不完全な男と③

カカシの精神分裂の件から一週間。
何事もないように時間が過ぎていった。
今まで通りの平穏な日々は、言葉の通り安穏として、いつも通りの日常を過ごしていた。
ただ、一つを除いては。

カカシは任務報告から伺うに、翌日から何事もなかったかのように任務に就き、今までの出来なかった任務を取り戻すかのように単独任務を淡々とこなしている。
そう、何事もなかったかのように。
無愛想な態度とそっけない口調は相変わらずだった。
いや、むしろ前よりも冷淡な態度に取れた。
その温度差にどう接するべきか答えは出ている。

目の前に現れたカカシは任務報告書をイルカの前に置いた。
「よろしく」
冷ややかな目はイルカの表情を硬くさせる。
何回か、イルカは何回かカカシに話しかけようとした。しかしそれを察知したのかうまく避けられまともに顔すら合わせない。
目の前に立つカカシをチラと伺った。
見下ろした目と視線がぶつかった瞬間、カカシは瞼を伏せるように横にずらした。
(……まともに顔すら見ないんだよな)
堪らない気持ちになる。
今まで通りの対応をすればいいだけなのに、目を逸らされただけで打ちのめされた錯覚を覚えてしまう。
せめて、話が出来たら。

今日こそは。
任務報告所から背を向けたカカシを追うようにイルカは立ち上がり後を追った。すぐに姿を消すカカシがまだ目の前を歩いていた。感じているだろうイルカの気配を、気にする事なく歩いている。
口を開こうとした時、カカシがピタリと歩を止めた。
「……やめてよ」
背を向けたままのカカシから低い声が漏れる。
「カカシ先生…っ」
「やめてって言ってるでしょ」
「っ…………」
静かな口調に苛立ちを感じ、イルカは言葉を詰まらせた。
ようやくカカシがこちらに振り返る。
「何を言って欲しいんです。…火影様から聞きましたよ。色々とご迷惑をかけたようで。…お陰様で?無事自分を取り戻してますから、安心してください」
「そう言う事ではっ……」
「違う?じゃあ何よ?」
カカシが短く笑った。
「随分とお高くとまってますね、アンタはいい気分でしょ?格上の男がヘコヘコとしてるのを良いように相手してたんだから…こっちはね、いい迷惑ですよ。周りから馬鹿にされてどーでもいい噂がまわってて」
「そんな…っ」
鋭くなる目を見るだけで精一杯だった。カカシの声ですらすらと出てくる台詞に、胸が圧迫されそうな程苦しくなる。
一緒にいて、そんな事一度も考えた事もなかったのに。
「もしかして、まだヤり足らなかったですか…いいですよ、払うもの払うならお相手しましょう?」
気圧されていた。
そんな言葉聞きたくない。聞くに堪えない。
目をみはるイルカに、冷たい眼差しが逸らされる事なく見つめていた。
カカシの少し先の背後から気配と共に人影が現れる。
カカシはチラと視線を外し、背中を向けられ慌てた。
「あ、待って、」
「任務、お疲れさま」
「……え?」
聞きとれないくらい小さな声は、イルカの耳に入り込んだ。
一瞬間を置いた隙にカカシは姿を消し見えなくなっていた。
途端に身体から緊張が抜ける。カカシの殺気の中にいたみたいだった。
追いかける事すら出来なかった。さっき姿を消さずに歩いていたのは、声をかけさせる為だったのか。いい加減面倒臭い相手に怒りを突きつける為に。
立ち尽くすイルカにはただ胸の痛みだけが残っていた。

