kodou①
イルカは憂鬱な気分で家を出てアカデミーへ向かっていた。
何となく自分の片手を上げ、手のひらを見つめ。変わらない事実に気分がずしんと重くなる。重くて頭が自然に垂れそうになるが、そんな事も言ってられない。もうアカデミーはすぐそこで、一日はもう始まっている。気持ちをなんとか切り替えなければ。
息を吐き出しながらぐっと顔を上げた時、聞こえたのは何かが爆ぜた音だった。同時に感じる背中から下にかけての不快感。
顔を顰めて背中を見れば、そこは案の定びっしょりに濡れていた。視線はそこから足下向かい、落ちていた青いゴムを拾う。爆せて元の状態から形は変わっているものの、それは紛れもなく大破した水風船で。イルカの形相が変わった。すぐさま察知した気配にイルカは桜の木へ顔を向けると、案の定、水風船を投げた子供が、桜の木の陰で見つかった事に気が付く。やべ、と小さく声を漏らしたのが聞こえた。
破れた水風船を握りしめ、イルカは足に力を入れる。
「待て、こら!!!」
イルカの怒号がが辺りに響いた。
「・・・・・・おはようございます」
アカデミー内の保健室の扉を開ける。カラカラと小気味いい音が響き、保険医の女性が振り返った。イルカの青い顔を見て、小さく笑う。
「イルカ先生どうしたの?ひどい顔ね」
あと服も。不機嫌でありながらものすごく落ち込んだ顔に、笑わずにはいられないと、保険医の女性は口元を押さえた。
イルカは思わずはあ、と返事をして、濡れたままのズボンを指さした。
「いつもの通り、生徒の悪戯ですよ。あの、着替えさせてもらってもいいですか?」
濡れた服が張り付いて気持ち悪い。ベストを脱ぎながら聞くと、保険医の女性は笑いながら軽く頷いた。そのまま着替えが入っているベットの奥にある棚へ向かう。
「悪戯って、またあの子?」
保険医が背を向けて、棚を開けながら口を開いた。名前を出さないが、朝からこんな達の悪い悪戯をする生徒に該当するのはただ一人で、イルカはため息混じりに、ええ、と返事をした。
「あいつです」
あいつとは、担当している男子生徒の一人で、もともと悪戯好きな生徒だった。その度に説教をするが中々その悪戯はやめようとしない。
そこでこの悪戯だ。イルカはため息を吐き出した。
勿論、さっきも逃げようとしたその生徒をとっ捕まえてきつく説教をしたが。その子供は反省の様子さえ見せずふんと鼻で笑い、
女のイルカ先生なんて怖くないね。
そう言われ、イルカは頭にげんこつを落とした。
思い出すだけで自分の拳が痛み、思わずその手をイルカは擦った。女になっている事で身体が全体的に弱くなってしまっているのか。いつもと同じ力加減でげんこつを落とした自分に後悔する。
好きでこんな姿をしているのではない。元はと言えば生徒が持ってきた薬が原因だった。風邪を長引かせたイルカを心配して、家にある薬を持ってきてくれた。お父さんが体調が悪い時によく飲んでいると言われ、疑いもなしに口にしたら、それが女体化する薬だったなんて、知る由もなかった。
結果それは忍であるその子供の父親が使う、任務で長期間潜伏する為の特殊な薬だった。飲んだ量により女体化する期間も変わる。知らずに全部飲んだ自分は、結局今も解けず女性のまま仕事をしていた。
周囲の理解はある程度勿論あれど、子供達は違った。最初は中々女の姿で授業をする自分に戸惑いを見せる子供もいた。それは仕方がないと割り切れたが、今日の様に好奇の目で悪戯の的にする生徒は別だ。
また口からため息が漏れる。
ただ、ストーブが付いた保健室は暖かい。肌に張り付いていた冷たい服を脱ぎ、手渡され換えの服を着込んだ。
大体、女性でもないのだから女性の更衣室を使えるわけもなく、だからと言って、この身体で流石に堂々と同僚の前で着替えるわけにもいかない。どこにも着替える場所さえないなんて。居場所がない、その不便さに痛感する。
「ズボンのサイズはMで良かった?」
奥から保険医の女性の声が聞こえた。イルカは顔を上げる。
