恋と笑って⑩

カカシはあれから姿を見せなくなった。受付にいても姿さえ見ない。もとより上忍師をお役御免となってから、彼はここの受付で報告しない、上のランクの任務ばかりだと言うのは知っていた。
避けられているのかもしれない。
それはきっと間違ってはいないだろう。別れ際に言われたカカシの言葉が頭に染み付き離れない。離れないけど、忘れよう。そう思った。

「カカシさんと喧嘩でもしたのか?」
飲み会だった。給料日だからと受付の仲間と居酒屋に来ていた。いつもの大衆居酒屋は自分と同じ支給服を来た顔が多い。皆同じような理由付けで飲みにきたんだろう。込み合っている中、たまたま空いた奥の個室に通され飲んでいた。
面白半分の口調に、イルカはため息混じりにこりこりと頬を掻いた。
「してないよ」
素っ気なく返しても好奇の目は変わらない。
「てっきりつき合ってるのかと思ったのにな」
カカシが自分に会いにくるかのように顔を見せていたのは確かだった。里でも有名な上忍が、自分と同じただの中忍に興味を抱いているのは、気になるところだったんだろう。
適当な台詞にイルカはうんざりした気持ちになる。
「そんな関係なわけないだろ」
残り少ない焼酎をぐいと飲み干して、小さくなった氷を口の中に入れ舌の上で転がした。
「じゃあなんで急に顔みせなくなったんだろうな。あ、そうか。イルカじゃつまんないから女に切り替えたとか?カカシさんだったらよりどりみどりだしな」
カカシがあの葵姫に言い寄られたと、気がつけば里の中では有名な噂になっていた。誰が流したのかは知らないが、内容だけ訊けば面白いのだろう。黙っていると、その通り、同僚がその話を口にした。
「なんせあの麗しい姫に好かれたんだぜ?羨ましい話だよな」
その噂を訊く度にいい知れないムカつきを覚えるのは、自分だけだ。イルカは黙り込んで襖を開け店員に手を挙げる。新しい酒を頼んだ。
カカシの前では言えない事をこんな場所で並び立ててなにが面白いのか。本人の前では口が裂けても言えないだろうに。
大体、あの任務で幸せになった人間なんて誰一人いない。姫も、カカシも、ーー俺も。
「あー、俺も死ぬまでに姫様とやってみてー」
卑陋極まりない言い方にイルカは見る見る不機嫌になっていく。怒りも沸き上がる。だけど、イルカは黙って酒を煽った。
結局自分もこの同僚と同じ。反論する権利もない。
ーーでも、同僚の言ってる事は間違っている。カカシは葵姫と契りを交わしていない。
その事実を今更思い出した。思い出したところで何も変わらないが。葵姫の要望だったはずなのに。二人の間に何があったのだろう。イルカは嘆息してぼんやりと汗かくグラスを見つめた。
同僚の言う通りなのかもしれない。カカシがその気になればどんな女性でも手に入れられるだろう。だから、きっとそうしているのかもしれない。
そう思いたいのに、カカシの残した言葉が胸に刺さったまま、そうさせない。これは自分の都合だろうか。そう思えば可笑しくなった。


胸が一杯になると腹も一杯になるのか。なんて思い一人笑いを零す。
思ったより飲むことも食べる事も出来なかった。ムッツリ黙り込んだイルカを見て、心配になったのか、早めに切り上げ店を出ていた。
同僚と分かれて一人夜道を歩く。チャクラを凝らさなければ、一般の人と同じく暗い視界が広がる。今夜は月も出ていない。風もあまりないから明日は雨が降るのかもしれない。蒸し暑くはないが、湿度が多い空気にイルカはゆっくりと息を吐き出した。
歩いていて香った花の匂い。それはイルカの気持ちをなだらかにした。きっとこの近所に咲く花なのだろう。
「おい」
呼ばれてイルカは身を固くした。ギクリとしたのもつかの間。足下に見える姿に胸をなで下ろす。
「何だ...パックンか」
「びっくりさせたか。すまんな」
イルカは首を振り頬を緩めて頭を撫でた。元々犬好きなのはパックンも感じているのだろう。素直に尻尾を振っている。
