恋と笑って⑧

「どうぞ」
従女は微笑みながら変化したイルカを案内し奥へと進んでいく。
先ほどの男は外で待機させていると、適当な説明に多少困惑していたが、従女はイルカの目をしばらく見つめた後すぐに了承した。
辻褄が合わなければまた面倒な事になりかねない。その前に気がついて良かった。
従女は入れ違いに現れた女がイルカだとは思っていない様子だった。変化が得意なのが幸いしている。
それもカカシから呼ばれた一つの理由だろう。
「カカシさんはどちらに?」
「姫様と同じお部屋です」
イルカの問いにそう答え、どうしても帰したくないと。申し訳ありません。従女が歩きながら軽く頭を下げた。
「...いえ」
謝られ恐縮しイルカは俯いた。
軟禁と言うから別の部屋かとばかり思っていた。まさか牢獄だとも考えていなかったが、同室と言う言葉に心が何故か重くなる。
イルカは黙って従女の後について歩いた。
「姫様、お着きになりました」
漸く着いたその場所は屋敷の一番奥と思われた。豪華な金箔に縁取られた扉に大桜が描かれている。向こうからの返事は聞こえなかったが、どうぞと従女はイルカに入るよう促す。
イルカはその豪華な扉を前にしてこくりと唾を呑む。一呼吸して、扉に手をかけた。
「失礼します」
扉を開ける手が微かに震え、イルカは指先に力を入れた。
部屋は、2部屋が続きになっており、窓も大きく取られていた。明るい光が部屋いっぱいに広がっている。その窓辺にカカシを見つけた。光を浴び銀色の髪は輝いている。
久しぶりに顔を見た嬉しさがイルカの頬を緩ませた。
「カカシさ、」
「そなたか」
カカシへの声は遮られた。顔を向けると、奥の部屋から淡いピンクの着物を纏った女性がイルカを見ていた。噂通り、美しい姫が目の前にいた。肌は透き通るように白く、瞳は大きく少し垂れた感じが可愛らしい。赤みがかった唇は小さく上品だ。自分と同じ髪色なのに、さらさらと言う表現が実にぴったりと当てはまるだろう。艶やかな黒い髪は背中まで伸びている。
噂以上の美しさだ。
イルカが目を見張れば、その美しい顔のまま、鼻で笑った。
「大したことないではないか」
見た目とは違う、気の強い口調で言い放った。目の前の容姿の本人から出た言葉とはとても思えない。一瞬言葉を失ったイルカを、頭の先からつま先まで眺め、やがてまたイルカの顔へ戻した。
「名を申せ」
「うみの...イルカと申します」
偽る余裕がなかった。元々男っ気のある名前でもない。彼女の黒く大きな瞳に嘘を見抜かれそうな気持ちになっていたのもある。
その黒い瞳が一瞬大きくなる。疑われたかと思った時、
「似合わぬ」
そう小さく呟く。きゅっと赤い唇を結んだのが見えた。
似合わない。初めて言われた。
まあ確かに今は女に変化しているからそうなのかもしれない。だが随分と棘のある言い方だと思いながらも、葵姫の様子を伺えば、不機嫌な様そのままに視線を外された。
「カカシには、釣り合わぬ」
続けて言われた言葉。
内心イルカは苦笑いする。
随分と酷い言い方だな。いや、当たり前か。自分はカカシの恋人としてここに来ているのだから。それにカカシと釣り合わないの十分に分かっている。自分でもそう思う。
しかし、カカシを連れて帰る為にも恋人として振る舞い、穏便に事を進めなければならない。カカシをちらと見ると、腕を組んだまま、ジッとイルカを見つめている。自分に任せると言う事だろう。
イルカは葵姫へ向き直す。ふてくされたという表現がぴったりな顔をしている。
話を進めよう。イルカは息を吐くと口を開いた。
「カカシさんと私は結婚を約束しております」
姫はそっぽを向いたまま何も答えない。
「申し訳ありませんが、こちらとしても任務の期限が過ぎておりますので、カカシさんと共に帰らせていただきます」
そこまで言ったところで、笑い声が聞こえた。背後から。
振り返るとカカシが笑っている。可笑しそうにくつくつと。
「カカシさん...?」
「...何が可笑しいのじゃ」
葵姫の言葉にも答えずただカカシは笑う。
笑い声はこの場に酷く似つかわしくないように聞こえる。一頻り笑ったカカシはやがて顔を上げた。
「違うんだよね」
そう言う、カカシは既に笑ってはいなかった。
葵姫が首を傾げた。
「違うとはどう言う事だ」
「だってこの人は俺の恋人でも何でもない」
イルカは慌てた。
「カカシさん、何言ってるんですか」
それはまずい。そんな事いったら姫への信用がなくなり、カカシを連れて帰れなるじゃないか。
詰め寄り目でそう伝えでも、カカシは静かにイルカから視線を外した。
「違う」
ふてくされている。あまりにの態度にイルカの顔が青くなった。
姫の次はあんたかよ!
心で叫び、イルカは焦りで身体に汗をかいていた。
そんな場合じゃないってカカシだって分かっているはずだ。
「...こんな時に駄々をこねないでください」
声を抑えて言えば、カカシは眉を寄せた。
「俺はね、イルカ先生を呼んだつもりですけど」
イルカは目を丸くした。
「な...っ、だから私が来たじゃないですか」
「だからさぁ....」
カカシはうんざりとした顔をしてイルカの目をジッと見る。更に距離を詰められ背丈が低くなった分カカシが大きく見え、イルカは思わず少し仰け反った。
「こっち」
そう言うのと同時にとん、とカカシの指がイルカの胸に当てられた。その指の形を見て息を呑んだ。
(この印...)
そう思った時にはもう遅かった。ぽん、煙が立つ。気がつけば元の姿に戻っていた。服装もご丁寧に至急服に変わっている。
変化を、解かれた。
頭に手を置かれ、驚いた顔のままカカシへ視線を向けた。カカシの掌が、黒髪を撫でる。
「俺が呼んだのはこっちのイルカ先生」
イルカは固まった。
これは...ちょっとマズいんじゃないか。
「どうして...こんな事を...」
更にイルカは困惑する。
こんな状況で説得は今更皆無だろ。ふざけるなよ。沸き上がる怒りと共にカカシを見た。涼しい顔をしているのが信じられない。
「あんた帰る気あるのかよ」
思わず乱暴な言葉がイルカから出ていた。
「ありますよ。だから先生を呼んだんでしょ」
「はぁ!?」
声を必死に押さえながら聞き返した。
「穏便に済ませろって綱手様が」
「それをややこしくしようとしたのイルカ先生だよ」
「俺?んな事あるわけないでしょう。じゃあなんで俺を」

