傷③

感覚が少しずつ戻ってくる。

急速に回復する意識に、イルカは目を開けた。
(寒い...)
動いた指が、冷たい地面を擦る。頬に当たる土の感触に、自分が倒れていることに気づいた。
身体に突き刺さる寒さに、イルカは身じろぎする。
イルカは先ほどまで半袖にハーフパンツで家にいたのだ。その寒さに震え上がって身体を起こした。
頭を触ると、結ってあるはずの髪は解かれて風に揺れる。
(あれ、俺...、確か家で植木鉢を...)
徐々に回復する記憶を思い出して辺りを見渡した。
暗い。夜になっている。夕方からそんな気を失っていたのか。
しかし、場所はイルカのいたアパートではない。
その場所には見覚えがあった。
桜の木が植えられた小高い丘で、カカシに連れられて来たことが一度だけあった。
桜の咲く春になると、外界に広がる景色と桜の景色とが重なる、絶景スポット。
それを自分に見せたいと、カカシに連れられて来た、----懐かしい場所だ。
が、そんな思い出に浸る余裕がない。寒い。とにかく寒い。イルカはもう一度辺りを見渡す。
桜の木は葉が一枚もなく、堅い蕾があるかないか。
(これって、...冬?え...、何で?)
半ばパニック状態で頭を抱えた。180度変わっている景色は信じがたい。
来ている服では全く防寒にならない。しかも足は裸足だ。
両腕で身体を擦りながら身を固まらせる。イルカの頭は困惑した。
訳がわからない。
(寒いし、暗いし、家じゃないし。何なんだよ...!)

不意に背後に気配を感じて息を止めて振り返った。忍具は全て家だ。手に持つものは何もない。
その気配がゆっくりと丘をあがってくる。
イルカは凍えながら気配を消し、桜の木に身を潜めた。

「誰なの」

暗闇で低い声が響いた。耳を疑った。忘れる訳がない声に、一瞬寒さが消えた。
イルカは身動き一つ出来なくなっていた。
冷たくなった手が、不意に現れた影に強く掴まれた。急な動きに全く抵抗できるはずもなく、強い力で後手に回される。
「い、痛いっ....、痛いですカカシさん..っ」
声が聞こえた距離から、このタイミングで捕まり、信じられないスピードに声が上擦った。
「え、イルカ先生?」
ゆるりと手が離された。締められた関節を擦りながら振り返ると、カカシも驚いて目を開いている。
久しぶりのカカシに、胸が締め付けられる。間違いない。目の前にいる人物は、本当にはたけカカシだ。
信じられない気持ちで、視線を合わせたままイルカはただただ見つめた。懐かしい気持ちでいっぱいになる。
こんなに視線を合わせたのはいつぶりだろう。
何を話せばいいのか、それさえも頭に浮かんでこない。
内心カカシの言動に驚いていた。あんな酷い別れ方をし、そのまま口を利くこともなくカカシは里を離れた。
お互いに視線さえ合わす事を避けていた。
なのに、目の前にいるカカシは普通に自分の名前を呼び、視線を向けてくれている。
寒さで身体を震わせながらも目の前にいるカカシに胸が震える。
あんなにも会いたかった人。

