犬とベイビー③
ここは、何処だろう。
見知らぬ場所だった。
何処か人気がない場所でカカシが口にした通り、縊り殺されるとばかり思っていた。
人気がないのは確かにそうだが。
拍子抜けしながらもカカシの顔を伺った。イルカは緊迫しながら警戒して辺りを見渡す。
カカシはイルカを抱えたまま部屋に入り、視線を施錠する方へ向けた。
今だっ…!
前脚を掴んでいるカカシの指を思い切り噛んだ。
「いたっ…コイツ…っ」
力が緩んだ隙にイルカはカカシの腕から飛び降りる。前脚が痛く、前のめりに倒れながらも、床を蹴り扉に向かった。
あれ?あ、そうか、しまった…。
小さい仔犬の背でドアノブに届くわけがない。
カリカリと爪で扉を掻いて。捕まりたくないと、奥の部屋へ走った。視界の片隅に銀色の髪が入り恐怖が走る。
嫌だ。
もう誰にも触れられたくない。
変化してから今までの出来事か走馬灯のように蘇る。どいつもこいつも、俺を捕まえて酷い事ばかりして。
人間であるはずの自分が、人間に恐怖を抱いていた。
逃げ場のない部屋をぐるぐると走り回り、寝台の下に潜り込んだ。狭いが、仔犬であるイルカの身体はスンナリと入る。
一番奥の壁まで入り、息を凝らした。
カカシの脚が見え、ビクリと身体が跳ねた。
「……参ったね…」
呟く声にここまでは入ってこれないと、内心ホッとすれば、隙間からカカシが顔をのぞかせてギョッとした。
額当ては外されている。赤い目を見て思わず身体を強張らせ目を強く閉じた。
写輪眼で何かやる気だ…!
初めて見たカカシの赤い目は無意識に恐怖を埋め込められた。
息を殺すイルカをカカシは暫く見つめて、息を吐き出した。
「いいよ…じゃあ気がすむまでそこにいなよ」
気配が遠ざかり、イルカは恐る恐る瞼を開けた。
いない。良かった…。
安堵して、体を崩して座る。前脚に顎を乗せて。隙間から見える見慣れない景色をボンヤリと眺めた。
ベットもあったし、…もしかしてここはカカシの部屋なのか。
だとしたら、何で部屋なんかに。
もしかして、忍犬にするためーー?
あのパックンもそうだが、何匹か忍犬がいるのは知っていた(犬嫌いの為その手の情報に詳しかった)
有り得る。
早くここから逃げ出さなければ。明日は紅に会わなきゃ行けない。
コトリと、音がして視界に入った物に顔を上げた。
目を疑った。
二つの陶器の皿には、ミルクと、ご白飯に鰹節が沢山かけられていた。
反射的にお腹がキュルキュルと鳴る。
嗅覚を刺激する匂いに、空腹中枢が限界と頭に信号を送る。
堪らず口から涎が出た。
だが、
「食べな、腹減ってるでしょ?…毒なんか入れてないからさ」
カカシの声に我に帰る。
罠だ。
俺を捕まえる為の。
だけど…。
目が眩みそうになる。目の前にあるご飯に飛びつきたい。犬食いでも何でもいい。食べたい。
イルカは頭を振って皿に背を向け座り直した。
今日1日、された事を忘れた訳じゃない。
腹は減ってるが、死なない。殺されると思えば我慢出来る。
「……頑固だね~、ま、いいよ」
カカシはため息混じりに言うと再び気配が消した。
お腹が空くと力が出ない。うずくまり空腹に耐える。
カカシの隙を見て逃げ出す。それだけを考えよう。そしたらきっと…。
イルカは微睡みながら次第に重くなる瞼に目を閉じていた。
「クシュッ!!」
自分のくしゃみで目が覚めた。
寒い…。あれ、俺布団で寝なかったか。
顔の下にあるフワフワしたものに顔を擦り、目を開けて獣の腕にギョッとした。
あ、そうか。俺犬だったんだ。
暗くて狭い場所も、昨日カカシに連れてこられた場所だと思い出す。
隙を見て逃げ出そうと考えている内に寝てしまった。
カカシは、何処だろう。