「えーっと、たぶん、今はSだと思うんですが、」
そう答えながらベルトを緩めズボンを膝下まで下げる。ガラ、と扉が開いたのは同時だった。
イルカは、扉に背を向けたまま固まった。ズボン下げたまま、下着だけの姿に、あ、と声が背中で聞こえる。
その声に反射的にイルカは濡れたままのズボンを勢いよく引っ張り上げた。振り返る。
そこに立っていたのははたけカカシだった。
え、何で。
浮かんだ言葉はそれだった。他の教員か、生徒とばかり思っていたのに。
頭が真っ白になった。
挨拶か、叫ぶか。いや、俺女じゃないっつーの。じゃあやはり挨拶をすべきなのか。ぐるっと思考が一周し終わったところで、自分が女の姿だった事を再認識する。改めてイルカは焦った。この人、俺が女になっている事を知ってるのだろうか。自分が女性になっている事は公にしていないのだから、アカデミー内くらいで他に話がまわっている訳でもない。こういう場合はやはり普通に挨拶をすれば、下着を見られたのも一瞬で、何事もなくこの場を過ごせるのかもしれないと、そう思った矢先、
「あんた・・・・・・イルカ先生?」
名前を呼ばれ、聞かれる。反射的に、落としかけていた視線を上げていた。
カカシの青い目と視線が交わった瞬間、どうしてなのか、混乱した。そして、その場から逃げ出した。
不覚だった。
重いため息と共に、イルカはおにぎりを頬張る。昼休み、イルカは裏庭にいた。
逃げるつもりはなかった。
何か悪い事をしたわけでもないんだから、別に逃げる必要はなかった。
でも。
あんな風に驚いた顔で名前を呼ばれて。酷く居たたまれないものを感じた。まあ、たぶん。思い切りズボンを下げている時に見られたからだろう。あれは流石に無様だった。
不意にカカシと視線が交わった瞬間が頭に浮かび、胸の内に浮かんだ複雑な気持ちに、イルカは僅かに眉を寄せながら視線を漂わせた。
ーーカカシ先生と飲みに行く事がなくなってから、どのくらい経つだろう。
思考を切り替える為にそこでイルカは首を軽く横に振る。普段とは一回り以上小さくなった身体で、備え付けられた木製のベンチに座りながら、また一口おにぎりを食べる。ぼんやりと目の前の景色を眺めた。
ぎくりとしたのは、カカシが職員室の前に立っていたから。
イルカは弁当箱の包みを抱えながら、廊下の少し先からカカシの姿を確認し、本人で間違いないと判断する。こんな場所に来ることは滅多にないはずなのに、一体どうしたのか。朝あんな姿を見せてしまったのは申し訳なく思うが、責められる事は俺は何もしていない。はずだ。足を止めて見つめたイルカに、カカシが気が付き視線をこちらに向ける。
イルカは何事もなかったかのように会釈をし歩き出すと、カカシもまたこちらに向かって足を進めた。イルカの前まで来て、立ち止まる。
「・・・・・・カカシ先生どうされたんですか?」
一応、ではなく自分はここの職員だ。正当な質問を口にすると、カカシはポケットから片手を出し、銀色の髪を掻いた。
正直、朝の件は本当に突っ込まないで欲しいんだが。
そんな表情を出さないように努めてはいるが、きっと少しは出てしまっている事は分かっていた。じっと窺うイルカに、カカシはいつもの眠そうな眼差しを向ける。
「ねえ、先生は今日仕事終わったら時間ある?」
「・・・・・・え?」
構えていた事とは違う台詞に。少し驚いて聞き返していた。時間は勿論あることはあるが、だからと言ってなんなのだろう。
「・・・・・・まあ、一応」
ゆっくりと返すと、カカシは、そ、と短く返した。自分の髪から手を離す。
「じゃあ飲みに行こう」
すごく自然な流れのように誘われて。でも、それがあまりにも久しぶりで。懐かしいような、しかし違和感を微かに覚えた。
普段とは違う身長差に、イルカはいつもより上にあるカカシの顔を見つめる。苦笑いを浮かべた。
「・・・・・・何でですか?」
この自分の格好に好奇を持って誘っているのなら、断りたい。が本音だった。同僚や友人とはこの格好でも普段と変わりなく飲めるが、カカシと一緒に飲みに行ったところで楽しく酒が飲めるのか、自信がなかった。