「今晩は。こんな時間に散歩か?」
垂れた目でイルカを見上げているパックンに言った。
「いや」
短い返答にイルカはまた優しい目を足下に向けた。
「じゃあ、何だ?」
「迷子だ」
「え?」
聞き返す。
「わし、迷子だ」
「.......へぇ....」
忍犬に迷子と言われ、イルカはそう呟いた後閉口するしかなかった。
普通の犬でさえ帰省本能に優れている。ましてやあのカカシの忍犬だ。んなわけないだろ、と頭で分かっているが。黙ったイルカにまたパックンが口を開いた。
「悪いが、家まで連れていってもらえんか」
「それは、....」
言いよどむと、パックンが鼻を鳴らす。それは笑っているようにも見えた。
「のお、イルカ」
ちょこんと尻を地面に着いて座り直し、イルカを見つめた。
「わしは迷子になってしまった。それに年のせいか腰も痛い」
そこまで訊いて、イルカは長いため息を吐き出した。
「じゃあ、近所までなら。それでいい?」
抱き上げるとパックンは満足げに頷く。イルカは歩き出した。抱き上げるパックンの温もりが心地よかった。イルカはぼんやりと歩きながら、黙ってしまったパックンに口を開く。
「パックンって、それ誰がつけた名前?」
気になっていた問いに、素直にパックンも答えた。
「.....幼少期のカカシだ」
「へえ、そうなんだ」
「正直気に入っておらんがな。要は何事も慣れだ。慣れ」
言い切る口調にイルカは笑いを零す。他の誰でもない、カカシの話はまたイルカを心地よくさせていた。パックンは続けた。
「本人はそれが変だとも思っていないらしい。きっと今もアレは気に入っている」
カカシとは二十代半ばで初めて顔を合わせた。それ以前のカカシは全く知らない。黒い噂しか耳にしていなかった。この忍犬をパックンと名付けたカカシ。一体幼少期のカカシはどんな風だったのだろう。歳も近い同じ里の忍びだが、生きている世界は180度違っていたはずだ。そう思うと訊いてはいけないと思った。カカシの過去はカカシのものだ。自分が知る必要もないし、今自分の前にいるカカシだけで十分だ。
「最近庭に亀が迷いこんでな」
急に話が変わり、イルカはパックンに視線を向けた。
「亀が?」
訊くと、パックンは少しだけイルカの腕の中で身じろぎし、顔をイルカに向ける。
「大きなミドリガメだ。数日前になる。朝起きていつものように庭を歩いていたらな。庭の岩に鎮座っしておって驚いた」
「へえ」
「大きさや甲良を見て10歳は越えておるだろう。まあ、近くの川から迷い混んできたのであろうが、カカシが気に入ってな」
「カカシさんが?」
それは意外だ。と聞き返す。
「ーーやっと来たか」
呟かれた言葉にまた視線を胸に落とすと、
「パックン?」
そう呼んだのは、カカシの声だった。
突然過ぎるし、何よりパックンを抱いたまま、自分は逃げることも出来ない。イルカは目の前に現れたカカシに、脚を止め見つめるしかなかった。
驚くイルカを前に、カカシも同じ驚きの表情でイルカを見ている。慌てていたのか、ベストを羽織ってはいるが、前は止められてない。銀髪もいつもより寝癖が目立つ。目線をイルカの腕の中に向けた。探していたのだろう。パックンを見て呆れた表情を見せた。
「何やってるの」
その言葉にパックンはイルカの腕の中からぴょんと飛び出し、地面に華麗に着地する。
「散歩だ」
イルカが突っ込みたくなる台詞をカカシに告げると、用は済んだとばかりにすたすたと家の方向に向かって一人歩きだし、姿を消した。
何だこれ。
お互いに黙ってしまった空気、イルカの腕の中は何もいない。カカシの困った表情を見たくなかった。地面に視線を落とし手持無沙汰になった手で、軽く自分の手を握った。
「元気?」
「え?」
カカシはーー真っ直ぐに自分を見つめていた。問われて、カカシと会わなくなって結構経っていた事を気づかされる。あれから会話もとより一回だって彼と顔を合わす事がなかった。