ガタン、と音が聞こえイルカは顔を向けた。サイドテーブルに手をつき、葵姫の指に当たったグラスが床に落ちていた。
青い顔でただこっちを見ていた。大きな瞳を揺らしながらイルカの顔を見つめている。
そりゃそうだろう。思い人を呼べと言ったのに、こんなむさい男が姿を現したのだ。
「あの、これは...ですね.」
言い訳が必要だと、でもイルカ自身も頭が真っ白になり何も思いつかない。
姫の酷いショックを受けた顔に動揺が広がる。その表情は変わらず動かなかったが、やがて、イルカから目を反らし別の方向へ漂わせた。
あのままの。女のままでよかったのに。
そんな思いがイルカに過ぎった。
そう、葵姫を傷つけこんな顔をさせるくらいなら、女のままでよかった。
「わらわを馬鹿にしておるのか」
当たり前の台詞が葵姫から出た。顔色は青いが目に怒りが見え、カカシを睨んでいる。
「まさか」
カカシが真顔で答えた。
「俺はあなたの要望に従ったまでだ。それを求めたのは葵姫、あなただ」
「...木の葉の誇る写輪眼のカカシがこの男を思い人だと、そう言うておるのか?...笑わせるでない」
それがわらわと契りを交わせない理由じゃと?
声が震えている葵姫に慌てて弁明しようとして、姫から先ほど出た言葉にはたとする。カカシを見た。
「契りを交わしてないって...どう言う事ですか?」
カカシはあぁ、と声を漏らした。
「それは、追々説明しますよ」
「追々って...兎に角」
イルカは葵姫へ向き直った。
「違います。私はそんなカカシさんとそんな関係ではありません」
「ちょっと待ってよイルカ先生」
カカシに腕を取られた。イルカはカカシを見返す。
「離してください」
非難の色を含んだ目に、カカシは微かに眉をつり上げた。
「嫌ですよ」
「いい加減にしてください」
イルカはそう言い、カカシの腕を振り払った。
その時、カカシのその青い目に、冷たさを帯びたのが分かった。背筋に寒いものが走る。
カカシの手がにゅっと伸び、イルカの腕を再び掴んでいた。ひるんだイルカに構わず、カカシはそのままイルカを引っ張り込み奥の部屋へ連れ込まれ、白いシルクのシーツに覆われたベットへ押し倒される。気がつけば、カカシはイルカの上に跨がっていた。
ふわりと甘い花のような香りが全身を覆った。そう、葵姫のベットに押し倒されている現実にイルカの動揺をさらに煽った。
「離せ...っ」
「じゃあさっきの、否定してよ」
否定?
上から言われた言葉に顔を上げる。冷たい目がジッと自分を見下ろしていた。
何を考えてるんだ。一体俺に何をさせたいんだ。否定なんて、
「出来る訳ないでしょう...っ」
「ふーん...」
面白くないと、そんな顔をしてカカシは目を細めた。
「じゃあ、あんたは何にも関係のない他人と。こんな事するんだ」
驚きに動けなくなったイルカに覆い被さる。口布を外すとイルカの首筋に乱暴に噛みついた。驚きにイルカは首を捩った。
「....っ、やっ」
抵抗しようする腕を押さえつけるカカシの力は容赦なかった。尚もそむけた事により剥き出しになった首筋に歯を立てる。
痛みと共に走る痺れに思わず声が出そうになり、イルカは歯を食いしばった。
半ばパニックに陥っていた。城に呼び出され、男に戻され、あろう事か姫の前でカカシに押し倒されている現実。
一体何の為にこんな事を。姫に諦めてもらうにしては、やり過ぎている。それに、ここの大名は確かーー。