カカシはそんなイルカをジーっと見つめて眉をひそめる。ジロジロとイルカの全身見て、最後にイルカの目に視線を戻した。
「そんな格好して、ここで何してるの?」
それはごく聞かれてあたり前の内容だと思うが、久しぶりに言葉を交わすのがその台詞なのか、とカカシを伺い見た。
カカシは口にした言葉の通り、ただ、不思議そうにイルカを見つめていた。
質問に対して、どう説明すべきか口を濁した。それは自分だって聞きたいのだから。
そんなイルカを前にして、カカシは続けた。
「仕事、もう終わったの?すごい薄着。しかも裸足。まるで家にいる格好ですよ」
心底心配していると、そんな声だった。
聞かれた質問の内容がおかしい。意味がわからず内心首をかしげた。
言われた言葉を頭の中で反芻させる。
(...仕事?)
「仕事...は、今日は休みでしたが..」
辿々しく、訂正する言葉を口にした。カカシは、ん?と首を傾げた。
「…仕事だったじゃない。イルカ先生何言ってるの、...あ、分かった。罰ゲームかなにかですか」
なるほど、と片手をポンと叩いて。
イルカはそんなカカシに目を見張った。話す内容をほとんど理解できていない。
そもそもなんでそんな砕けた話し方をしてくるのかも分からない。
思い出されるのは、カカシの冷えた目と、苦しいくらいの胸の痛み。
なのに、カカシは不思議な言動をし続けている。
(ば、罰ゲーム?)
素っ頓狂なセリフに口をポカンと開けてカカシを見た。
「いや、だから俺は今日は休みで、家にずっといたんです。ここにいる理由は自分でもわからないですが、..カカシさんこそ、長期任務はどうされたんですか?里に帰ってきてるって事は、もう任務は終わられたんですか?」
素直な質問をカカシにぶつけた。
カカシに言われる内容も、この状況も分からない事だらけで不安になる。
寒さも我慢の限界に近い。素足じゃどうにも寒くてもじもじと足を動かす。とにかく、家に帰りたい。
不意に両肩を掴まれて、驚いてカカシの顔を見た。
真剣な眼差しで自分を見つめている。片目だけなのに、視線が痛い。
「..本当にイルカ先生?」
「え、...」
「ねえ」
カカシは押し殺したようにゆっくり呟いた。まるで、亡霊に囁いているかの声色に、きつねにつつまれた気分になる。
動いてるであろう覆面の口元をぼんやりと見つめて、何と言ったらいいのか思考を巡らせた。
「イルカ先生、飛びますよ」
「え、わ!」
カカシの声が聞こえた瞬間、カカシがイルカを両腕で抱きかかえて空を飛んでいた。
視界が回転して、動くスピードについていけない。風を切るあまりの寒さに、イルカはカカシの首にぎゅう、とすがりついた。
重いであろうイルカの身体は軽々持ち上げられ、屋根から屋根へ素早く移動している。
アカデミーらしき景色が目に入るが、カカシは止まる様子もない。
不意にカカシが止まった時、気がつけば丘から遠く離れた場所まで来ていた。
建物の影で優しくイルカを降ろすと、
「ここで、待っていてください」
カカシは片手をあげてイルカに告げると姿をくらます。
しばらく身体が浮いていたので、頭が平行をたもてずにフラフラした。
見知らぬ場所で1人になり、自分がどこにいるのか分からない。不安になりあたりを見渡す。
こんな場所に何故カカシは連れてきたのだろう。どうせなら自宅に連れてきて欲しかった。
勝手な考えかもしれないが、それが一番手っ取り早いはずなのに。
(久しぶりに会ったけど、何がなんだかよく分からないままこんなところに...)
何かを考えているようだけど、今のイルカには何も分からない。
「イルカ先生」
いつ現れたのか、背後の気配に驚いて身体が跳ねた。
振り返ると、ふわりと肩に布を掛けられ、カカシが持ってきたものが防寒用のマントだと分かった。
「はい、靴。そこの商店街で適当に買ったから。とりあえず履いて」
差し出された黒いスニーカーを素直に受け取り、つま先まで凍りついた足に履かせる。サイズは少し大きい。
まだまだ身体は冷えていたが、今までの格好に比べたら天と地だ。
カカシの行為が、素直にありがたい。
「ありがとうございます。とても暖かいです」
丁寧に頭を下げて笑顔を見せる。
カカシは神妙な面持ちでイルカを見ていた。
何か考えているようで、何も考えていないような。目を見ても、思考が読めない。
困惑した顔のイルカを見つめながら、カカシはおそらく思考を続け、
「とりあえず、ここに入りましょう」
カカシは促すように肩に手を添えた。
戸惑った。優しくしてくれたカカシに申し訳ないが、疲れているし、何より芯まで冷え切った身体をどうにかしたい。
「...でも、俺は家に帰りたいです」
「そうさせてあげたいけど、自宅はまずいでしょ」
さらりと告げられた言葉は、理解しがたいものだった。
「あ、あの、...意味が分からないのですが」
「色々探ってみたけど、式でもないし影分身でもないんだよね~。それ、何かの術ですか?」
「ちょ、ちょっと待ってください。本当に言ってる意味が分からないですが」
言葉を制するように、カカシはイルカの顔の前に片手を上げた
「とりあえず、今は外部との接触は避けるべきです。中に入って話を聞かせてください」
真剣な眼差しは茶化している訳ではないと悟る。
カカシの言う事に従う他ないのかもしれないと思えてきた。
「イルカ先生?」
「...わかりました」
促されるまま路地からでてギョッとした。
見覚えのある場所。
暗くて場所を把握していなかったが、辺りに揺れる夜の灯り。橙色の暖かくも人を誘う色。
-------じゃあこの建物は。