「えぇ...まぁ。元気です」
「そっか」
カカシはいつも以上にぼさぼさの髪を掻いた。
今まで動くことのなかった風がふわりと動いた。その中に微かに香った花の匂いに自分の勢いをつけ口を開いた。
「カカシさんは、元気でしたか?」
他愛のない会話でも、イルカが一番気にしていた事だった。姿さえ見なくなったカカシを、素直に心配していた。
「うん、元気」
言われてイルカの心から緊張感が消えた。安堵感に近い。カカシがただ単に元気だと言ってくれた事が嬉しい。
それだけで十分だと思った。
「じゃあ、俺は帰ります」
「あ、待って」
会釈したイルカにカカシが引き留めた。が顔を見れば、困った顔をして、視線を横にずらす。そしてまたイルカへ戻した。
「良かったら…上がっていってください」
折角なんで。
そう言われてイルカは迷った。無言のまま答えられずにいると、カカシはまた髪を掻き乱した。
「イルカ先生が嫌じゃなければ...ですが」
嫌われているとばかり思っていた。なのに目の前のカカシは心配そうな目を自分に向けている。
「はい」
迷ったがそう頷くと、にこ、とあどけない感じのする笑みを浮かべたカカシを見て、なんだか犬のような人だとイルカは思った。
「こっちです」
カカシが歩き出す少し後からついて行く。カカシの広い背中はイルカにまた安堵感を与える。また風が柔らかく吹き、花の匂いがした時、胸が締め付けられた。





「先生、もしかしてご飯まだ?」
家に着いてすぐ、カカシが訊いた。
「あ、いや今日は飲み会で」
同僚と。と言うと、そっか、とカカシの顔が何故か寂しそうでイルカはまた口を開いた。
「酒は結構飲んだんですが、食いもんは、あんまり」
「じゃあ、うどん。食います?」
足下に広がった服を拾い上げて、振り返るカカシの目は、優しい。
「はい」
イルカは微笑んで頷いた。
カカシの家には何度か足を運んでいたが。こんなに散らかっているのをみたのは初めてだ。
ビールの空き缶や脱がれたパジャマ。分厚い本。自分の部屋ではしょっちゅう繰り広げられる光景だが、カカシの家ではそれは違和感に感じる。袋をもって居間にきたカカシは、既に額宛が外され、口布も下げられていた。
「....忙しかったんですか?」
「うん。人使いが荒いからね、あの人」
空き缶をビニール袋に放り込みながら冗談混じりに言う。あぁ、とイルカが笑いながら相槌を打つ。
「ちゃんとした仕事させてくれるのは嬉しいんだけど。...里にいてもさ、変な噂であーだこーだ言われんの。嫌じゃない」
顔を上げて、イルカの表情が硬くなっているのに気がついたはずなのに。カカシは視線を下に落とした。笑いながらパジャマを拾い上げる。それが酷く無理をしているように見えた。
「…まー、人の噂も七十五日なんて言うから」
「カカシさん」
「ーーん?」
片していた手を止め、イルカへ顔を向けた。
「葵姫と、契りを交わしてないって。ーーあれはどうして」
カカシの表情が消えていくのが分かった。が、薄っすら口元に笑みを浮かべた。
「どうだっけ、忘れちゃった」
目を伏せたまま、ポツリと呟く。
「そんな、忘れるなんて」
「もういいじゃない」
強い言い方だった。遮断されたようで黙ってしまったイルカに、誤魔化すように目元を緩ませた。
「だって、ほら。もう終わった事なんだし」
「.......」
「ーーて言うかね。俺は忘れたいのよ」
言って、カカシは脱衣所に向かう。しばらくしたら洗濯機の動く音が聞こえた。
イルカは立ったままぎゅうと掌を握りしめた。嫌な空気にさせてしまった事を後悔する。何をカカシに期待していたんだろう。何を言わせたかったんだろう。またカカシに責められるのかと思ったらそれ以上は言葉が出てこなかった。
でも。「忘れたい」と言われて。悲しいと思った。