気配を伺う。もう少し様子を見るべきか。
部屋の明るさから考えるともう日が昇っている。紅の事を思い出し、やはり出ていかなければならないと思い改めた。
少しずつ身体を動かし顔だけを出して、鼻を動かした。捉える部屋の匂いはカカシのものだろうか。
ふと首を動かすと、窓から見える空は薄暗いが明るみを増していた。
ゆっくりと隙間から這い出して座り、辺りを見渡した。カカシの姿は見えない。
ホッと鼻から息を漏らして、部屋の中を歩いた。
昨日は周りを見る余裕がなかったが。
物は少ないが、人が生活している部屋だ。
カカシの部屋なのか。
背が低い為に見上げながら歩く。居間に脱衣所、キッチン。
何処も綺麗に片付いていた。
玄関に向かい、やはり鍵がかかっている事に落胆する。
窓から出れないだろうか。一つ一つを確認し、寝台へ足を向け息を呑んだ。
カカシがいた。
寝台の上で。布団に肘をついて顎を支えてイルカを見ている。
イルカは足が竦んでいた。
カカシから目を離せず固まったイルカを見て、カカシが口を開いた。
「…何かいい物でもあった?」
低い声が部屋に響く。
イルカの脚は微かに震えだした。
カカシがいた。
自分は昨日隠れていたのは寝台の下だったと改めて思い出す。最初に確認すべきだった。間抜けにウロウロしていた所を、カカシはずっと見ていたのだ。
むくりと起き上がると頭を掻く。
素顔を晒しているカカシの顔から目を反らせなかった。
話が通じる相手だろうか。いや、自分は犬だから話せない。忍犬使いならば分かるだろうか。
いやしかし、昨日カカシが言った言葉を思い出し無理だと悟る。自分を捕まえる事しか考えていないはずだ。
「さあて、と」
寝台から立ち上がるカカシに驚き、思わず吠えていた。
唸りながら後退る。
近づくな。
こっちに来るな。
「へぇ、元気だね。でも怖いんでしょ」
指を刺されてイルカは意味が分からず周りを見た。
「尻尾。そんなに内側に巻いちゃって」
首を動かし自分の身体を見ると、イルカの尻尾は縮こまるように、後脚に隠れていた。
自分の気持ちを悟られて恐怖心がさらに煽られる。
カカシが更に近づく気配にハッとして再び吠えた。
「良い加減諦めなって」
誰が。
溜息交じりのカカシの声に威勢良く吼えたてる。
だがしかし、カカシが怖がる訳でもなく。
どうせ犬に変化させられるなら大型犬のよいな攻撃性のある犬なら良かった。
こんな小さな仔犬が吠えた所で凄みもあったものではない。
睨み合う2人の間の距離は縮まらない。
ピクリとイルカの耳が動いた。
この家の敷地内に感じる気配。間違えるはずがない気配にカカシを見れば、同じく既にその気配を察知し、イルカの顔色を伺うようにイルカを見ていた。お互いに顔を見ながらも、気配はすぐ近くまで来る。
「カカシ先生~」
ドカドカと扉を叩く音。
「な~いるんだろ?」
遠慮なしに発せられる声に、カカシは小さく嘆息して玄関へ向かう。
イルカは距離を取るように、しかし隙を伺うように後を追った。
「せんせ~」
「はいはい、朝から何なのお前は」
カカシが鍵を開け扉を開けた瞬間、
イルカは猛ダッシュをかけて走り出した。
逃げる。
このチャンスを逃したら最後だ。
絶対に逃げる。
目の前に開いた扉が見える。
後少し…!
が、
グイと首元を掴まれて空に浮く手脚。
「だーめ、だよ」
いとも簡単にイルカを捕まえてカカシは自分の顔の前に持ってきた。
怨めしくカカシを睨む。一声吠えれば、背後から声がかかった。
「あれ、先生。それ犬じゃん」
「ま、ね」
暴れるイルカをなだめるように身体を撫でられ、余計にイルカは抵抗の声を上げた。
逃げたい…!