失礼だと思いながらもそう口にしたイルカに、カカシは不思議そうに僅かに首を傾げた。
「そりゃあなたと夕飯食べたいからに決まってるでしょ」
イルカの目はカカシを見上げたまま、少しだけ丸くなった。はっきりと言い切るのそ口調は、今まで言われた記憶はない。
じゃあ前は?ーー前はカカシ先生にどんな風に誘われていたっけ。
前に立っているカカシを見つめながらぼんやりと記憶を辿ろうとした時、ねえ、とカカシの声が遮った。
「行けるの?行かないの?どっち?もしかして残業とかある?」
急かされイルカは慌てて思考を動かした。
「あ、いや、残業はないです」
「じゃあ、いいよね?」
「・・・・・・ええ、まあ」
イルカが承諾すると、カカシは一回浅く頷いた。再び自分の後頭部に手を当てる。
「じゃあまた」
はい、と返事をした時にはカカシはくるりと向きを変え歩き出し、イルカはただその背中を見つめた。
「美味しい?」
カカシに聞かれてイルカは顔を上げた。
目の前には今日のおすすめと書かれていたお造りが置かれ、鮮度のいい刺身が盛ってある。口にいれた刺身は鮮度が確かによくて旨い。イルカは笑顔を作った。
「ええ、すごく」
「良かった」
短い答えにカカシは満足そうに微笑む。個室になっているその部屋は二人で居るには広い個室で、テーブルもまた大きい。いつも対面で座るカカシが少し遠く感じるのはそのせいだ。イルカは箸を咥えたまま同じように刺身へ箸を伸ばすカカシへそっと視線を向けた。
いつも対面で、と言うのは。あれからカカシに誘われて夕飯を食べるのがもう何回目かになるからだ。何回かは居酒屋だったのに、今回連れてこられたのがこの料亭。
酷く変な気持ちだった。
元々距離を取ってきたのはカカシからだ。いつだったからか、ある日突然声をかけられなくなった。挨拶はすれば返してくれるがそれだけで。元々自分から上忍であるカカシを夕飯に誘う事はしていなかったから、カカシが声をかけなかればそれまでになるのだが。それでも気さくに声をかけて夕飯に誘われる事は素直に嬉しかったのが確かで。
何か気に障るような事をしたのかもしれない、考えた事もあった。カカシの前でそんな酔っぱらった記憶はないが、調子に乗りすぎていたのかもしれない。と、心の中では気にしないようにしていたのに。こうしてまた誘われるようになってそんな事を思う自分がいた。どうしてだったんですか、何て聞けるわけがないし、こうしてまた食事に誘われたからといっても、またすぐに声をかけられなくなのかもしれない。そう、ーー全てはカカシの気まぐれなのだ。そう思えたら何故か憤りに近いものを感じた。
食事をしながらぼんやりとそんな事を考えていると、カカシがふっと笑ったのが聞こえる。視線を戻すと、あぐらを掻いたカカシが行儀悪く立て肘を付き、グラスを傾けながら、微笑みながらこっちを見ていた。
「やっぱりこういう店は落ち着かない?」
聞かれてイルカは素直に苦笑いを浮かべる。
「ええ、まあ。三代目のお供でこういう店には何回か来たことがあるんですが、やっぱりちょっと慣れないですね」
カカシが納得したように頷いてグラスをテーブルに置いた。
「そっか。でもさ、居酒屋みたいな騒がしい店もいいけど、こんな落ち着いた中で食べるのもいいでしょ?」
そう促されても、こんな身の丈に合わない店はやはり居心地がいいとは言えない。イルカは困ったように、まあ、そうですね、口にする。
「俺も実はそこまで好きじゃないよ」
え?と聞き返すと、カカシはにこりと微笑んだ。
「俺も居酒屋の方が好き。でもさ、こんな店もあなたに合うんじゃないかな、と思ったの。それか、屋台とかの方が逆に良かったかな」
「ああ、屋台」
イルカは顔を綻ばせた。
寒い空気を背中で感じながら、外で熱燗を飲みながらおでんを食べるのはきっと最高だ。やっぱり、とカカシはまた嬉しそうに微かに目を細める。
