその生徒を受け持つ先生。
生徒の事も気になり、報告書を貰う度に生徒の様子を聞くのだが、「はあ、」だの「まあ」だの
自分が欲しい答えを貰った試しがなく、もちろんそれ以上の会話も続くはずもなく、
イルカの中では印象は「薄い」でしかない。
それでも最近ちょくちょく、カカシの噂を耳にするようになり、
ああそんな人なんだ、こんな人なんだと思ったりしていた。
ただ、「噂」はロクな噂ではない。
暗部に属していたらしいと言うのはなるほど解るが、
星の数ほど女を持っている。
人間として性格はかなりの奇怪。
ロクデナシ。
などなど、今までの噂をイルカなりに簡潔にまとめると、ものすごい人物像が出来上がる。
いや、イルカでなくとも誰が聞いてまとめても同じような人物像が出てくるだろう。
口で言うのは簡単だが、そのまま理解して呑み込める訳がないような噂が、イルカの耳に入っていた。
噂は本当に恐ろしい。一つの噂が飛び立てば、或る事無い事を尻に尾ひれを何百本と付けて、世間を飛び回る。
しかも光の如くの速さで、だ。噂を立たされた本人はたまったものではない。
(どんな人か知らないけど、大変な人だね)
書類にペンを走らせながら今日も耳には入るカカシの噂をため息交じりに聞いていた。
「聞いた話なんだけど」
隣の机から声がかかり、イルカは「んー?」と返事をした。
「カカシ上忍、いつもの事なんだろうけどさ、女と揉めてたらしいよ。でも内容がさ、子供をさっさと堕ろせとか?」
「は?」
ペンを止めてイルカは顔をあげる。
(またこの手の話か)
正直、うんざりしていた。
「それ、本当の事なの?...何かさ、信憑性に欠けるような話ばっか聞くんだけど」
「それ言ったら分かんねえけど、昨日友達が仕事帰りに見たんだって」
「へえ」
再びイルカはペンを走らせ始める。
子供を堕ろす。考えただけでも恐ろしい。一つの生命が親の都合で絶たれる訳だ。
ロクデナシのカカシの噂がまた一つ耳に入って、思わず苦笑した。









「お願いしますね」
その言葉に顔を上げるとはたけカカシが立っていた。
口布をし、額当てで左眼は隠れている。片手はポケットに入れたまま、報告書を持っていた。
「あ、はい」
受け取り報告書に目を通す中、ちらりとカカシを伺った。
何時も思うのだが、カカシの感情は読めない。イルカの読唇術も痴れているので会話や表情で、聞いた噂のどの部分が当てはまるのか、
全くと言っていいほどに解らない。
(...忍び失格だな)
意味のない言葉を心の中で呟いて、顔を上げる。
「問題ありません。お疲れ様でした」
「あ、そう。どうも」
来た時と表情を変える事無く背を向けたカカシに、思わず言葉が口に出た。
「あ、...のカカシ先生」
「はい?」
「あ、いや...いえ、何でもないです。すみません、足を止めて」
「はあ、いーえ。どーも」
少しだけ首をかしげて再び背を向けたカカシを見て、自分を責めた。
(呼び止めてどーすんだ...)
何か話しかけたかった訳ではない、つい、声をかけてしまった。
気にしていないはずの噂が、自分に根付いてきたかと思い溜息がでた。
本当は生徒達の話を聞きたい。それは本当だ。
(でもあの先生、あさっての答えが出たりするからな。ま、いいか)


噂を鵜呑みにしてはいなかったイルカだが、女関係の噂が絶たないって事は、分かっていた。
殆ど顔が隠れているカカシだが、イルカが見る限り美形の顔立ちをしている。
口煩くて頭でっかちな男より、ああ言う無口で寡黙の方が女からしたらいいのだろうし。
なにより上忍で、国内外でも名が知れ渡っている忍びだ。名声があるのも条件になるんだろう。
逆にモテないほうがおかしい。
忍びで常識きっちりの人もそういないから、当てはまっててもおかしくはない。
(あれ)
受付にいて必要な書類は足元の棚に揃っているはずだが、一冊だけ足りない。
始まったばかりの業務、支障が出るのも困る。
「悪い、書庫行ってくる」
隣の席に受付をしていた同僚に声をかけて席を立ち、書庫に足を向けた。