離せ離せ離せ離せ離せ離せ!!!
「すっげー元気じゃん」
「ん~…でも怪我して」
目の前に来た指を首を伸ばして思い切り噛んでいた。
「………つっ」
反射的に、と言う言葉が正しい。
闇雲に暴れていて目の前に現れた物を攻撃していた。
途端イルカを掴んでいた手が離され、イルカは床に落ちた。
多少の衝撃があったが、イルカは体制を素早く整え扉を抜けて外に出る。
振り返ってはいけない。イルカは全速力で駆け抜けていった。
必死だった。演習場まで止まらずにイルカは走り続けて、脚が痛くても庇う事すら忘れて、ひたすら走った。
息切れ切れに演習場にたどり着いた時、イルカは地面に倒れこんだ。
こんなに走ったのはいつぶりだろう。肺が苦しい。
口を開け、激しい呼吸を繰り返す。
ここにいれば、紅が来る。
人間に戻してもらって、ーーいつも通りの生活に。
整ってきた息に、イルカは立ち上がった。周りを見渡す。
早朝の為か人の気配はなく、森の方には朝靄がかかっている。
森には入ってはいけない。昨日の様なヘマをしたら、今度こそ本当に人間に戻れなくなるかもしれない。
舌を口に戻して、ぺろと鼻を舐める。口内に広がっていた血の香りを不意に思い出した。
俺、カカシ先生を思い切り噛んだ。
血が出るくらいに、噛んだ。
過るのは不安か後悔か。
怪我をさせてしまっただろうか。
イルカはカカシの家だろう方向を見上げた。
人間に戻って謝る訳にはいかないだろう。
でも、カカシだって悪い。無抵抗の犬を家に連れて閉じ込めたんだ。
そうだ。俺は悪くない。
「おい、イルカ」
「ギャッ!!」
目の前に現れた顔に驚き身体が跳ねた。
「……同じ犬だろう、今は。まだ慣れんのか」
パックンが呆れてイルカを見ていた。
「え、…何だパックンか…」
「何だとは何だ」
憮然とするパックンに、イルカは辺りを見た。誰もいない。いるのはパックンだけだ。
「……紅は?」
「その事で来た。手短に言うぞ。紅の任務が予想外に手こずってる。だから此処には来られなかった」
「…じゃあ、え…俺は…」
「2、3日は里には戻れない。だから、それまではそのままでいるように、が紅からの伝言だ」
衝撃だった。
あまりにもショックで言葉が出てこなかった。
「俺はまたすぐ紅の所に戻る、時間が惜しい」
足早に駆け出すパックンに慌て、ようやく口から言葉が出た。
「そんなっ、困るよ!!」
「辛抱しろ、犬はそんなに悪くはないだろう」
振り返り、それだけ言うとパックンは姿を消した。
嘘だろう。
愕然としたまま、イルカはパックンが走り去った景色を見ていた。
こんなはずじゃなかった。
こんなはずではーー。
頭上でカラスが鳴く。
丸でそれは自分を馬鹿にしているように聞こえ。
そうだ、俺は馬鹿みたいだ。
力が抜けて、イルカはその場に座り込んでいた。
***
雪、降るのかな。
イルカは鼻を空に上げて匂いを嗅いだ。
今にも落ちてきそうなどんよりとした重い雲を見上げて。
イルカは直ぐに顔を地面につけた。
パックンが来て再び去ってから、イルカは一歩も動いていなかった。
動きたくなかった。
動けなかった。
たぶんどちらもだろう。
演習場の隅にある大きな岩の下で、丸くなり踞る。
自分も同じ岩のようにそこから動く事はなかった。
空腹も限界を超えていた。
森に行けば何か食べ物があるのかもしれない。だが、その危険を冒す勇気はない。
街に行き、自分の家に帰るのも手だ。しかしそれも同じでまた捕まりかねない。
それより、考える力すらない。
昨日より寒さを強く感じるのは体力が低下しているせいなのかもしれない。
鼻先を手足に埋める。
もう夜が更けようとしていた。
今日はここで夜を明かそう。明日の事は朝になったら考えればいい。
力なく身体を震わせて。
不意に頭に触れた暖かい何かに、薄っすら瞼を開けた。
ボンヤリとして顔を上げる。
