蝶々結び①

その人を初めて見かけたのは、梅雨が明けたばかりの、からっとした晴天で雲一つない日だった。
窓から入る新緑のにおいが混じる空気が髪をなびかせた。髪紐を口にくわえ髪を一つに結んでいると扉が開いた。
「いけませんよ」
それは自分のする行動を察した台詞。部屋に入ってきた相手を見て眉を寄せる。
「何のこと?」
あっけらかんとした葵に露はもう一度首を横に振った。
「今から書道の先生が見えられます」
「宿題ならもうやったでしょ?それを渡しておけばいいじゃない」
聞く耳もたず身につけていた着物を脱ぎ、クローゼットを広げ、絵羽が模様付けされている着物を羽織る。手際よく着替えていく葵を眺めながら、露は嘆息を漏らした。
「こんな気持ちのいい日に外に出ないなんて、勿体ない」
そうでしょ?当たり前だと言う顔をされ、露は小さく苦笑いを浮かべた。
「では共の者をつけますので」
「いらない」
「それはなりませんよ、姫」
見据る露に葵は向き直した。
「私はもう16よ。子供じゃないわ」
「歳は関係ありません。それに、御言葉遣いも正してください。もっと姫らしく」
葵は肩をすくめた。
「それは気をつける。使い分けてるつもりよ」
「でしたら、」
「私だって馬鹿じゃない。でもね、露。反抗心ないまま大人になるほうが、怖いと思わない?窮屈な毎日を過ごしてたらおかしくなっちゃう」
帯を締め終わると、もう一度露の顔を見つめた。
「お昼までには戻るわ」
「....分かりました」
「ありがとう。露大好き」
諦め顔で微笑む露に葵は嬉しそうに目を弓なりにさせた。大きくつぶらな瞳がまだあどけなさを残している。出かける背を眺めて。嬉しそうに微笑む葵の成長を、露は心で感じ取り、幸せな気分になった。


葵は城下町に並ぶ店を眺めながらぶらぶらと歩く。隣にだれもいないのは気持ちがいい。きっと陰で護衛する忍びがいるのかもしれないが、それは関係ない。一人で歩く。それがいいのだ。
服やアクセサリーの店には自分と同じくらいの年頃の子が話をしながら品物を選んでいる。生まれたときから何不自由なく揃えられてきた葵には、物欲があまりなかった。ただ、ああやって友達と呼べる人間と一緒に楽しそうに話している様子は、自分には経験した事がない。どんな感じなのか。自分と同じ身分の子供と会って話はするが。いつも同じような内容で面白くもない。嬉しそうに笑い合い、時折手をつないだりもしている。想像しても実感が湧かない。不思議そうにその様子を眺めて、葵は店を離れた。
甘味屋でフルーツの乗った氷を食べる。前に一度露と食べた事があったが、美味しい。しゃくしゃくとスプーンで氷を壊し掬っていると、目の前の通りに見慣れない店があった。前来た時にはなく、店構えから新しく出した店なのだろう。店の暖簾にらーめんと書かれている。聞き慣れない名前に興味をそそられ、葵は食べながらその店を見つめる。どうやら蕎麦やうどんと同じ類の食べ物らしい。どんな味なのだろう。そう思っていると、男が一人、大きな声で挨拶をしながら暖簾をくぐった。その男の纏っている服は見覚えがあった。幼い頃から目にし、自分の城に必ずいる。木の葉隠れの里の忍びだ。だが、見た目雰囲気からして、男は自分の記憶にあるような忍びとは少しずれている気がした。それだけの理由で男を様子を見ていると、自分から見えるテーブルに腰掛け、店主と仲良さそうに会話をしている。内容までは聞こえないが、声が大きく感じる。朗らかに笑いカウンターにいる客とも話を始めた。
着ている服は確かに木の葉の服だ。だが、どうしても忍びとは思えない。出されたラーメンを前にして、子供のような笑顔を浮かべた。そして美味しそうに啜り始める。何て美味しそうに食べるのだろう。葵の目にその男は鮮明に焼き付いた。

