kodou④
「では、失礼します」
一礼をするとイルカは執務室の扉を閉める。廊下を歩き階段を下りる足取りは軽快だった。そのまま建物の外に出たイルカは、顔を上げた。空は雲一つなく太陽が輝いている。その眩しさに目を眇めた。
イルカは深呼吸すると、よし、と自分に拍車をかけるように呟く。そこからアカデミーへ向かって歩き出した。
「こら」
教室で机に座って話しに夢中になっている生徒が頭を叩かれる。痛ってえ、と頭を押さえてぼやきながら振り返る。
そこには片手を腰に当て、もう片方に出席簿を持ったイルカが立っていた。イルカだと分かっているのに、顔を見て一瞬きょとんとした顔をする。そして瞬きをした。
「もうすぐ授業始まるのになに喋ってるんだ。それにそこは机だ。座るところじゃないだろう」
生徒はまだ少しぽかんとしている。そして、
「・・・・・・男のイルカ先生だ」
そう呟く生徒に片眉を上げたイルカは、笑顔を浮かべその頭にぽんと手を置き、髪をくしゃりと撫でる。
「当たり前だ」
そして背中を軽く叩き席に座るよう促した。
皆イルカを見ていた。ざわつく教室をイルカは見渡して、その子供たちの反応に予想内だったと、ため息を吐き出した。そして息を吸う。
「ほら、授業始めるぞ!」
イルカのいつもの大きな声が教室に響きわたった。
あ、初めて見るな。
そう思ったのは、カカシが短期任務から戻り報告所にいる自分の顔を見て、驚きに目を見開いたから。
いや、違う。二度目か。
以前自分が女体化して間もない時、保健室で無様な自分の姿を見た時も、あんな顔をしていたっけ。
思い出してイルカは目を伏せ僅かに苦笑いを浮かべた。
淡々と報告書を確認し、処理をする作業を続ける。
「お待たせしました。次の方どうぞ」
顔を上げると、順番を大人しく待っていたカカシが目の前に立つ。なんの変哲もない、いつもの自分の顔を食い入るように見つめていた。イルカは左手を上げる。
「カカシさん、報告書。いただいていいですか?」
固まってしまったカカシに、にこやかな笑顔を浮かべて促すと、一瞬間を置き、あ、うん、と返事をする。持っていた報告書を差し出した。それをイルカは受け取り、書面に目を落とした。
カカシが書いた報告書に日付から目を通す。
自分が女体化から解けようやく普段の姿に解放された時、カカシは里にはいなかった。
それは幸いと呼ぶべきか。ーーいや、間違いなく幸いだ。
字が綺麗だと知ったのはここで初めて報告書を受け取った時だ。写輪眼のカカシと言う名前と、憧れ尊敬していたカカシが自分の受け持った生徒の上忍師となった事が先行してしまっていて、ひどく緊張しながらカカシから報告書を受け取った事を、よく覚えている。そして、カカシが報告所を去った後、読み返した報告書の字が綺麗で、驚いた。
たぶん、彼に初めて好感を持ったのはその時だった。そして、カカシに初めて夕飯に誘われたのもその頃だった。
報告書に目を通しながら、込み上げる何かを堪えるように。自然表情が硬くなっていた。イルカは無理に頬を緩め、顔を上げた。カカシを見る。
「報告書、問題ありませんでした。ご苦労様でした」
そこから直ぐにカカシから視線を外す。
「次の方」
カカシの後ろで順番を待つ上忍へ目を向ける。カカシは、何も言わなかった。何もイルカに声をかける事なく、背を向け報告所から出て行った。
その姿を視界のどこかに入れながら、イルカは別の報告書を確認作業をする。
そして、ほらやっぱり、と密かに心の奥で笑い、呟いた。
「イルカ先生」
日も暮れた職員室でイルカは名前を呼ばれ、一定のリズムで採点を付けていた手を止める。顔を上げた。テスト期間中もあってか残っている職員が多い。そんな中、同じように残っていた女性職員もまたそうだ。手には自販機で買ってきたのだろう。ホットココアを持っている。
「はい」
返事をするとその女性が少しだけイルカに屈んだ。