カカシだと分かるのには時間がかかった。
視界に入る銀色の髪に顔を見れば。露わな青い瞳がイルカを見ていた。
しつこいな。
噛んで逃げ出したのに。
この男は懲りずにまた、自分の前にいる。
無気力のままカカシを見上げていれば、撫でる手は頭から身体に移る。
勝手に触ればいい。
逃げる気力がない。
朝まで、毛を逆立ていた自分が嘘のようだ。
ただ、放っておいてくれ。
ーー頼むから。
顔を地面に戻し好きに触らせていると、カカシの手が離れ、熱がイルカから離れた。
帰るのか。
目だけをカカシに向ければ、
ーー目の前に置かれたものに、顔を上げた。
笹の葉に置かれた白いおにぎりだった。
「食べな」
それは、何より静かな声だった。
イルカを威嚇する事も脅えさせる事もない。
彼の、言葉だった。
カカシを計るように顔を見上げる。
思惑が読めない目が真っ直ぐ向けられていた。
「食べな」
再び言われた言葉に、イルカは戸惑った。どうしていいのか分からなくなっていた。
動かないイルカにカカシの手が動き、おにぎりを手に取ると、イルカの口の前まで持ってくる。
おにぎりを持つ手に、テープを巻かれた指。微かに血が滲んでいた。
自分が噛んだ。
そうだ、俺が噛んだんだ。
「ほら」
変なヤツ。
また噛まれるかもしれないのに。
指を見て、おにぎりを見る。
真っ白いおにぎり。
ホントに、変なヤツ。
イルカは口を開けて一口口にした。
1日ぶりに食べるご飯はイルカの口を動かした。飲み込み、食べ、飲み込み、食べる。
カカシの手から全て平らげる。
美味しかった。
ただの白いご飯なのに。
すごく美味しかった。
その時、カカシが満足そうな顔をしたのは、気のせいだったのだろうか。
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見知らぬ場所だった。
何処か人気がない場所でカカシが口にした通り、縊り殺されるとばかり思っていた。
人気がないのは確かにそうだが。
拍子抜けしながらもカカシの顔を伺った。イルカは緊迫しながら警戒して辺りを見渡す。
カカシはイルカを抱えたまま部屋に入り、視線を施錠する方へ向けた。
今だっ…!
前脚を掴んでいるカカシの指を思い切り噛んだ。
「いたっ…コイツ…っ」
力が緩んだ隙にイルカはカカシの腕から飛び降りる。前脚が痛く、前のめりに倒れながらも、床を蹴り扉に向かった。
あれ?あ、そうか、しまった…。
小さい仔犬の背でドアノブに届くわけがない。
カリカリと爪で扉を掻いて。捕まりたくないと、奥の部屋へ走った。視界の片隅に銀色の髪が入り恐怖が走る。
嫌だ。
もう誰にも触れられたくない。
変化してから今までの出来事か走馬灯のように蘇る。どいつもこいつも、俺を捕まえて酷い事ばかりして。
人間であるはずの自分が、人間に恐怖を抱いていた。
逃げ場のない部屋をぐるぐると走り回り、寝台の下に潜り込んだ。狭いが、仔犬であるイルカの身体はスンナリと入る。
一番奥の壁まで入り、息を凝らした。
カカシの脚が見え、ビクリと身体が跳ねた。
「……参ったね…」
呟く声にここまでは入ってこれないと、内心ホッとすれば、隙間からカカシが顔をのぞかせてギョッとした。
額当ては外されている。赤い目を見て思わず身体を強張らせ目を強く閉じた。
写輪眼で何かやる気だ…!
初めて見たカカシの赤い目は無意識に恐怖を埋め込められた。
息を殺すイルカをカカシは暫く見つめて、息を吐き出した。
「いいよ…じゃあ気がすむまでそこにいなよ」
気配が遠ざかり、イルカは恐る恐る瞼を開けた。
いない。良かった…。
安堵して、体を崩して座る。前脚に顎を乗せて。隙間から見える見慣れない景色をボンヤリと眺めた。
ベットもあったし、…もしかしてここはカカシの部屋なのか。
だとしたら、何で部屋なんかに。
もしかして、忍犬にするためーー?
