きえる⑤

昼間は晴れていたが、気がつけば徐々に雲に覆われていた。街頭がない道は漆黒に包まれるものの、明かりがともる中心街は別だ。カカシは人混みに紛れて一人酒を飲んでいた。
家に居たくなかった、が正しい。一人で家にいるだけで考えたくない事まで考えてしまいそうだった。
混雑した居酒屋で一人カウンターで酒を飲む。アスマを誘っても良かったが、断られる率の方が高いと分かっていた。
飲んでい間に数人、声をかけてきたが無視した。ぼんやりとしながらちびちび飲んでいるカカシを心配したのか、カウンター越しに店主らしき人が、お嬢さんもうそれで終わりにして帰ったらどうだい。なんて心配されたが、カカシは苦笑いを浮かべて誤魔化した。飲み足らないわけではないが、家に帰りたくなかった。
金曜だからか、居酒屋は混んでいた。そろそろ席を空けるべきかと、酒がなくなったカカシは仕方ないと重い腰を上げる。
支払いを済ませるとカカシはのれんをくぐって外に出た。
湿った空気だが、居酒屋の混雑した空気よりはいい。その空気を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
さて、次はどうしようか。
月のない真っ黒な雲が覆う空を見上げた。
どうしようかと言っても、もう空腹は満たされていた。酒も足りてこれ以上飲んでも美味くは感じないだろう。いや、最初から美味いとも思っていなかったが。
だったらもう帰るしかない。
前から歩いてくる数人の集団がカカシの横を通り過ぎる。その集団が通り過ぎるまでぼんやりとやり過ごしている中、距離を置いて歩く最後の一人に目を止めた。
「テンゾウ」
名前を呼んでいた。
声を出さずに呼ばれた男は振り返り、カカシを見つめた。驚いてはいるが、じっとカカシを見る。
「・・・・・・どちら様でしょうか」
暗部の仲間でしか知ることがない。その名前を知らない女が呼んだのだから、テンゾウが驚くのは当たり前だった。
自分も失念していた。任務中ならともかく、数日この姿でいれば違和感が薄くなる事は有り得る事だ。だが、呼んでしまったのだから仕方がない。切り替えるようにカカシは微笑んだ。
「忘れたの?ひどい」
そこで初めてテンゾウは動揺の色を見せた。ぎょっとしながらも微かに眉を寄せる。
予想通りの反応。昔から目をかけていた後輩は、警戒心が強い。それを知っているから、その反応が面白かった。
カカシは腕を掴む。表情に出さまいとしているが、ますます困惑したのが手に取るように分かった。
「いや、忘れるも何も、俺は知らないですが」
人違いでは?
テンゾウなんて名前、自分以外にいないだろうに。またカカシはおかしくなってきた。
それに、だったこれだけの会話でさっきまでの疎外感がテンゾウによって薄れていた。
「私は知ってるのに?・・・・・・とにかくさ、一緒に飲もうよ」
腕を引っ張るとさらにテンゾウは困惑する。だがテンゾウは知らない女とは飲むわけがない。そろそろ自分の名前を出そうと、テンゾウの腕を引き寄せ耳打ちしようとした。
その腕を掴まれた。その力は強くてカカシは驚き振り向く。
思わず怯んだのは。
イルカが肩で息をして、険しい顔をして立っていたからだ。
一瞬頭が真っ白になる。
状況は明白なのに、上手く飲み込めなかった。
大きな目を数回瞬きするカカシを前に、イルカの黒い目は抗議するようにきつくなった。
その目を、隣にいたテンゾウに向ける。
「失礼ですが、あなたはこの女性の知り合いですか?」
聞かれ、テンゾウは頭を横に振った。
「いえ、全く」
その答えを聞いて、イルカは眉根を寄せる。カカシに再び顔を向けた。
「あなたは一体何をしてるんですか」
強い口調はカカシを戸惑わせるのに十分だった。思わず目を逸らしたくなるカカシは視線をずらし、イルカの少し後ろに立っている女性に気がつく。
ーー職員室でイルカと一緒に話しでいた、あの女性だった。
その女性が何故ここにいるかは、すぐに分かる。
カカシはイルカへ視線を戻した。
「別に・・・・・・あなたには関係ないでしょ。それに、女性を待たせていいの?」
心配そうな顔でイルカを見ている女性へ、カカシは態とらしく視線を向けた。