「さっき下で見たんですけど」
少し小さな声にする意味が分からないし、口にした内容も分からない。イルカは首を傾げた。
「あの、見たって何を、」
「はたけ上忍です」
ああ。
イルカは納得する。同時に感じるのは複雑なものだった。イルカの顔から表情が僅かに消えたが、女性教員は気が付かない。嬉しそうにまた口を開いた。つい先日カカシにつきあっている人がいないかと、聞いてきた女性教員だった。
「もしかしてイルカ先生を待ってるんじゃないんですか?」
純粋に、今までのように約束をしているから一緒に夕飯を食べにいくんだと。そう思っている女性教員に悪意はない。
「まさか」
思わずイルカの口から零れていた。え?と聞き返されイルカは慌てて笑顔を作る。
「いや、今日は約束してないんです。だから違いますよ」
笑って顔を答案用紙に戻す。再び採点に戻り赤ペンを動かした。
まさか。ーーさっきそう口から出たのは本音だった。
だって、あの日。受付で元の姿に戻った自分を見て以来、カカシは声をかけてこない。
そこまで思って、イルカは可笑しくなって一人息を吐き出すような笑いを零した。ペンを動かし続けていた手が、ゆっくりと止まる。
あの時のカカシの顔が今も忘れられない。思い出しただけで心臓がぎゅっと縮まり息が詰まりそうになる。その苦しさから逃れたくて、思わず視線を斜め横に漂わせた。
酷く胸が痛いのに、悲しさと虚しさと、あとその中にある憤りに、押しつぶされそうになる。
イルカはふう、と息を吐き出す。邪魔な思考を押し出した。そしてそこから切り替えるように再びペンを動かした。
「おい、イルカ」
呼び止められたのは執務室から出た廊下だった。
振り返ると、アスマが片手を上げる。咥えた煙草には火が付いていない。会釈を返せばアスマがイルカに歩み寄った。
カカシと距離を置きたくてアスマとも距離を取っていたのは事実だ。何だろうと顔を窺うと、アスマは手持ちぶさたに口に咥えていた煙草を指で挟んだ。
「お前今夜暇か」
上忍に誘われる事は時々あるが、アスマからはあまりない。そのつもりがなくとも、自然警戒した表情が出ていたのか、アスマが苦笑いを浮かべ、実はな、と続けた。
「ほらアイツ。ツバキに急に頼まれた飲み会なんだけどよ、人数が足らなくてな。予定ないならどうだ?」
頼まれた上忍のくノ一の名前を出されるが、それが誰かは分からない。ただ、以前飲み会なんて面倒くせえと口にしていたアスマが声をかけてくるのだから、困っている事は想像がついた。
「お前の飲み代俺が持つから、な?」
言われてイルカは慌てた。
「いえ、そんな。飲み代くらいは自分で払います、」
「じゃあ行けるって事か?」
会話の流れでそうなっている事に、気が付く。イルカは頷くしかなかった。
「残業がなければ、」
イルカの答えに安堵の表情をアスマは浮かべた。
「じゃあ十九時に酒酒屋な」
肩をぽんと叩くとアスマは執務室へと歩き出す。
正直、あれから誰かと飲む気にはなれずに、ろくに誰とも飲みにも行っていなかった。家でも飲んでいない。
まあ、いい機会だ。
イルカはそう自分に言い聞かせると書類を抱るとアカデミーへ戻るべく歩き出した。
奥の座敷の部屋で中忍仲間では頼まない料金のコースの料理がテーブルに並ぶ。
イルカはその一番襖側の席に座っていた。
目の前には同じ稼業ではない、綺麗な女性が座っていた。明るい茶色い髪は肩の下まであり、手入れがされた毛先はふんわりとカールしている。春らしい白いシフォンのワンピースは女性の可愛い雰囲気と合っていた。つい少し前まで自分も強制的に女性だったが、髪型も今のままで無造作に結んだだけで、それに支給服。分かってはいるが、あまりにもかけ離れている事実に可笑しいとさえ感じる。
「どうしたの?あまりお酒好きじゃない?」