あのパックンもそうだが、何匹か忍犬がいるのは知っていた(犬嫌いの為その手の情報に詳しかった)
有り得る。
早くここから逃げ出さなければ。明日は紅に会わなきゃ行けない。
コトリと、音がして視界に入った物に顔を上げた。
目を疑った。
二つの陶器の皿には、ミルクと、ご白飯に鰹節が沢山かけられていた。
反射的にお腹がキュルキュルと鳴る。
嗅覚を刺激する匂いに、空腹中枢が限界と頭に信号を送る。
堪らず口から涎が出た。
だが、
「食べな、腹減ってるでしょ?…毒なんか入れてないからさ」
カカシの声に我に帰る。
罠だ。
俺を捕まえる為の。
だけど…。
目が眩みそうになる。目の前にあるご飯に飛びつきたい。犬食いでも何でもいい。食べたい。
イルカは頭を振って皿に背を向け座り直した。
今日1日、された事を忘れた訳じゃない。
腹は減ってるが、死なない。殺されると思えば我慢出来る。
「……頑固だね~、ま、いいよ」
カカシはため息混じりに言うと再び気配が消した。
お腹が空くと力が出ない。うずくまり空腹に耐える。
カカシの隙を見て逃げ出す。それだけを考えよう。そしたらきっと…。
イルカは微睡みながら次第に重くなる瞼に目を閉じていた。
「クシュッ!!」
自分のくしゃみで目が覚めた。
寒い…。あれ、俺布団で寝なかったか。
顔の下にあるフワフワしたものに顔を擦り、目を開けて獣の腕にギョッとした。
あ、そうか。俺犬だったんだ。
暗くて狭い場所も、昨日カカシに連れてこられた場所だと思い出す。
隙を見て逃げ出そうと考えている内に寝てしまった。
カカシは、何処だろう。
気配を伺う。もう少し様子を見るべきか。
部屋の明るさから考えるともう日が昇っている。紅の事を思い出し、やはり出ていかなければならないと思い改めた。
少しずつ身体を動かし顔だけを出して、鼻を動かした。捉える部屋の匂いはカカシのものだろうか。
ふと首を動かすと、窓から見える空は薄暗いが明るみを増していた。
ゆっくりと隙間から這い出して座り、辺りを見渡した。カカシの姿は見えない。
ホッと鼻から息を漏らして、部屋の中を歩いた。
昨日は周りを見る余裕がなかったが。
物は少ないが、人が生活している部屋だ。
カカシの部屋なのか。
背が低い為に見上げながら歩く。居間に脱衣所、キッチン。
何処も綺麗に片付いていた。
玄関に向かい、やはり鍵がかかっている事に落胆する。
窓から出れないだろうか。一つ一つを確認し、寝台へ足を向け息を呑んだ。
カカシがいた。
寝台の上で。布団に肘をついて顎を支えてイルカを見ている。
イルカは足が竦んでいた。
カカシから目を離せず固まったイルカを見て、カカシが口を開いた。
「…何かいい物でもあった?」
低い声が部屋に響く。
イルカの脚は微かに震えだした。
カカシがいた。
自分は昨日隠れていたのは寝台の下だったと改めて思い出す。最初に確認すべきだった。間抜けにウロウロしていた所を、カカシはずっと見ていたのだ。
むくりと起き上がると頭を掻く。
素顔を晒しているカカシの顔から目を反らせなかった。
話が通じる相手だろうか。いや、自分は犬だから話せない。忍犬使いならば分かるだろうか。
いやしかし、昨日カカシが言った言葉を思い出し無理だと悟る。自分を捕まえる事しか考えていないはずだ。
「さあて、と」
寝台から立ち上がるカカシに驚き、思わず吠えていた。
唸りながら後退る。
近づくな。
こっちに来るな。
「へぇ、元気だね。でも怖いんでしょ」
指を刺されてイルカは意味が分からず周りを見た。
「尻尾。そんなに内側に巻いちゃって」
首を動かし自分の身体を見ると、イルカの尻尾は縮こまるように、後脚に隠れていた。