翌週、また葵は城下町に脚を運んだ。どうしてもあの男が頭から離れない。どこをどう見ても普通の男だったと言うのに。
ラーメン屋の前を通ってみたが、その男はいなかった。
(何をしてるんだろ、私)
自分でもよく分からない行動に、内心悔いる。出かける前に露に手渡された日傘をくるくると回しながら、葵は城に戻ろうと向かって歩いた。
店の外れから南に碁盤の目のように家々が立ち並んでいる。大きな屋敷の前を通り、門が開いているのに気がついた。見れば、子供たちが包みを抱えて入っていくのが見える。何気なく中を覗いて見れば、街の子供たちだろうか。集まり部屋で机に向かって座っていた。
「イルカ先生ー!見て!」
一人の男の子が自分の半紙を持ち上げると、奥にいた男が子供の前まで来た。
「.....あ」
葵は口に手を当てていた。あの男がそこにいた。やはり先日目にした時と同じ木の葉の服を着ている。顔には鼻に一筋の傷があるが、忍びらしいと言えばその傷くらいに思えた。かがみ込み、書かれた習字を見て、何やら子供に伝えている。優しい眼差しで子供の頭を数回撫でた。少し目の下に皺が出来る。
葵の胸はとくとくと高鳴っていた。大きな目を瞬きさせながらもその男を見つめる。
イルカ先生と呼ばれた男はまた他の子供に呼ばれ、「うん?」と返事をして歩き出す。その子供の半紙を眺め、「よくできたな」と子供の髪を混ぜっ返すように撫でた。今度はその声が葵にも届いた。目を細めたイルカは本当に嬉しそうだ。
「お姉ちゃん、誰?」
その声に視線を向ける。小さな女の子が門の前に立つ葵に足を止め、不思議そうな顔をして葵を見上げていた。
「べ、別に、」
葵は慌ててその場から立ち去った。その時目に入ったのは寺子屋の看板。
またしても、葵の目にあの男の顔が残っていた。優しく笑った顔。黒い髪を一つに束ねて白い歯が見えた。
心臓が弾むように音をたてる。感じた事のない気持ちに、歩きながら思わず胸を押さえた。
あぁ、あの人と話したら、きっと楽しいのだろう。あの笑顔を自分に向けてくれたら。楽しく話せたら。

葵は毎週通った。顔を見るだけで十分だった。話したい気持ちもあるが、それは出来ない。名も知らない男に自ら声をかけるなんて。しかも身分も違う。忍びと言っても城では見かけた事もない。きっと、相応の位なのだろう。露にこっそりと訊いた話では、忍びと婚姻を結んだ親族がいた事もあったが、相当の忍びでなければそれはあり得ないと言っていた。
大名の目に止まるほどの腕の立つ忍び。彼にはそんな風にはとても思えない。
一度でいい。彼と話してみたい。もしかしたら、自分と同じように私を見てくれるのかもしれない。あの笑顔で。
淡い気持ちに様々な思いを描き、葵は顔を熱くさせた。
彼の顔を見たくて、葵は勉強に励み、週に一度は露から外出の許可をもらった。(露意外には内密だが)
何回か通えば、彼が気がついて声をかけてくれるのかもしれない。いや、勇気が出たら、挨拶をしたい。彼の声が、あの優しい朗らかな声が、訊きたい。

一ヶ月通ったある日、いつものように寺子屋の前を通る。見つめる先にいくら待ってもイルカの姿は現れない。次の週も、その次の週も。葵は耐えかねて、屋敷に入っていく子供を呼び止めた。
「こんにちは」
「...こんにちは」
見たこともない綺麗な女の人に子供は目をまん丸にして、葵をじっと見つめながら挨拶を口にした。
「あの...いつもの先生はいらっしゃるの?」
「先生?」
「えっと...イルカ...先生、」
その名前を出した途端、子供の顔がぱっと輝いた。だが、直ぐに悲しそうな顔を見せた。
「イルカ先生、もう自分の里に帰ったんだ」
「...そう」
「もともと前の小春先生が戻るまでって約束だったから。仕方ないんだけどね。...お姉ちゃんイルカ先生の友達?」
葵は訊かれて驚きに目を大きくし、すぐに頭を横に振った。
「ううん、違うわ。いらっしゃらないなら、それでいいの。ありがとう」
葵はその子供の頭を撫でた。イルカが撫でたように。子供の顔が嬉しそうに綻んだ。
「ばいばい!」
そして屋敷の中へ駆けていく。
イルカのいなくなった寺子屋を眺めて、葵はその場所を後にした。