イルカのグラスは乾杯の際注いだビールのままになっている。それに気が付いたのか、目の前の女性が不思議そうに口にした。慌てて笑顔を作る。
「いえ、好きです、」
それ以上の言葉は出てこない。止まるのはあまり思考が回らなくなっていたからで、
「じゃあいいじゃない、はいどうぞ」
「あ、すみません」
ビールを注がれイルカは正座した足を正しグラス差し出す。そっと視線を上げた。
その先にはカカシが座っていた。見間違いでもなんでもない。口布を下ろし、涼しげな表情でビールを飲んでいる。それ以上見たくなくて、イルカはすぐに視線を逸らしテーブルに落とした。
カカシが来るなんて聞いてない。
そう言いたかったが、手前勝手以外なにものでもなく、言える訳がない。
カカシを避けるようにすれば自然視界も狭くなる。
「ねえ」
また目の前の女性がイルカの声をかけられ慌てて目線を戻す。
「忍って大変なんでしょ?」
大雑把な質問に、イルカは何と答えるべきか。そうですね、と相槌を打った。
「大変とは言っても俺は教師なので、」
女性が興味を持った顔をした。
「へえ、じゃあ先生なのね。何て呼ばれてるの?」
「あ、えっと、殆どの生徒がイルカ先生と呼びますが、」
「じゃあ私もイルカ先生って呼んでいい?」
周りから呼ばれているから別に構わないが、初対面もあって戸惑うと、女は笑った。くすくすと可愛らしく手を当てて、そしてイルカへ顔を上げる。
「ごめんね。だってイルカ先生って可愛いから」
初対面ではあまり言われない感想に面を食らった。しかも自分は今はもう男だ。その反応にも女は微笑む。
「だって、正座とかしてるし、すごく真面目で純粋だなって」
遊んでないのが丸わかりだと言わんばかりの台詞に、イルカは恥ずかしさに頬が熱くなった。
膝の上に置いた手をぎゅっと握り拳を作る。
笑って対応してみるが、無理に笑う頬が引き攣った。
「すみません、ちょっと」
イルカは席を立つと部屋を出た。襖を閉め、目を伏せて息を吐き出す。部屋とは違う少し下がった気温の廊下を歩きながらトイレへ向かった。
ーー帰りたい。
塞いだ気持ちのまま、ため息を吐き出した。
何も楽しくない。初めて会った女性に可愛いと言われて嬉しい訳がない。しかも綺麗に着飾った女性を前にしたら、目的もなく参加した事に後ろめたさえ感じた。
そしてそこにはカカシがいて。
広くはない部屋で、嫌でも会話が耳に入った。自分とは違い、綺麗なくノ一を相手に、顔見知りだからかもしれないが、会話は弾んでいるように思えた。
自分が座っていた席が出口に近い場所なのが幸いだった。
このまま抜け出したって誰もそこまで気に留めないだろう。あの部屋の楽しげな雰囲気を思い出してぼんやり思う。カカシだって自分の方を一切い見ずにいた。だからきっと気がつかない。
手を洗いトイレから出ようと扉に手をかけようとした、その扉が反対側から押されて開き、相手の顔を見てイルカは固まった。
カカシが目の前にいた。
ーー今一番会いたくないのに、何で。
その気持ちが溢れそうになり顔が強張る。イルカを見て少しだけ目を見開いたカカシは、一瞬眉根を寄せそこからふっと視線を自分から外した。重い痛みが心臓にのしかかる。
分かっていた。頭で分かっているが、受付の時と同じだ。目の前でされるはーー辛い。
やっぱりさっさと帰ろう。廊下へ一歩踏み出した時、腕を掴まれた。ぐい、と強い力でトイレの中へ引っ張り戻される。
そして引っ張ったのはその場にいるカカシしかいなく。イルカはぎょっとした顔でカカシを見た。
「待って」
ぐっと眉根を寄せた顔で、こっちを見ているカカシを見たら、ムカつきしか覚えなかった。そんな顔をしたいのはこっちだ。
だからさっそとこの場を去りたいのに。
「楽しい?」
カカシから出た言葉に、イルカは一瞬目を丸くした。
楽しいわけねえだろ。
突いて出そうになった言葉を必死に飲み込む。そこからゆっくりと不満を顔に表すように、隠す事なく眉を寄せた。