「じゃあ今度は屋台に行ってみる?」
「ああ、いいですね。是非」
二つ返事で承諾しながら、会話の中で引っかかる言葉に、あれ、と思った。
なんでこんな自分の金では到底これないような店が俺に合うとカカシが言うのか。違和感に内心首を傾げる。
実は違和感を感じるのはこれが最初ではなかった。カカシに再び夕飯に誘われるようになってから、カカシの言葉や言動におかしいと思う部分があるのだが、それは些細な事で、あまりに久しぶりにこうして二人で食事をしたり会話をしたりするから、そう感じてしまっているのか。
窺うような視線を密かにカカシに向けようとした時、襖が開き頼んでいた料理が運ばれる。カカシが今回自分に食べさせたいと言った牡蠣と鱈のみぞれ鍋だ。そのテーブルへ運ばれる鍋と美味しそうな匂いにイルカは目を奪われた。
「ねえカカシさん、今度は俺が払いますよ」
結局当たり前の様に支払いを先にされ、イルカは申し訳ない気持ちで店を出ながらイルカは口にした。イルカを先に通し、後から続いて暖簾をくぐって店を出てきたカカシは、振り返るイルカへ顔を向けた。
「屋台でって事?」
「ええ」
イルカが頷くとカカシは微笑んだ。
「じゃあ、いつにする?」
聞かれてイルカは、そこで改めて考える。
「そうですね、・・・・・・俺出来れば給料日後の方が有り難いんですけど、」
「それって来月って事?」
「ええ、まあ」
それを聞くとカカシは銀色の髪を掻いた。
「今週末は無理?」
急くような台詞に戸惑いを感じてイルカは笑顔で視線を横へ流した。嬉しいが、自分にも事情ってものがある。ナルトにラーメンに連れて行ってやる約束や、同僚との定期的な飲み会。出来れば来月の方が有り難いと言っているのに。
「じゃあ・・・・・・来週とか」
「予定入ってるって事?土曜でもいいよ?」
変わらずゆっくりとした口調だが、矢継ぎ早とも言って取れるような言い方には変わらない。イルカは閉口した。
譲歩した答えを何故聞いてきれないのだろう。
確かに、土曜日は予定はない。困った末、イルカは諦めて頷く。
「分かりました、土曜ですね」
カカシはイルカの答えに、ホッとした顔を見せ、そしてにこっと微笑む。
自分が女になっているから。身長差を感じながらもカカシをじっと見つめる。違和感はいつもよりカカシが背が高いように感じるからなのか。何なのか。分からない。
イルカは僅かに眉根を寄せながら、カカシと並んで歩いた。
最後のチャイムが鳴った土曜の午後。
「イルカ先生」
いつものように鞄を肩にかけて職員室を出ようとした時、名前を呼ばれる。振り返ると昨年入った女性教員がイルカに歩み寄った。
「今日飲みに行くんですが、イルカ先生も一緒にどうですか?」
言われてイルカは首を横に振る。
「飲みに行くのは同僚?だったら俺なんかを入れるより仲間内だけの方が楽しいだろ」
気を使ってくれているのは分かっていた。
「いえ、可愛いイルカ先生と飲みたいなって言う後輩もいるんですよ」
正直な意見にイルカは苦笑いを浮かべるしかなかった。
女体化したままのは確かにその通りだが、体型は小さくなったものの、格好も髪型もそのままだ。自分でも可愛いとは思えない。と言うか思っていない。
イルカは肩を竦め、
「それは嬉しいけど、今日は俺も用事があるから。悪いな」
いつもの口調で返すと、少し残念そうにするその女性教員に小さく微笑んだ。
そうですか、と答える女性教員に背を向けようとして、
「それって、もしかしてはたけ上忍ですか」
言われてイルカは顔を女性教員へ向けていた。思わぬ名前を出されてイルカは少し目を丸くするも軽く頷くと、女性教員がやっぱり、と小さく笑った。その後すぐにそれを苦笑いに変える。
「すみません。最近イルカ先生がはたけ上忍とよく一緒にいるのを目にするので、それだけです」
お疲れ様でした。そう言われて、イルカもつられるように挨拶を返す。そのまま職員室を出た。