結局何も伝える事が出来なかった。
こうなる事は予想出来たにせよ、直接対峙して言われるのがこんなに堪えるとは思わなかった。
ひどい言葉だと思えるのは、自分が心の内でカカシの見方を変えてしまったからだろうか。
彼が自分との記憶がどのくらいあるかは知らないが、自分の中にあるカカシの記憶は、鮮明でいくら消そうにも消えない。
簡単に忘れられないくらいに、心の中で留まっている。同時に蘇るカカシの暖かな表情。
そのカカシと同じ顔をで言われた思いも見ない言葉を思い出して、硬く目を瞑った。
じわじわと、蝕むように広がる胸の痛みを振り切るかのように、大きく息を吐いた。
(…泣きたい…)
アカデミーから出て夕闇に染まり始めた校門に目を向けた。
その景色はいるはずのない光景を思い出させる。
校門の横に背をつけて。いつもの愛読書を片手にイルカを待っていてくれた。残業で遅くなっても、彼は待っていてくれた。
イルカを見つけると露わな右目が優しく三日月がかり、嬉しそうに微笑んでくれた。
反射的に胸が痛み、目前の幻は霧のように消える。
忘れるしかない。
誰もいない校門を通りながら、イルカは自分に念じた。


***


商店街で買い物を済ませて。
雑踏の中を歩き、自宅近くの公園に差し掛かった。いくばかりか涼しくなった公園は虫の鳴き声が聞こえ始める。街灯がポツポツと着き始め、公園にもまた、灯りがともる。
メニューすら頭に浮かばないまま買い物をすませた袋は、ごちゃごちゃとして重い。
何となく公園に足を向けて、人影がいなくなったブランコに腰を下ろした。
「イルカさん…でしたかな」
不意に呼ばれた自分の名前に驚いて顔を上げた。
老人が一人、公園の入り口近くに佇んでいた。
見覚えがある。忘れるわけがない。
カカシの治療をした医者だった。
にこやかな表情はイルカを見つめていた。
ブランコから立ち上がり無言で頭を下げれば、老人も軽く頭を下げ、ゆっくりとした足取りで歩き、イルカの前に来た。
「公園は平和の象徴ですな」
誰もいない公園を見渡して、
「今日も昼間ここに足を運びましてな。子供がたくさん遊んでいました。当たり前のような光景ですが、いや、とても美しい光景でした」
思い出したかのように微笑んで、顎に手を当てた。
「此処に来て良かった」
満足そうにイルカを見た。
当たり前のようで当たり前ではない。忍びの国である故の平和は、ある意味とても尊くかけがえのないものだ。
「…そうですね」
笑顔を見せれば、同調するように老人は軽く頷く。
「そう、あの方はどうですか?」
「はい、あの方、ですか?」
「えぇと、…片目の…」
「あ、…はたけカカシですか」
名前を出せば思い出したのか、そうでした、と相槌を返された。
「不思議な症例でしたから」
「……不思議、ですか」
頭を傾げると、老人は語り出した。
「私が診た時にはね、もう人格が戻っておりましたから。…分裂した形跡は確かにありましたが、それも上手く…いや何とも奇妙な話ですが、一つに綺麗に戻っていた」
意味が分からない。
老人の顔をジッと見つめた。
「私が思うに…だいぶ前から分裂は治っていたと言う事です。稀な症例である話ですが、何らかの刺激により自分で分裂を押さえ込み治すと言う事があります。まさに、カカシさんはその症例と合致します」
医者としての好奇心からか、老人は感慨深げに頷いた。
「あなたは側にいて、何か気がつきませんでしたか?人格が入れ替わる事が続いていなかった、のでは?」
ドクン、と心臓が動いた。
いつからだろう。付き合い始めてから、カカシは新しい人格のまま、そして最後までそのままだった。
「おそらく、あなたの側にいた人格はすでに元の人格だったはずですよ」
「え!!」
初めて見せたイルカの反応に老人は驚き、すぐに微笑んだ。
「間違いないみたいですね」
「え、…あの…っ…すみません、失礼しますっ」
イルカは勢いよく一礼をし、背を向けると走って公園を出た。スピードを上げて駆け出す。
アカデミーに寄り、カカシの住所を調べると声をかける同僚に意味もなく謝りアカデミーを飛び出した。
正直未だ頭は混乱している。
怖いぐらいにぐしゃぐしゃだ。
それでもイルカは足を止めなかった。屋根に飛び直線距離で駆け抜ける。手荷物買い物袋が邪魔だが、気に留めていられなかった。