「カカシさんは楽しそうですね」
「楽しいわけないでしょ」
間髪入れずに返され眉間に皺が寄った。思わずそのままの勢いでカカシを睨んでいた。
「俺だって楽しくなんかないですよ」
「嘘ばっかり、可愛いなんて言われて嬉しそうにしてたじゃない」
揶揄する口調にかっと頭に血が上った。
「んな事あるわけないでしょう。カカシさんだってどうせ俺の代わりでも探すために参加したんで、」
語尾を言い終わる前にカカシの手が勢いよく伸び、イルカの後ろにある扉を叩くようについた。大きな音に身体が跳ねる。カカシは険しい顔でイルカを見つめていた。
「……アスマに言われて仕方なく参加しただけ。それに、あんたの代わりなんていないよ」
低く凄みのある声に背筋がぞくりとした。元の身長に戻ったせいか見上げる事無くとも、カカシの顔が近く感じる。
「知ってるくせに」
底冷えするような眼差しに悔しそうな色を滲ませる。イルカはこくりと喉を鳴らした。少し震える口を開く。
「知らないですよ、そんなの。ああ、あれですか、・・・・・・俺の女体化の期間が思ったより短かったから不満なんですか?」
カカシが眉を寄せた。イルカはじっとカカシを見つめながらまた口を開く。
「あれじゃあ満足出来ませんでしたか?俺は俺なりに、」
「あんた俺を本気で怒らせたいの?」
カカシの怒りが間近で、その声からはっきりと伝わる。別に怒らせたいわけじゃない。気持ちが空回りして、だけど、カカシの怒りにさえ虚しさが感じた。イルカはぐっと眉根に皺を寄せる。
「じゃあ・・・・・・俺がずっとあのままだったら良かったんですか?カカシさんがずっとこうしていたいって願った通りに、そしたらこんな風に俺を無視する事もなくて、」
「は?俺が願ったって何?無視なんてしてない。あなたが、一貫してそんな態度だったから俺は合わせただけで、」
「一貫した態度って、俺は別に、」
「待って。ごめん、待って先生」
悔しさを滲ませながら食ってかかろうとするイルカを止めるように、手を掴んだ。もう片方のつかえていた手を離す。そしてイルカをまじまじと見つめた。
「・・・・・・俺、あなたを誘ってもいいの?」
「え、誘うって、飲みに行くって事ですか?」
カカシはすぐに頭を横に振った。
「違う。あの関係を、続けてもいいって事だよね?」
慎重な言い方だった。取りあえずイルカは視線を斜め下に漂わせながら、カカシに言われた事を頭の中でゆっくりと再生する。口を少しだけ尖らせた。
「・・・・・・俺はセフレはちょっと」
困った顔でそう言うと、カカシは驚いたように目を見開き、そして笑い出した。
この流れでカカシが笑うとは思わなくて、面食らったイルカはぎょっとするも、可笑しそうに笑うカカシには邪気もなくだからと言ってよく分からない。今自分の台詞にこんなに笑うような箇所があっただろうか。いや、ない。
カカシの笑いが治まるのを待って、あの、と窺うように話しかけると、カカシはまだ可笑しそうにしていたが、イルカへ顔を上げる。
「じゃあ、俺の部屋行こっか」
「はい?」
腕を掴まれイルカは目を剥いた。どっから考えても繋がらない台詞に顔を赤くさせながら慌てふためくと、カカシはふっと目を細める。
「セフレじゃないセックス。しようよ」
え、と声にならない驚きにカカシを見返すと、カカシの目は嬉しそうに自分を見つめている。把握できていないのに、胸が高鳴った。顔を赤らめたまま困惑するイルカは視線を下げた。カカシは少しだけ首を傾げる。
「もう一度俺にチャンスを頂戴?」
「ふざけ、」
落としていた視線を上げたイルカの言いかけた言葉が止まる。笑ってるのに泣きそうな、カカシの顔。
迂闊にもイルカの鼓動が高鳴った時、カカシは嬉しそうに微笑んだ。イルカを引き寄せる。わ、と声を上げたイルカと共に姿を消した。
NEXT→