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何となく自分の片手を上げ、手のひらを見つめ。変わらない事実に気分がずしんと重くなる。重くて頭が自然に垂れそうになるが、そんな事も言ってられない。もうアカデミーはすぐそこで、一日はもう始まっている。気持ちをなんとか切り替えなければ。
息を吐き出しながらぐっと顔を上げた時、聞こえたのは何かが爆ぜた音だった。同時に感じる背中から下にかけての不快感。
顔を顰めて背中を見れば、そこは案の定びっしょりに濡れていた。視線はそこから足下向かい、落ちていた青いゴムを拾う。爆せて元の状態から形は変わっているものの、それは紛れもなく大破した水風船で。イルカの形相が変わった。すぐさま察知した気配にイルカは桜の木へ顔を向けると、案の定、水風船を投げた子供が、桜の木の陰で見つかった事に気が付く。やべ、と小さく声を漏らしたのが聞こえた。
破れた水風船を握りしめ、イルカは足に力を入れる。
「待て、こら!!!」
イルカの怒号がが辺りに響いた。
「・・・・・・おはようございます」
アカデミー内の保健室の扉を開ける。カラカラと小気味いい音が響き、保険医の女性が振り返った。イルカの青い顔を見て、小さく笑う。
「イルカ先生どうしたの?ひどい顔ね」
あと服も。不機嫌でありながらものすごく落ち込んだ顔に、笑わずにはいられないと、保険医の女性は口元を押さえた。
イルカは思わずはあ、と返事をして、濡れたままのズボンを指さした。
「いつもの通り、生徒の悪戯ですよ。あの、着替えさせてもらってもいいですか?」
濡れた服が張り付いて気持ち悪い。ベストを脱ぎながら聞くと、保険医の女性は笑いながら軽く頷いた。そのまま着替えが入っているベットの奥にある棚へ向かう。
「悪戯って、またあの子?」
保険医が背を向けて、棚を開けながら口を開いた。名前を出さないが、朝からこんな達の悪い悪戯をする生徒に該当するのはただ一人で、イルカはため息混じりに、ええ、と返事をした。
「あいつです」
あいつとは、担当している男子生徒の一人で、もともと悪戯好きな生徒だった。その度に説教をするが中々その悪戯はやめようとしない。
そこでこの悪戯だ。イルカはため息を吐き出した。
勿論、さっきも逃げようとしたその生徒をとっ捕まえてきつく説教をしたが。その子供は反省の様子さえ見せずふんと鼻で笑い、
女のイルカ先生なんて怖くないね。
そう言われ、イルカは頭にげんこつを落とした。
思い出すだけで自分の拳が痛み、思わずその手をイルカは擦った。女になっている事で身体が全体的に弱くなってしまっているのか。いつもと同じ力加減でげんこつを落とした自分に後悔する。
好きでこんな姿をしているのではない。元はと言えば生徒が持ってきた薬が原因だった。風邪を長引かせたイルカを心配して、家にある薬を持ってきてくれた。お父さんが体調が悪い時によく飲んでいると言われ、疑いもなしに口にしたら、それが女体化する薬だったなんて、知る由もなかった。
結果それは忍であるその子供の父親が使う、任務で長期間潜伏する為の特殊な薬だった。飲んだ量により女体化する期間も変わる。知らずに全部飲んだ自分は、結局今も解けず女性のまま仕事をしていた。
周囲の理解はある程度勿論あれど、子供達は違った。最初は中々女の姿で授業をする自分に戸惑いを見せる子供もいた。それは仕方がないと割り切れたが、今日の様に好奇の目で悪戯の的にする生徒は別だ。
また口からため息が漏れる。
ただ、ストーブが付いた保健室は暖かい。肌に張り付いていた冷たい服を脱ぎ、手渡され換えの服を着込んだ。
大体、女性でもないのだから女性の更衣室を使えるわけもなく、だからと言って、この身体で流石に堂々と同僚の前で着替えるわけにもいかない。どこにも着替える場所さえないなんて。居場所がない、その不便さに痛感する。
「ズボンのサイズはMで良かった?」
奥から保険医の女性の声が聞こえた。イルカは顔を上げる。
「えーっと、たぶん、今はSだと思うんですが、」