ああ、なんて嫌な言葉なんだろうか。カカシに言われただけで。虚しくなり怒れもするし、ーー何より痛い。
困ったな。
イルカは身体に力を入れた。
「先生、うどん暖かいのでいい?」
だって、ほら。その話に触れなかったら。カカシはこんなにも優しい。イルカは台所に向かったカカシに笑顔を作り、はい、と答えた。

「油揚げ、美味いです」
四角いテーブルで床に座りながらうどんを食べる。暖かいうどんはイルカの身体を暖かくする。
「でしょ?一日寝かせるともっと美味いんだけどね」
そう言う向かいに座ったカカシにちらと視線を上げる。軽く俯いたカカシの顔。銀色の睫毛が長いと感じたのは、いつだったか。
今のカカシとの関係は。まるで砂で作ったお城みたいで。綺麗なのに、脆くて。触ったら簡単に崩れてしまいそうだ。
そう、触れたら。
カカシがテーブルに置いた七味に手を伸ばした。カカシを見ていたイルカの視線と交わり、気がそれたのか。カカシの指がこつんと七味の容器を押していた。テーブルから転がって床に落ちる。
拾おうとしたのは同時だったんだと思う。
イルカの伸ばした指に、カカシの指が触れた。
目で見て触れたと分かったのに、驚いたのに、手を動かせなかった。顔を上げるとカカシの視線とぶつかる。イルカと同じようにカカシも動かなかった。
カカシの顔がゆっくりと近づく。唇と唇が触れそうなほど近くなり、カカシの漏れた息が感じる。息を詰めたのが分かった。
カカシはゆっくりと離れ、転がった七味の容器を掴んだ。
「...先生は七味、使う?」
不自然なほどにカカシは会話を再開した。
「いるかせん、」
「何で俺を城に呼んだんですか」
問い詰めるような口調に自分でも驚いた。
しばらく目を丸くしたカカシは、ふっと息を吐いた。諦めたように。もうその話はやめてよ。そう言われると思った。
「…本当はさ、今まで言い寄ってきた人だれかを適当に呼べば良かったんだけどね。あの葵姫なんかおっかないし。うちの姫も結構面倒臭いじゃない。だから、イルカ先生なら上手くやってくれそうかなって。だから、イルカ先生を呼んだ。正解だったでしょ?」
うどんを箸でいじりなら。最初は確かにおかしそうに話していたのに最後は悲しそうに訊こえ、カカシの顔をジッと見つめた。だけどカカシは俯いてよく見えない。
「…そうですか」
言えば、そこでようやくカカシが目を上げて、小さく微笑んだ。
合わせるように笑いながら、泣きたくなっている自分がいた。
俺は狡い。
きりきりと胸が痛んだ。
傷つくのが怖くて、カカシの言っている事を信じようともしなかった。訊こうともしなかった。そうすれば傷つかなくてすむのだから。最初から上忍命令だと、任務だと。その名目さえあれば、自分に言い訳が出来るから。そう思った。
挙げくの果てに、こんな事を言わせてる。
イルカはカカシに見えないように唇を噛んだ。一呼吸おき、カカシに顔を上げる。
「カカシさん。俺も頑張ったでしょう?」
言えば、そうだね、とうどんを食べながらカカシが微笑んでいる。丸で自分を見ないようにしているようにも、見える。
「じゃあ、ご褒美。ください」
「いいよ。イルカ先生が欲しいって言うなら」
揚げを頬張り、まだカカシは視線はどんぶりに向けたまま。
「で、何?これから考えるの?」
イルカは鼻から息を吸い込み、静かに息を吐き出した。
「もう、決まってます」
箸をくわえたまま。カカシが顔を上げた。
「へえ、じゃあ教えて」
色違いの双眸を見つめる。
「俺はカカシさんがいいです」
間を空けて、カカシが首を傾げた。
「…何言ってるの?」
イルカは箸を机の上に置くと、背筋を伸ばす。
「カカシさんを、ください」
あなたが、欲しいんです。
カカシの指から箸が落ちる。どんぶりの中でカランと音をたてた。

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