一礼をするとイルカは執務室の扉を閉める。廊下を歩き階段を下りる足取りは軽快だった。そのまま建物の外に出たイルカは、顔を上げた。空は雲一つなく太陽が輝いている。その眩しさに目を眇めた。
イルカは深呼吸すると、よし、と自分に拍車をかけるように呟く。そこからアカデミーへ向かって歩き出した。
「こら」
教室で机に座って話しに夢中になっている生徒が頭を叩かれる。痛ってえ、と頭を押さえてぼやきながら振り返る。
そこには片手を腰に当て、もう片方に出席簿を持ったイルカが立っていた。イルカだと分かっているのに、顔を見て一瞬きょとんとした顔をする。そして瞬きをした。
「もうすぐ授業始まるのになに喋ってるんだ。それにそこは机だ。座るところじゃないだろう」
生徒はまだ少しぽかんとしている。そして、
「・・・・・・男のイルカ先生だ」
そう呟く生徒に片眉を上げたイルカは、笑顔を浮かべその頭にぽんと手を置き、髪をくしゃりと撫でる。
「当たり前だ」
そして背中を軽く叩き席に座るよう促した。
皆イルカを見ていた。ざわつく教室をイルカは見渡して、その子供たちの反応に予想内だったと、ため息を吐き出した。そして息を吸う。
「ほら、授業始めるぞ!」
イルカのいつもの大きな声が教室に響きわたった。
あ、初めて見るな。
そう思ったのは、カカシが短期任務から戻り報告所にいる自分の顔を見て、驚きに目を見開いたから。
いや、違う。二度目か。
以前自分が女体化して間もない時、保健室で無様な自分の姿を見た時も、あんな顔をしていたっけ。
思い出してイルカは目を伏せ僅かに苦笑いを浮かべた。
淡々と報告書を確認し、処理をする作業を続ける。
「お待たせしました。次の方どうぞ」
顔を上げると、順番を大人しく待っていたカカシが目の前に立つ。なんの変哲もない、いつもの自分の顔を食い入るように見つめていた。イルカは左手を上げる。
「カカシさん、報告書。いただいていいですか?」
固まってしまったカカシに、にこやかな笑顔を浮かべて促すと、一瞬間を置き、あ、うん、と返事をする。持っていた報告書を差し出した。それをイルカは受け取り、書面に目を落とした。
カカシが書いた報告書に日付から目を通す。
自分が女体化から解けようやく普段の姿に解放された時、カカシは里にはいなかった。
それは幸いと呼ぶべきか。ーーいや、間違いなく幸いだ。
字が綺麗だと知ったのはここで初めて報告書を受け取った時だ。写輪眼のカカシと言う名前と、憧れ尊敬していたカカシが自分の受け持った生徒の上忍師となった事が先行してしまっていて、ひどく緊張しながらカカシから報告書を受け取った事を、よく覚えている。そして、カカシが報告所を去った後、読み返した報告書の字が綺麗で、驚いた。
たぶん、彼に初めて好感を持ったのはその時だった。そして、カカシに初めて夕飯に誘われたのもその頃だった。
報告書に目を通しながら、込み上げる何かを堪えるように。自然表情が硬くなっていた。イルカは無理に頬を緩め、顔を上げた。カカシを見る。
「報告書、問題ありませんでした。ご苦労様でした」
そこから直ぐにカカシから視線を外す。
「次の方」
カカシの後ろで順番を待つ上忍へ目を向ける。カカシは、何も言わなかった。何もイルカに声をかける事なく、背を向け報告所から出て行った。
その姿を視界のどこかに入れながら、イルカは別の報告書を確認作業をする。
そして、ほらやっぱり、と密かに心の奥で笑い、呟いた。
「イルカ先生」
日も暮れた職員室でイルカは名前を呼ばれ、一定のリズムで採点を付けていた手を止める。顔を上げた。テスト期間中もあってか残っている職員が多い。そんな中、同じように残っていた女性職員もまたそうだ。手には自販機で買ってきたのだろう。ホットココアを持っている。
「はい」
返事をするとその女性が少しだけイルカに屈んだ。
「さっき下で見たんですけど」