イルカ。その名前はその時から自分の心の中に閉じこめた。忘れたくない唯一の暖かい記憶。
だから、あの時、木の葉から来た女がイルカと名乗った時、驚きを隠せなかった。
イルカと同じ黒い髪に黒い目。どこにでもある名前なのかもしれない。それでも、女がイルカと口にしただけで、言いようのない気持ちが押し寄せた。ざわざわと胸がざわめいた。




遡る事その数ヶ月前、城で騒ぎがあった。名を馳せた大名である故に敵も多い。護衛が張り巡らされているにも関わらず、敵は侵入した。木の葉の忍びに敢えなく見つかり、逃走を計ったが、その先にあった屋敷が葵の離れだった。運悪く葵は月を庭で眺めていた。突然目の前に現れた忍び。対峙した瞬間、相手は葵めがけクナイを構え飛びかかる。
刹那の出来事だった。身を固め、ぎゅっと閉じていた目を開くと、銀髪の男が立っていた。足下には自分に飛びかかろうとした男がうつ伏せに倒れている。生きているのか、それはピクリとも動かない。
覆面をし片目は額宛で隠れている。露わな青い右目が葵の視線とぶつかった。冷たい目はすぐに外される。右手に持つクナイを懐に納めると、倒れている男から離れ、葵に向かって歩いてきた。その時点で既に倒れた男は息がないのだと悟る。それだけで身体が微かに震えた。
「怪我は?」
身体が硬直し、直立したままの葵の前まで来ると、男が言った。その声は目の前で人を殺したとは思えないほど落ち着いている。
「...平気じゃ」
「無事でなによりです。中にお入りください」
手を取られ驚いた。反射的に振り払おうとした。が、指先は冷たいのに、何故か暖かくも感じる。葵はその手をじっと見つめた。手甲がはめてあり、白く長い指が見えるだけ。
不意に頭の中に蘇る。ーー確かあの人は、手甲をしていなかった。四年前の忘れかけていた記憶。今まで薄れつつあった、あの初夏の記憶。
顔を上げると、また青い目と視線が合う。
「何か」
短い問いに、葵はその忍びをジッと見つめた。
「名は何と申す」
「俺?...はたけカカシと言います」
胡乱な目を含ませながら、男が口にした名前。
知っている。その名前はよく耳にしていた名前だった。木の葉の中でも秀でた才能があり、父親が特に信頼を置いている忍び。
契りを交わすなら忍びがいいと、思っていた。たぶん、あの時から。
「カカシ」
「はい」
名を呼べば、素直に返事をする。その銀髪の男をジッと見据えた。
「わらわはそなたの子が欲しい」
心に決めた事を葵は明瞭に口にした。父親の決めた顔も知らないふぬけた男と結婚するくらいなら、優秀な忍びと結ばれたい。
それはずっと思っていた事だった。成人してから縁談の話がつきなかった。同じ身分とあれば限られてくる。政略的な縁談ばかりで、話を聞く度部屋に逃げ込んだ。
そんな結婚をするくらいなら。
カカシは葵から手を離すと、ごりごりと後頭部を掻く。葵を見つめたまま分かりやすいくらいに眉根を寄せた。
「お断りします」
控えているようだが、はっきりとした口調で、そう口にした。驚きに大きな黒い目でカカシを見つめた。
忍びであろうと、誰だろうと、この自分にそんな口の効き方で接せられた事がないのは勿論、明らか様に嫌な顔をする男に一瞬言葉を忘れた。
「すみません」
付け足された言葉。葵はカッと顔を赤らめた。
「断れるとでも思うておるのか」
「....いや、しかしですね」
「契りを結んだ相手がおるのか」
「いや、いませんよ」
「では何故じゃ」
真っ直ぐな葵の質問に困り果てた顔でうーんと唸る。傍らに屍があるのにも関わらず、姫と忍びの場違いな押し問答に、変な光景が映し出されていた。
カカシは負けん気を帯びた葵の目を見て、ため息をついた。一向に視線をそらさない葵にしぶしぶ口を開いた。
「理由は、...ま、色々です。取り敢えず、勘弁していただけないでしょうか」
「なんじゃと、」
「姫様!!」
露を含む護衛や従女が庭に走ってきた。それに気を取られた瞬間、カカシは既に姿を消していた。
「カカシ、出て参れ!」
呼びかけるもカカシの影すら見当たらない。自分の決意を侮辱された気持ちに悔しさが滲む。
「姫様、こちらへ」
露が葵の手を取り部屋へと押し入れられる。葵が木の葉へ任務と称してカカシを要請したのはその数日後だった。




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