月が真上を照らす頃、荒い息を整えながらカカシの家の前にいた。
(…….いない)
部屋には明かりがついていない。暗い部屋を見上げてイルカは大きく息を吐き出した。
ドアを何度か叩いてみる。
相手は上忍だからほぼ不確かだが、イルカが探る限り気配は感じられない。
任務?いや、記憶にある限り七班の任務以外には予定は入っていなかった。
上忍仲間と予定があるのか、それとも、ーー他の約束か。
考えたくないとイルカはぎゅっと瞼を閉じてその場に座り込んだ。
話がしたい。
話すまでは帰らない。
絶対に帰ってくるまで此処を動くものか。

どのくらい時間が経ったのか。コンクリートにあてた身体は痛くて冷たい。膝に顔を埋め前後に身体を揺する。
帰ってこないかもしれない。
このまま朝になったらお笑い種だな。
自分が余りにも滑稽に思えて笑いを零す。
いい歳した大人が、何をしてるのか。
本当に、何やってんだ。
靴が砂利を踏む音に顔を上げる。

カカシが立っていた。

怪訝な表情を隠すことはない。冷たい目がイルカを見ていた。
「何の用?」
ため息まじりに頭を掻いて、両膝を抱えて座り込んでいるイルカを見下ろした。
言葉が出てこなかった。カカシを目の前にしたら何も出てこなかった。
「カカシさん」
ただ名前を呼んだ。
「だから何」
「カカシさん」
「……何なの?」
「カカシさん」
三回目にして困り果てた顔をしてカカシが近づいた。
「イルカ先生どうしちゃったの?壊れちゃった?」
しゃがみこんでイルカの顔を覗き込んだ。
「カカシさん、俺はあなたと話したい」
カカシの眉がピクリと動いたのがわかった。
「一緒に話したいし、一緒に帰りたい。一緒に飯を食いたいし、…一緒に笑いたい」
何言ってんだ俺は。丸で子供だ。
それでも、
「俺は、あなたと一緒にいたいんだ」
こんな言葉でカカシに笑われると思うのに。
膝を抱えていた手を冷たい地面に着けて。
もう片方の手でカカシの口布を引き下げ、露わになったカカシの唇に自分の唇を押し付けた。拙いキスでも構わない。必死に何度も重ねて。
浮かせた唇でイルカは呟いた。
「……任務なんか…くそくらえだ…」
跪いたカカシに両肩を掴まれ瞼を開けると、間近で青い瞳と視線が一瞬重なった。カカシの目の奥に光が灯っている。それがどんな意味かなんてよく分かっていた。
直ぐに荒々しく唇を奪われる。
目が眩むような感覚に、イルカは自ずから舌を絡めた。
胸に暖かいものがこみ上げ、自然鼻がツンとする。うっすらと目に涙が浮かぶのは、嬉しさからか、カカシによってもたらされる刺激なのか。
必死にカカシのキスに応えているうち涙が頬を伝う。
不意に唇を離して、息がかかる距離でカカシが口を開いた。指で涙を拭い、
「どうして泣くの?」
切な気に眉を寄せ、聞かれた。
「カ、…カシさん…」
また名前を呼ばれ、カカシは困った顔をした。
「あぁ、……もうそればっかだね」
緊張感がすでに解かれた空気の中、カカシは笑いを零した。
お互いに跪きながら、カカシはイルカを腕の中に引き寄せ、匂いを確かめるように首元で深く息を吸い吐き出した。
「イルカ先生、オレの事好きなんだね」
満足げな吐息が首元にかかる。
心地よい力で抱きしめられ、イルカは手をそっと背中に回して、
「やっと気が付きましたか」
イルカは息を吐くように囁いた。


カカシの家に入りお互いの熱を分かち合うように身体を重ねた。
夢中だった。
こんな気持ち初めてで、カカシも荒い息を吐き余裕のなさを感じさせた。
されど恥じらいが残るイルカを上から見下ろし髪を撫でる。
「ね、……気持ちいい?…もっとオレを感じてよ」
カカシは身を屈めてイルカの唇を貪る。
身を屈めた事により繋がりが深くなり堪らず声をあげた。
イルカ先生好き、大好き。
呪文のように呟かれ、頭に入る台詞は溶けてイルカを歓喜させ、イルカはただ、名前を呼んだ。

NEXT→
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。