少し小さな声にする意味が分からないし、口にした内容も分からない。イルカは首を傾げた。
「あの、見たって何を、」
「はたけ上忍です」
ああ。
イルカは納得する。同時に感じるのは複雑なものだった。イルカの顔から表情が僅かに消えたが、女性教員は気が付かない。嬉しそうにまた口を開いた。つい先日カカシにつきあっている人がいないかと、聞いてきた女性教員だった。
「もしかしてイルカ先生を待ってるんじゃないんですか?」
純粋に、今までのように約束をしているから一緒に夕飯を食べにいくんだと。そう思っている女性教員に悪意はない。
「まさか」
思わずイルカの口から零れていた。え?と聞き返されイルカは慌てて笑顔を作る。
「いや、今日は約束してないんです。だから違いますよ」
笑って顔を答案用紙に戻す。再び採点に戻り赤ペンを動かした。
まさか。ーーさっきそう口から出たのは本音だった。
だって、あの日。受付で元の姿に戻った自分を見て以来、カカシは声をかけてこない。
そこまで思って、イルカは可笑しくなって一人息を吐き出すような笑いを零した。ペンを動かし続けていた手が、ゆっくりと止まる。
あの時のカカシの顔が今も忘れられない。思い出しただけで心臓がぎゅっと縮まり息が詰まりそうになる。その苦しさから逃れたくて、思わず視線を斜め横に漂わせた。
酷く胸が痛いのに、悲しさと虚しさと、あとその中にある憤りに、押しつぶされそうになる。
イルカはふう、と息を吐き出す。邪魔な思考を押し出した。そしてそこから切り替えるように再びペンを動かした。
「おい、イルカ」
呼び止められたのは執務室から出た廊下だった。
振り返ると、アスマが片手を上げる。咥えた煙草には火が付いていない。会釈を返せばアスマがイルカに歩み寄った。
カカシと距離を置きたくてアスマとも距離を取っていたのは事実だ。何だろうと顔を窺うと、アスマは手持ちぶさたに口に咥えていた煙草を指で挟んだ。
「お前今夜暇か」
上忍に誘われる事は時々あるが、アスマからはあまりない。そのつもりがなくとも、自然警戒した表情が出ていたのか、アスマが苦笑いを浮かべ、実はな、と続けた。
「ほらアイツ。ツバキに急に頼まれた飲み会なんだけどよ、人数が足らなくてな。予定ないならどうだ?」
頼まれた上忍のくノ一の名前を出されるが、それが誰かは分からない。ただ、以前飲み会なんて面倒くせえと口にしていたアスマが声をかけてくるのだから、困っている事は想像がついた。
「お前の飲み代俺が持つから、な?」
言われてイルカは慌てた。
「いえ、そんな。飲み代くらいは自分で払います、」
「じゃあ行けるって事か?」
会話の流れでそうなっている事に、気が付く。イルカは頷くしかなかった。
「残業がなければ、」
イルカの答えに安堵の表情をアスマは浮かべた。
「じゃあ十九時に酒酒屋な」
肩をぽんと叩くとアスマは執務室へと歩き出す。
正直、あれから誰かと飲む気にはなれずに、ろくに誰とも飲みにも行っていなかった。家でも飲んでいない。
まあ、いい機会だ。
イルカはそう自分に言い聞かせると書類を抱るとアカデミーへ戻るべく歩き出した。
奥の座敷の部屋で中忍仲間では頼まない料金のコースの料理がテーブルに並ぶ。
イルカはその一番襖側の席に座っていた。
目の前には同じ稼業ではない、綺麗な女性が座っていた。明るい茶色い髪は肩の下まであり、手入れがされた毛先はふんわりとカールしている。春らしい白いシフォンのワンピースは女性の可愛い雰囲気と合っていた。つい少し前まで自分も強制的に女性だったが、髪型も今のままで無造作に結んだだけで、それに支給服。分かってはいるが、あまりにもかけ離れている事実に可笑しいとさえ感じる。
「どうしたの?あまりお酒好きじゃない?」
イルカのグラスは乾杯の際注いだビールのままになっている。それに気が付いたのか、目の前の女性が不思議そうに口にした。慌てて笑顔を作る。