忘れもしない。あの時の光景が頭にまざまざと蘇る。
頭を鈍器で殴られたかの衝撃が走る。
同時に既視感に襲われる。
この光景。この状況。
いや、違う。そんなことはない。あるはずがない。


「イルカ先生、顔色悪いよ。大丈夫なの?」
肩に手を置かれ、ハッとしてカカシを見る。心配そうに見つめていた。
「あ、...はい」
イルカはただ頷いた。
震える足で建物の中に踏み入れると、甘い、お香の匂いが鼻についた。
手慣れたようにカカシは部屋を用意し、イルカを部屋に招き入れた。
足取りが重い。生きた心地がしない。ふらふらとベットに腰掛けて、必死に冷静になろうとした。
そんな事はない。あるはずがない。だって、俺はここにいる。
それでも不可解な事は自分でも説明出来ないことだらけだった。
長期任務に行っているはずのカカシが目の前に現れ、真冬の中に自分がいて。
まるで、ここは----あの日にいるみたいで。
怖くなり、頭を抱えてそんな事はないと否定する。
そうだ夢だ。
カカシさんを想うあまりに見ている夢だ。
夢だ。
夢だ。
夢だ。
早く、早く覚めて。

「イルカ先生」

その声に目を開ける。
顔を上げればカカシはしゃがみ込みイルカを見上げていた。
「大丈夫なの?」
カカシの眼差しはイルカを純粋に心配している。夢ではないと、その瞳が語りかけているようだった。カカシは肩に手を置き優しく撫でた。
いつの間にか素顔を晒しているカカシは目尻を緩ませてイルカを見つめた。
その目が辛い。
無理に笑おうとしたが出来なかった。目の奥がぴくぴくとして気を抜けば涙腺が緩みそうになり、ぐっと歯を食いしばる。
カカシに抱きつきたい衝動を必死に堪えた。
「今お湯を入れてるから、身体が暖まったらきっと落ち着くから。ね、イルカ先生」
イルカはこくんと頷いた。
浴室に向かえば、ちょうどいっぱいに湯が張るところだった。蛇口を止めてお湯に手を入れる。
少し熱い。だが、冷え切ったイルカの身体にはこの温度がちょうどいい。きっとカカシが自分を思いこの熱さにしてくれている。
湯船に身体を沈める。ざぶざぶとお湯が溢れて排水溝に流れていった。
寒空の下、真夏の装いでいたイルカの身体には堪らない暖かさで、じんわりと氷が溶けるかのように、身体の芯は熱で満たされる。

正直、今カカシの優しさは辛い。

別れてから、ずっとカカシの事を考えていた。
会いたくて堪らなくて、声を聞きたくて、ぬくもりが恋しくて。
心の中で燻りつづけていたカカシへの想いが、じりじりと再燃しそうになり怖くなった。
目を瞑り両腕を抱きしめる。

ここから消えてしまいたい。
イルカの頭は絡まった毛糸のように、解く術を失っていた。

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