そう答えながらベルトを緩めズボンを膝下まで下げる。ガラ、と扉が開いたのは同時だった。
イルカは、扉に背を向けたまま固まった。ズボン下げたまま、下着だけの姿に、あ、と声が背中で聞こえる。
その声に反射的にイルカは濡れたままのズボンを勢いよく引っ張り上げた。振り返る。
そこに立っていたのははたけカカシだった。
え、何で。
浮かんだ言葉はそれだった。他の教員か、生徒とばかり思っていたのに。
頭が真っ白になった。
挨拶か、叫ぶか。いや、俺女じゃないっつーの。じゃあやはり挨拶をすべきなのか。ぐるっと思考が一周し終わったところで、自分が女の姿だった事を再認識する。改めてイルカは焦った。この人、俺が女になっている事を知ってるのだろうか。自分が女性になっている事は公にしていないのだから、アカデミー内くらいで他に話がまわっている訳でもない。こういう場合はやはり普通に挨拶をすれば、下着を見られたのも一瞬で、何事もなくこの場を過ごせるのかもしれないと、そう思った矢先、
「あんた・・・・・・イルカ先生?」
名前を呼ばれ、聞かれる。反射的に、落としかけていた視線を上げていた。
カカシの青い目と視線が交わった瞬間、どうしてなのか、混乱した。そして、その場から逃げ出した。
不覚だった。
重いため息と共に、イルカはおにぎりを頬張る。昼休み、イルカは裏庭にいた。
逃げるつもりはなかった。
何か悪い事をしたわけでもないんだから、別に逃げる必要はなかった。
でも。
あんな風に驚いた顔で名前を呼ばれて。酷く居たたまれないものを感じた。まあ、たぶん。思い切りズボンを下げている時に見られたからだろう。あれは流石に無様だった。
不意にカカシと視線が交わった瞬間が頭に浮かび、胸の内に浮かんだ複雑な気持ちに、イルカは僅かに眉を寄せながら視線を漂わせた。
ーーカカシ先生と飲みに行く事がなくなってから、どのくらい経つだろう。
思考を切り替える為にそこでイルカは首を軽く横に振る。普段とは一回り以上小さくなった身体で、備え付けられた木製のベンチに座りながら、また一口おにぎりを食べる。ぼんやりと目の前の景色を眺めた。
ぎくりとしたのは、カカシが職員室の前に立っていたから。
イルカは弁当箱の包みを抱えながら、廊下の少し先からカカシの姿を確認し、本人で間違いないと判断する。こんな場所に来ることは滅多にないはずなのに、一体どうしたのか。朝あんな姿を見せてしまったのは申し訳なく思うが、責められる事は俺は何もしていない。はずだ。足を止めて見つめたイルカに、カカシが気が付き視線をこちらに向ける。
イルカは何事もなかったかのように会釈をし歩き出すと、カカシもまたこちらに向かって足を進めた。イルカの前まで来て、立ち止まる。
「・・・・・・カカシ先生どうされたんですか?」
一応、ではなく自分はここの職員だ。正当な質問を口にすると、カカシはポケットから片手を出し、銀色の髪を掻いた。
正直、朝の件は本当に突っ込まないで欲しいんだが。
そんな表情を出さないように努めてはいるが、きっと少しは出てしまっている事は分かっていた。じっと窺うイルカに、カカシはいつもの眠そうな眼差しを向ける。
「ねえ、先生は今日仕事終わったら時間ある?」
「・・・・・・え?」
構えていた事とは違う台詞に。少し驚いて聞き返していた。時間は勿論あることはあるが、だからと言ってなんなのだろう。
「・・・・・・まあ、一応」
ゆっくりと返すと、カカシは、そ、と短く返した。自分の髪から手を離す。
「じゃあ飲みに行こう」
すごく自然な流れのように誘われて。でも、それがあまりにも久しぶりで。懐かしいような、しかし違和感を微かに覚えた。
普段とは違う身長差に、イルカはいつもより上にあるカカシの顔を見つめる。苦笑いを浮かべた。
「・・・・・・何でですか?」
この自分の格好に好奇を持って誘っているのなら、断りたい。が本音だった。同僚や友人とはこの格好でも普段と変わりなく飲めるが、カカシと一緒に飲みに行ったところで楽しく酒が飲めるのか、自信がなかった。