「いえ、好きです、」
それ以上の言葉は出てこない。止まるのはあまり思考が回らなくなっていたからで、
「じゃあいいじゃない、はいどうぞ」
「あ、すみません」
ビールを注がれイルカは正座した足を正しグラス差し出す。そっと視線を上げた。
その先にはカカシが座っていた。見間違いでもなんでもない。口布を下ろし、涼しげな表情でビールを飲んでいる。それ以上見たくなくて、イルカはすぐに視線を逸らしテーブルに落とした。
カカシが来るなんて聞いてない。
そう言いたかったが、手前勝手以外なにものでもなく、言える訳がない。
カカシを避けるようにすれば自然視界も狭くなる。
「ねえ」
また目の前の女性がイルカの声をかけられ慌てて目線を戻す。
「忍って大変なんでしょ?」
大雑把な質問に、イルカは何と答えるべきか。そうですね、と相槌を打った。
「大変とは言っても俺は教師なので、」
女性が興味を持った顔をした。
「へえ、じゃあ先生なのね。何て呼ばれてるの?」
「あ、えっと、殆どの生徒がイルカ先生と呼びますが、」
「じゃあ私もイルカ先生って呼んでいい?」
周りから呼ばれているから別に構わないが、初対面もあって戸惑うと、女は笑った。くすくすと可愛らしく手を当てて、そしてイルカへ顔を上げる。
「ごめんね。だってイルカ先生って可愛いから」
初対面ではあまり言われない感想に面を食らった。しかも自分は今はもう男だ。その反応にも女は微笑む。
「だって、正座とかしてるし、すごく真面目で純粋だなって」
遊んでないのが丸わかりだと言わんばかりの台詞に、イルカは恥ずかしさに頬が熱くなった。
膝の上に置いた手をぎゅっと握り拳を作る。
笑って対応してみるが、無理に笑う頬が引き攣った。
「すみません、ちょっと」
イルカは席を立つと部屋を出た。襖を閉め、目を伏せて息を吐き出す。部屋とは違う少し下がった気温の廊下を歩きながらトイレへ向かった。
ーー帰りたい。
塞いだ気持ちのまま、ため息を吐き出した。
何も楽しくない。初めて会った女性に可愛いと言われて嬉しい訳がない。しかも綺麗に着飾った女性を前にしたら、目的もなく参加した事に後ろめたさえ感じた。
そしてそこにはカカシがいて。
広くはない部屋で、嫌でも会話が耳に入った。自分とは違い、綺麗なくノ一を相手に、顔見知りだからかもしれないが、会話は弾んでいるように思えた。
自分が座っていた席が出口に近い場所なのが幸いだった。
このまま抜け出したって誰もそこまで気に留めないだろう。あの部屋の楽しげな雰囲気を思い出してぼんやり思う。カカシだって自分の方を一切い見ずにいた。だからきっと気がつかない。
手を洗いトイレから出ようと扉に手をかけようとした、その扉が反対側から押されて開き、相手の顔を見てイルカは固まった。
カカシが目の前にいた。
ーー今一番会いたくないのに、何で。
その気持ちが溢れそうになり顔が強張る。イルカを見て少しだけ目を見開いたカカシは、一瞬眉根を寄せそこからふっと視線を自分から外した。重い痛みが心臓にのしかかる。
分かっていた。頭で分かっているが、受付の時と同じだ。目の前でされるはーー辛い。
やっぱりさっさと帰ろう。廊下へ一歩踏み出した時、腕を掴まれた。ぐい、と強い力でトイレの中へ引っ張り戻される。
そして引っ張ったのはその場にいるカカシしかいなく。イルカはぎょっとした顔でカカシを見た。
「待って」
ぐっと眉根を寄せた顔で、こっちを見ているカカシを見たら、ムカつきしか覚えなかった。そんな顔をしたいのはこっちだ。
だからさっそとこの場を去りたいのに。
「楽しい?」
カカシから出た言葉に、イルカは一瞬目を丸くした。
楽しいわけねえだろ。
突いて出そうになった言葉を必死に飲み込む。そこからゆっくりと不満を顔に表すように、隠す事なく眉を寄せた。
「カカシさんは楽しそうですね」