「・・・・・・っ、そんな事を俺は今言ってるんじゃないんです」
「じゃあ何なの」
イルカもそうだが、自分も。声が大きくなっていた。
テンゾウも、テンゾウといた集団もまた立ち止まってこっちを見ている。その視線にイルカは気にしているようだった。
再び腕をイルカに掴まれた。引っ張られ、カカシは慌てた。
「ちょっと、なに、」
「いいから、来てください」
周囲と距離を取るつもりなのだろう。その通り、イルカは腕を引っ張り、人通りの少ない路地にカカシを連れて行く。
イルカに掴まれ、慣れない感触で、力強く感じたのは自分の腕が細くなっているからだ。
イルカに手を離され、カカシは掴まれていた手首を擦った。
イルカは苛立っている様子だった。それは声をかけられた時からそうで。
それが何故なのか。一体何がしたいのか。何を言うつもりなのか。
不安がカカシの胸を渦巻いた。
はあ、と大きなため息を吐き出すと。イルカは地面からカカシへ視線を向ける。
「・・・・・・何で知らない男性に声をかけたりするんですか」
イルカは苦しそうな顔をしていた。非難する口調に、何が言いたいのか分かったカカシは、どうしようかと考えた。イルカの考えているような、軽率で不謹慎な意味ではなかった。最初は悪戯心があったものの、ただ一人飲むが嫌で、つい声をかけていて。後輩を誘おうかと思っただけだ。
それでも、今自分はそれを説明し、説得出来る姿ではなかった。かといって今更自分がカカシだと名乗る事なんて到底出来ない。
任務では状況判断が出来るのに、頭が固まってしまっていた。
そこから無言になるカカシに、肯定していると捉えたのか。イルカはまた重々しい空気を口から吐いた。
反射的に身構える表情をしたカカシを見て、イルカは一回開いた口を閉じ、眉を下げた。
言葉を選ぼうと、考えているのが伝わってきた。勢いで見かけたカカシを止めはしたが、その勢いだけでするべき立場でもなかったと、後悔しているようにも見えた。
「・・・・・・俺が言うのも間違ってるとは思ってます」
「そんな事はないです」
その言葉が返ってくるとは思ってなかったのか。イルカは目を丸くした。
分かっている。イルカのしている事は間違ってはいない。例え自分がそうしない人間であっても、イルカはそれを見逃せずに行動出来る人間なのだ。カカシが肯定した意味はそれだけではない。他の誰でもない、自分に声をかけてくれた事が今、嬉しいとさえ思えていたから。
誰にも向けた事のない、素直な気持ちでイルカに向き合えていた。カカシはイルカを見つめる。
「だけど、あなたみたいな人は初めてなんです」
呟くように言えば、イルカが少し表情を緩めた。それはカカシを安心させる。
でも、とカカシは続けた。
「ただ今日は家に帰りたくなくて、誰かと飲みたかっただけなんです。あなたの思っているような事は、考えてなかった」
そこだけは伝いたいと、カカシは声を強めた。
思っている事とは何か。それが伝わったのだろう。イルカの頬が赤くなり、困ったような顔でイルカは唇を噛んだ。
「いや、そこまでは」
イルカが顔を上げたその頬に、ぽつりと雨が落ちる。それはカカシにも同じように濡らした。顔を上げると、既に雨が降り始めていた。この季節にあるようなスコールの様な雨は、直ぐに服を濡らし始める。
どうしようかとイルカを見ると、イルカもカカシを見ていた。ふと路地裏を覗く人影がその交差する視線を遮った。
イルカの連れの女性かと思ったが、違う。テンゾウと連れだって歩いていた集団の一人か。
雨を遮るように顔に手をかざした、そのカカシの手をイルカが掴んだ。
目を丸くし、え、と言う間もなかった。
イルカがまたカカシを引っ張り走り出していた。
振り解いても良かった。だってイルカにはあの女性が待っていて。
雨が降れば尚更で。
イルカと自分が一緒にいる理由はない。それはイルカも分かっているはずだった。
それでも、拒もうとは思えなかった。
イルカは自分の手を掴んだ、その選択を否定したくなかった。
雨は激しく地面を打ち続ける。
カカシは、イルカに引っ張られるままに雨の中を一緒に走った。


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