失礼だと思いながらもそう口にしたイルカに、カカシは不思議そうに僅かに首を傾げた。
「そりゃあなたと夕飯食べたいからに決まってるでしょ」
イルカの目はカカシを見上げたまま、少しだけ丸くなった。はっきりと言い切るのそ口調は、今まで言われた記憶はない。
じゃあ前は?ーー前はカカシ先生にどんな風に誘われていたっけ。
前に立っているカカシを見つめながらぼんやりと記憶を辿ろうとした時、ねえ、とカカシの声が遮った。
「行けるの?行かないの?どっち?もしかして残業とかある?」
急かされイルカは慌てて思考を動かした。
「あ、いや、残業はないです」
「じゃあ、いいよね?」
「・・・・・・ええ、まあ」
イルカが承諾すると、カカシは一回浅く頷いた。再び自分の後頭部に手を当てる。
「じゃあまた」
はい、と返事をした時にはカカシはくるりと向きを変え歩き出し、イルカはただその背中を見つめた。
「美味しい?」
カカシに聞かれてイルカは顔を上げた。
目の前には今日のおすすめと書かれていたお造りが置かれ、鮮度のいい刺身が盛ってある。口にいれた刺身は鮮度が確かによくて旨い。イルカは笑顔を作った。
「ええ、すごく」
「良かった」
短い答えにカカシは満足そうに微笑む。個室になっているその部屋は二人で居るには広い個室で、テーブルもまた大きい。いつも対面で座るカカシが少し遠く感じるのはそのせいだ。イルカは箸を咥えたまま同じように刺身へ箸を伸ばすカカシへそっと視線を向けた。
いつも対面で、と言うのは。あれからカカシに誘われて夕飯を食べるのがもう何回目かになるからだ。何回かは居酒屋だったのに、今回連れてこられたのがこの料亭。
酷く変な気持ちだった。
元々距離を取ってきたのはカカシからだ。いつだったからか、ある日突然声をかけられなくなった。挨拶はすれば返してくれるがそれだけで。元々自分から上忍であるカカシを夕飯に誘う事はしていなかったから、カカシが声をかけなかればそれまでになるのだが。それでも気さくに声をかけて夕飯に誘われる事は素直に嬉しかったのが確かで。
何か気に障るような事をしたのかもしれない、考えた事もあった。カカシの前でそんな酔っぱらった記憶はないが、調子に乗りすぎていたのかもしれない。と、心の中では気にしないようにしていたのに。こうしてまた誘われるようになってそんな事を思う自分がいた。どうしてだったんですか、何て聞けるわけがないし、こうしてまた食事に誘われたからといっても、またすぐに声をかけられなくなのかもしれない。そう、ーー全てはカカシの気まぐれなのだ。そう思えたら何故か憤りに近いものを感じた。
食事をしながらぼんやりとそんな事を考えていると、カカシがふっと笑ったのが聞こえる。視線を戻すと、あぐらを掻いたカカシが行儀悪く立て肘を付き、グラスを傾けながら、微笑みながらこっちを見ていた。
「やっぱりこういう店は落ち着かない?」
聞かれてイルカは素直に苦笑いを浮かべる。
「ええ、まあ。三代目のお供でこういう店には何回か来たことがあるんですが、やっぱりちょっと慣れないですね」
カカシが納得したように頷いてグラスをテーブルに置いた。
「そっか。でもさ、居酒屋みたいな騒がしい店もいいけど、こんな落ち着いた中で食べるのもいいでしょ?」
そう促されても、こんな身の丈に合わない店はやはり居心地がいいとは言えない。イルカは困ったように、まあ、そうですね、口にする。
「俺も実はそこまで好きじゃないよ」
え?と聞き返すと、カカシはにこりと微笑んだ。
「俺も居酒屋の方が好き。でもさ、こんな店もあなたに合うんじゃないかな、と思ったの。それか、屋台とかの方が逆に良かったかな」
「ああ、屋台」
イルカは顔を綻ばせた。
寒い空気を背中で感じながら、外で熱燗を飲みながらおでんを食べるのはきっと最高だ。やっぱり、とカカシはまた嬉しそうに微かに目を細める。
「じゃあ今度は屋台に行ってみる?」
「ああ、いいですね。是非」