自分の気持ちを悟られて恐怖心がさらに煽られる。
カカシが更に近づく気配にハッとして再び吠えた。
「良い加減諦めなって」
誰が。
溜息交じりのカカシの声に威勢良く吼えたてる。
だがしかし、カカシが怖がる訳でもなく。
どうせ犬に変化させられるなら大型犬のよいな攻撃性のある犬なら良かった。
こんな小さな仔犬が吠えた所で凄みもあったものではない。
睨み合う2人の間の距離は縮まらない。
ピクリとイルカの耳が動いた。
この家の敷地内に感じる気配。間違えるはずがない気配にカカシを見れば、同じく既にその気配を察知し、イルカの顔色を伺うようにイルカを見ていた。お互いに顔を見ながらも、気配はすぐ近くまで来る。
「カカシ先生~」
ドカドカと扉を叩く音。
「な~いるんだろ?」
遠慮なしに発せられる声に、カカシは小さく嘆息して玄関へ向かう。
イルカは距離を取るように、しかし隙を伺うように後を追った。
「せんせ~」
「はいはい、朝から何なのお前は」
カカシが鍵を開け扉を開けた瞬間、
イルカは猛ダッシュをかけて走り出した。
逃げる。
このチャンスを逃したら最後だ。
絶対に逃げる。
目の前に開いた扉が見える。
後少し…!
が、
グイと首元を掴まれて空に浮く手脚。
「だーめ、だよ」
いとも簡単にイルカを捕まえてカカシは自分の顔の前に持ってきた。
怨めしくカカシを睨む。一声吠えれば、背後から声がかかった。
「あれ、先生。それ犬じゃん」
「ま、ね」
暴れるイルカをなだめるように身体を撫でられ、余計にイルカは抵抗の声を上げた。
逃げたい…!
離せ離せ離せ離せ離せ離せ!!!
「すっげー元気じゃん」
「ん~…でも怪我して」
目の前に来た指を首を伸ばして思い切り噛んでいた。
「………つっ」
反射的に、と言う言葉が正しい。
闇雲に暴れていて目の前に現れた物を攻撃していた。
途端イルカを掴んでいた手が離され、イルカは床に落ちた。
多少の衝撃があったが、イルカは体制を素早く整え扉を抜けて外に出る。
振り返ってはいけない。イルカは全速力で駆け抜けていった。
必死だった。演習場まで止まらずにイルカは走り続けて、脚が痛くても庇う事すら忘れて、ひたすら走った。
息切れ切れに演習場にたどり着いた時、イルカは地面に倒れこんだ。
こんなに走ったのはいつぶりだろう。肺が苦しい。
口を開け、激しい呼吸を繰り返す。
ここにいれば、紅が来る。
人間に戻してもらって、ーーいつも通りの生活に。
整ってきた息に、イルカは立ち上がった。周りを見渡す。
早朝の為か人の気配はなく、森の方には朝靄がかかっている。
森には入ってはいけない。昨日の様なヘマをしたら、今度こそ本当に人間に戻れなくなるかもしれない。
舌を口に戻して、ぺろと鼻を舐める。口内に広がっていた血の香りを不意に思い出した。
俺、カカシ先生を思い切り噛んだ。
血が出るくらいに、噛んだ。
過るのは不安か後悔か。
怪我をさせてしまっただろうか。
イルカはカカシの家だろう方向を見上げた。
人間に戻って謝る訳にはいかないだろう。
でも、カカシだって悪い。無抵抗の犬を家に連れて閉じ込めたんだ。
そうだ。俺は悪くない。
「おい、イルカ」
「ギャッ!!」
目の前に現れた顔に驚き身体が跳ねた。
「……同じ犬だろう、今は。まだ慣れんのか」
パックンが呆れてイルカを見ていた。
「え、…何だパックンか…」
「何だとは何だ」
憮然とするパックンに、イルカは辺りを見た。誰もいない。いるのはパックンだけだ。
「……紅は?」
「その事で来た。手短に言うぞ。紅の任務が予想外に手こずってる。だから此処には来られなかった」
「…じゃあ、え…俺は…」