「楽しいわけないでしょ」
間髪入れずに返され眉間に皺が寄った。思わずそのままの勢いでカカシを睨んでいた。
「俺だって楽しくなんかないですよ」
「嘘ばっかり、可愛いなんて言われて嬉しそうにしてたじゃない」
揶揄する口調にかっと頭に血が上った。
「んな事あるわけないでしょう。カカシさんだってどうせ俺の代わりでも探すために参加したんで、」
語尾を言い終わる前にカカシの手が勢いよく伸び、イルカの後ろにある扉を叩くようについた。大きな音に身体が跳ねる。カカシは険しい顔でイルカを見つめていた。
「……アスマに言われて仕方なく参加しただけ。それに、あんたの代わりなんていないよ」
低く凄みのある声に背筋がぞくりとした。元の身長に戻ったせいか見上げる事無くとも、カカシの顔が近く感じる。
「知ってるくせに」
底冷えするような眼差しに悔しそうな色を滲ませる。イルカはこくりと喉を鳴らした。少し震える口を開く。
「知らないですよ、そんなの。ああ、あれですか、・・・・・・俺の女体化の期間が思ったより短かったから不満なんですか?」
カカシが眉を寄せた。イルカはじっとカカシを見つめながらまた口を開く。
「あれじゃあ満足出来ませんでしたか?俺は俺なりに、」
「あんた俺を本気で怒らせたいの?」
カカシの怒りが間近で、その声からはっきりと伝わる。別に怒らせたいわけじゃない。気持ちが空回りして、だけど、カカシの怒りにさえ虚しさが感じた。イルカはぐっと眉根に皺を寄せる。
「じゃあ・・・・・・俺がずっとあのままだったら良かったんですか?カカシさんがずっとこうしていたいって願った通りに、そしたらこんな風に俺を無視する事もなくて、」
「は?俺が願ったって何?無視なんてしてない。あなたが、一貫してそんな態度だったから俺は合わせただけで、」
「一貫した態度って、俺は別に、」
「待って。ごめん、待って先生」
悔しさを滲ませながら食ってかかろうとするイルカを止めるように、手を掴んだ。もう片方のつかえていた手を離す。そしてイルカをまじまじと見つめた。
「・・・・・・俺、あなたを誘ってもいいの?」
「え、誘うって、飲みに行くって事ですか?」
カカシはすぐに頭を横に振った。
「違う。あの関係を、続けてもいいって事だよね?」
慎重な言い方だった。取りあえずイルカは視線を斜め下に漂わせながら、カカシに言われた事を頭の中でゆっくりと再生する。口を少しだけ尖らせた。
「・・・・・・俺はセフレはちょっと」
困った顔でそう言うと、カカシは驚いたように目を見開き、そして笑い出した。
この流れでカカシが笑うとは思わなくて、面食らったイルカはぎょっとするも、可笑しそうに笑うカカシには邪気もなくだからと言ってよく分からない。今自分の台詞にこんなに笑うような箇所があっただろうか。いや、ない。
カカシの笑いが治まるのを待って、あの、と窺うように話しかけると、カカシはまだ可笑しそうにしていたが、イルカへ顔を上げる。
「じゃあ、俺の部屋行こっか」
「はい?」
腕を掴まれイルカは目を剥いた。どっから考えても繋がらない台詞に顔を赤くさせながら慌てふためくと、カカシはふっと目を細める。
「セフレじゃないセックス。しようよ」
え、と声にならない驚きにカカシを見返すと、カカシの目は嬉しそうに自分を見つめている。把握できていないのに、胸が高鳴った。顔を赤らめたまま困惑するイルカは視線を下げた。カカシは少しだけ首を傾げる。
「もう一度俺にチャンスを頂戴?」
「ふざけ、」
落としていた視線を上げたイルカの言いかけた言葉が止まる。笑ってるのに泣きそうな、カカシの顔。
迂闊にもイルカの鼓動が高鳴った時、カカシは嬉しそうに微笑んだ。イルカを引き寄せる。わ、と声を上げたイルカと共に姿を消した。
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