二つ返事で承諾しながら、会話の中で引っかかる言葉に、あれ、と思った。
なんでこんな自分の金では到底これないような店が俺に合うとカカシが言うのか。違和感に内心首を傾げる。
実は違和感を感じるのはこれが最初ではなかった。カカシに再び夕飯に誘われるようになってから、カカシの言葉や言動におかしいと思う部分があるのだが、それは些細な事で、あまりに久しぶりにこうして二人で食事をしたり会話をしたりするから、そう感じてしまっているのか。
窺うような視線を密かにカカシに向けようとした時、襖が開き頼んでいた料理が運ばれる。カカシが今回自分に食べさせたいと言った牡蠣と鱈のみぞれ鍋だ。そのテーブルへ運ばれる鍋と美味しそうな匂いにイルカは目を奪われた。
「ねえカカシさん、今度は俺が払いますよ」
結局当たり前の様に支払いを先にされ、イルカは申し訳ない気持ちで店を出ながらイルカは口にした。イルカを先に通し、後から続いて暖簾をくぐって店を出てきたカカシは、振り返るイルカへ顔を向けた。
「屋台でって事?」
「ええ」
イルカが頷くとカカシは微笑んだ。
「じゃあ、いつにする?」
聞かれてイルカは、そこで改めて考える。
「そうですね、・・・・・・俺出来れば給料日後の方が有り難いんですけど、」
「それって来月って事?」
「ええ、まあ」
それを聞くとカカシは銀色の髪を掻いた。
「今週末は無理?」
急くような台詞に戸惑いを感じてイルカは笑顔で視線を横へ流した。嬉しいが、自分にも事情ってものがある。ナルトにラーメンに連れて行ってやる約束や、同僚との定期的な飲み会。出来れば来月の方が有り難いと言っているのに。
「じゃあ・・・・・・来週とか」
「予定入ってるって事?土曜でもいいよ?」
変わらずゆっくりとした口調だが、矢継ぎ早とも言って取れるような言い方には変わらない。イルカは閉口した。
譲歩した答えを何故聞いてきれないのだろう。
確かに、土曜日は予定はない。困った末、イルカは諦めて頷く。
「分かりました、土曜ですね」
カカシはイルカの答えに、ホッとした顔を見せ、そしてにこっと微笑む。
自分が女になっているから。身長差を感じながらもカカシをじっと見つめる。違和感はいつもよりカカシが背が高いように感じるからなのか。何なのか。分からない。
イルカは僅かに眉根を寄せながら、カカシと並んで歩いた。
最後のチャイムが鳴った土曜の午後。
「イルカ先生」
いつものように鞄を肩にかけて職員室を出ようとした時、名前を呼ばれる。振り返ると昨年入った女性教員がイルカに歩み寄った。
「今日飲みに行くんですが、イルカ先生も一緒にどうですか?」
言われてイルカは首を横に振る。
「飲みに行くのは同僚?だったら俺なんかを入れるより仲間内だけの方が楽しいだろ」
気を使ってくれているのは分かっていた。
「いえ、可愛いイルカ先生と飲みたいなって言う後輩もいるんですよ」
正直な意見にイルカは苦笑いを浮かべるしかなかった。
女体化したままのは確かにその通りだが、体型は小さくなったものの、格好も髪型もそのままだ。自分でも可愛いとは思えない。と言うか思っていない。
イルカは肩を竦め、
「それは嬉しいけど、今日は俺も用事があるから。悪いな」
いつもの口調で返すと、少し残念そうにするその女性教員に小さく微笑んだ。
そうですか、と答える女性教員に背を向けようとして、
「それって、もしかしてはたけ上忍ですか」
言われてイルカは顔を女性教員へ向けていた。思わぬ名前を出されてイルカは少し目を丸くするも軽く頷くと、女性教員がやっぱり、と小さく笑った。その後すぐにそれを苦笑いに変える。
「すみません。最近イルカ先生がはたけ上忍とよく一緒にいるのを目にするので、それだけです」
お疲れ様でした。そう言われて、イルカもつられるように挨拶を返す。そのまま職員室を出た。
NEXT→
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