「2、3日は里には戻れない。だから、それまではそのままでいるように、が紅からの伝言だ」
衝撃だった。
あまりにもショックで言葉が出てこなかった。
「俺はまたすぐ紅の所に戻る、時間が惜しい」
足早に駆け出すパックンに慌て、ようやく口から言葉が出た。
「そんなっ、困るよ!!」
「辛抱しろ、犬はそんなに悪くはないだろう」
振り返り、それだけ言うとパックンは姿を消した。
嘘だろう。
愕然としたまま、イルカはパックンが走り去った景色を見ていた。
こんなはずじゃなかった。
こんなはずではーー。
頭上でカラスが鳴く。
丸でそれは自分を馬鹿にしているように聞こえ。
そうだ、俺は馬鹿みたいだ。
力が抜けて、イルカはその場に座り込んでいた。
***
雪、降るのかな。
イルカは鼻を空に上げて匂いを嗅いだ。
今にも落ちてきそうなどんよりとした重い雲を見上げて。
イルカは直ぐに顔を地面につけた。
パックンが来て再び去ってから、イルカは一歩も動いていなかった。
動きたくなかった。
動けなかった。
たぶんどちらもだろう。
演習場の隅にある大きな岩の下で、丸くなり踞る。
自分も同じ岩のようにそこから動く事はなかった。
空腹も限界を超えていた。
森に行けば何か食べ物があるのかもしれない。だが、その危険を冒す勇気はない。
街に行き、自分の家に帰るのも手だ。しかしそれも同じでまた捕まりかねない。
それより、考える力すらない。
昨日より寒さを強く感じるのは体力が低下しているせいなのかもしれない。
鼻先を手足に埋める。
もう夜が更けようとしていた。
今日はここで夜を明かそう。明日の事は朝になったら考えればいい。
力なく身体を震わせて。
不意に頭に触れた暖かい何かに、薄っすら瞼を開けた。
ボンヤリとして顔を上げる。
カカシだと分かるのには時間がかかった。
視界に入る銀色の髪に顔を見れば。露わな青い瞳がイルカを見ていた。
しつこいな。
噛んで逃げ出したのに。
この男は懲りずにまた、自分の前にいる。
無気力のままカカシを見上げていれば、撫でる手は頭から身体に移る。
勝手に触ればいい。
逃げる気力がない。
朝まで、毛を逆立ていた自分が嘘のようだ。
ただ、放っておいてくれ。
ーー頼むから。
顔を地面に戻し好きに触らせていると、カカシの手が離れ、熱がイルカから離れた。
帰るのか。
目だけをカカシに向ければ、
ーー目の前に置かれたものに、顔を上げた。
笹の葉に置かれた白いおにぎりだった。
「食べな」
それは、何より静かな声だった。
イルカを威嚇する事も脅えさせる事もない。
彼の、言葉だった。
カカシを計るように顔を見上げる。
思惑が読めない目が真っ直ぐ向けられていた。
「食べな」
再び言われた言葉に、イルカは戸惑った。どうしていいのか分からなくなっていた。
動かないイルカにカカシの手が動き、おにぎりを手に取ると、イルカの口の前まで持ってくる。
おにぎりを持つ手に、テープを巻かれた指。微かに血が滲んでいた。
自分が噛んだ。
そうだ、俺が噛んだんだ。
「ほら」
変なヤツ。
また噛まれるかもしれないのに。
指を見て、おにぎりを見る。
真っ白いおにぎり。
ホントに、変なヤツ。
イルカは口を開けて一口口にした。
1日ぶりに食べるご飯はイルカの口を動かした。飲み込み、食べ、飲み込み、食べる。
カカシの手から全て平らげる。
美味しかった。
ただの白いご飯なのに。
すごく美味しかった。
その時、カカシが満足そうな顔をしたのは、気のせいだったのだろうか。
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