ドンドンとけたたましくドアが叩かれた。
「姫、如何なされた!?」
先ほどの従女ではない勇ましい男の声。イルカの身体がビクリと跳ね上がった。カカシの動きも止まり、顔が離れていく。
先ほど掠めた嫌な予感が色濃くなる。
「父上の遣いじゃ」
それを決定付けるように、葵姫が冷静にぽつりと零した。自分はカカシに押し倒されたまま。
更に危険な状況だとイルカは悟る。
以前城下町で耳にしていた噂をイルカは忘れていなかった。ここの大名は男同士での関係を毛嫌いしていると。いや、毛嫌いどころじゃない。男同士で恋仲になった自分の配下を首にしただけではなく、その首をはねたと。訊いた。有名な話だ。そこまで嫌っている大名が、自分の愛娘の契りをかわそうとした相手が、男を組み敷いていると知ったら。
木の葉の里との関係が目に見えるほど危うくなる。それどころか、カカシに危害が及ぶ事だって考えられなくはない。
カカシに押し倒されたままの格好で、イルカは顔色を無くしていた。本当にやばい状況にある事は間違いないのだ。
その間にも激しく扉は叩かれている。鍵はかかってはいるが開けて入られるのも時間の問題だ。
ふと葵姫と視線が合った。
大きな瞳が泣きそうなほど揺れている。眉を寄せたままカカシと自分を凝視していた。彼女もイルカが持っている不安はすでに頭に入っているはずだ。自分の父親の事を知らぬはずはない。
突然葵姫が自分の着物の一枚を脱ぐとまだ身につけている幾重にも重なった着物をゆるめた。白い肌が露わになる。
驚き目を見張る。それはカカシも同じだった。そのまま葵姫がイルカの腕を掴んだ。
「立って」
カカシをどかせイルカを立ち上がらせると、奥にある壁に作り付けられた扉を開く。美しい着物がズラリと並べられている。その中へ押し込まれた。
「入って、声を出さないで」
イルカが聞き返す間もなくその扉は閉められる。
途端、叩かれていた扉が開けられ男が数人入ってきたのが分かった。
「姫!どうなされ、」
「無礼者!」
入ってきたと思われる父親の遣いに葵姫が一喝した声が響いた。
「カカシとの逢瀬の最中ぞ。何を血迷うておるのじゃ」
「いや、しかし先ほど男の争う声が聞こえたので」
「馬鹿馬鹿しい。そちの勘違いであろう。露、こやつをつまみ出せ」
「や、しかし」
「しつこい!」
再び葵姫の綺麗でいて叱咤する声が響く。露と呼ばれた従女が男を連れ出し扉が閉められるのが聞こえた。
じっと聞き耳を立てていたイルカは息を呑んでその状況を見守っていた。
静かになった部屋。回避出来たと胸をなで下ろすと、イルカの入っていた扉が開かれた。
葵姫が立っている。既に着物は着直されていた。
ただ、伏せがちの目にイルカの顔を見ることはなかった。
「....あの」
「もうよい。出てまいれ」
促されイルカはそっと着物の間から身体を出し部屋を見渡す。
カカシがイルカの側によってきた。
「大丈夫?」
「え?俺は、全然...」
イルカは言いながら葵姫を見つめた。
彼女の行動が信じられなかった。葵姫からしたら、恥をかかされたのだ。それをあのタイミングで自分の父に訴えてもおかしくはない。それなのに、何故。
「葵姫、...」
「もうよい」
俯いたまま葵姫が言った。
「男を相手にする者など、興味はない。連れて帰るがよい。露」
名前を呼ぶと、扉が開き、先ほどイルカを案内した従女が顔を出した。会釈をされ、イルカも慌てて頭を下げた。カカシも会釈を返す。気がついてないと思っていたが、彼女は知っているかのような、仕草に見えた。
「こやつらの任務は終わりじゃ。裏から帰らせよ」
「しかし、」
イルカが言い淀んでいると、開いた扉からパックンが走り部屋に入ってきた。そのまま葵姫のもとまで行き、葵姫がしゃがみ込み、頭を撫でた。
ゆっくりと、何度も。
「では、はたけ様....うみの様、こちらに」
黙っていたカカシは歩きだし、肩越しに振り返った。
「パックン、行くよ」
「一日...この犬を、貸してはもらえぬか」
カカシが振り返ると、葵姫が立ち上がった。
暫く黙って葵姫を見つめていたが、やがてカカシは口を開いた。
「...どうぞ」
そう言うとカカシは再び歩き出す。その様子を見ながら、イルカもカカシの後に続いた。

裏庭で、露がカカシとイルカに向き合って深く頭を下げた。
「色々とご迷惑をおかけしました。...ですが、姫様は...時折我が儘を申しますが、とてもお優しい心の持ち主なのです」
「でしょうね」
カカシの言葉にイルカは驚き顔を向けた。
「姫にはきっと良い相手がすぐに見つかりますよ」
露はただ、深く頭を下げた。


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