2階にあるアカデミーの職員室の横に書庫がある。そこにあるはずの本がない。
(あー、参ったな。あとは地下か)
頭をガシガシを掻き、地下の書庫へ向かう。
日の光が入らない地下の書庫は、イルカはあまり好きではなかった。
一定に保たれている冷たい湿度も好きじゃない。
電気をつけると、相変わらず電燈は少ない為かぼんやりと棚に並ぶ本を映し出していた。
いつも使う本なのに上にないと言う事は、残業を家でする為に誰かが家に持ち帰ったに違いない。
普段アカデミー業務しかしないとこうも業務に緩みが出がちだ。
自分もそうなのかもしれないが。
来たくない場所に居る為か、少し苛立ちを感じて目的の本を探す事に集中した。
「なに探してるの」
「わ!!」
真後ろで突然の声。
イルカは全身がびくっと震え、思わず大きな声が出た。
振り向いて、その声の主にも驚く。
「え、か、カカシ、先生」
書庫の扉の開閉された音さえ聞こえなかった。
もちろん気配も。
「...そんなに驚く事ですか」
表情が変わらないが声はやや呆れている。その言葉に恥ずかしく顔が赤くなるのがわかった。
「...すみません」
「いや、いいんですけどね。アカデミーの中忍なんてそんなもんでしょ」
嫌な言い方だ。
「...はあ」
「オレも本探しにきんですよ」
そりゃそうだろ。こんな本しかなくて薄暗い場所。好き好んで来たくない。
「良かったら探しますけど、どの本ですか」
「だいじょーぶ。自分で探しますよ」
そう言われてイルカはハッとする。上忍の任務はほとんど機密性が高いものばかりだ。
何かの調べものにしろ漏らすわけにはいかないのだろう。
(...何か俺、間が抜けてて情けない)
しゅんとして自分の本を探そうと改めて本棚を見つめる。
少し先にいるカカシの横顔をふと見つめた。
端整な顔立ち。暗い光に当てられている銀髪が、イルカには神秘的な色に見えた。
たくさん女性と付き合ってると言うのはきっと本当だろう。
改めてイルカはそう感じた。
男の自分でさえ見つめてしまう。自分のようなもさい男が言うのは気持ちが悪い事だが。

『カカシ上忍、いつもの事なんだろうけどさ、女と揉めてたらしいよ。でも内容がさ、子供をさっさと堕ろせとか?』

さっき耳にした言葉が頭に浮上した。
さっさと子供を堕ろせ?いや、まさか。
カカシのその綺麗な顔を前にそんな酷い言葉。どうしても信じられない。
それとも、さっき自分に口にしたように、嫌味を言う人だ。
(...ありえるのか?)
「まだ探してるの」
「わ!!」
考え事をして上の空になっていたイルカはまたビクリと身体を強張らせた。
指先が本に当たり、傾くように並んでいた本がバサバサと音を立てて下に落ちた。
「っ、すみませっ、」
焦って本を拾おうとした足元に、ホコリが舞って思わず咽た。
「...だいじょうぶなの?」
ため息交じりに声が聞こえたかと思うと、イルカの前にしゃがみこみ顔を覗き込む。
あまりにも近くて驚いた。鼻と鼻が当たりそうなほど。間近のカカシの顔に、急速に赤面するのがわかる。
目に入ったホコリが痛く、目を擦ると、その手をカカシが掴んだ。
「擦ったらさ、余計に痛くなるでしょ」
「だ、大丈夫です」
掴まれた手にも驚いて、あわてて振りほどく。
「だってほら、目が赤いよ?」
赤くなっているであろう目の淵を細く長い指で触れられて、イルカの身体がピクリと反応した。
「...っ、ただのホコリです。問題ないですから」
恥ずかしくなりイルカは勢いよく立ちあがった。
子供ならまだしも、こんな自分の様な男にする態度か?
パーソナルスペースと言うものがこの人にはないのか。
「気をつけなさいよ」
カカシはしゃがんだまま見上げながら呟いて、足元に転がる本を手に取った。
心配された上に、自分が落とした本まで拾おうとしている。
イルカも慌てて身を屈めた。
ゴン
鈍い音がした。
勢い余ってカカシの頭にイルカの頭がぶつかった音だった。
余りに痛く、目の前がチカチカした。
「あのねえ...」
片手を頭で摩りながらカカシが顔を上げた。
最悪だ。
「す、すみません!本当にすみません!」
平謝りを繰り返すイルカの前に、本が差し出された。
「はい。イルカ先生って案外ソソッカシイんだね」
カカシは笑っていた。微笑んだままイルカの頭をポンと、叩いた。


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