口笛①
「まいどあり」
会計を済ませ暖簾をくぐる客の背中に、皿を洗いながら声をかけた。かちゃかちゃと音をたてながら、手際よく皿を洗っていく。
「イルカさん、悪いねぇ」
後ろで後片づけをしていた店主に声をかけられ、イルカは小さく微笑んで首を振った。
「何言ってるんですか。これくらい。俺一人暮らし長いんで慣れてますから」
「そうかい。ありがとう」
イルカの屈託のない笑顔につられるように、申し訳なさも含みながら店主は微笑んだ。
親父さんは少し腰が曲がっている。歳も歳なのだから、仕方ないのかもしれないが。長時間の立ち仕事は足腰に堪えるだろうに。その小さく曲がった背中をちらと眺めてイルカは皿洗いを続けた。
里の街外れにある小さな定食屋。店主が若い頃始めたというその建物は古く、至る所が傷んでいるが、それがいい味を出しているのかもしれない。歴史が刻まれた店は今でも現役に続いているのだから。
そんな店を休もうと思っていると訊いたのはつい一ヶ月前だった。アカデミー教師になって間もないイルカは、残業後、時々この店に足を運んで夕食を済ませていた。値段も安い上に懐かしい味で美味しい。年老いた店主もその妻も、夫婦共々、馴染みやすくイルカを息子のように接してくれていた。
いつものように、残業後に店に顔を出すと、店にいるはずの店主の妻がいない事に気が付いた。店主が忙しそうに動いているだけだ。
お客がいなくなった後訊けば、どうやら腰を痛めて自宅療養しているらしい。寂しさもあるのだろう、店主の力ない表情に、店の手伝いを申し出た。出来る限り。ただ、仕事の掛け持ちは許されていない。口の堅い同僚に事情を話し、しばらくは定時で上がれるよう話をつけてもらっていた。
街の外れにある店にはそこまで客は来ない。それでもイルカのように、この店の味と夫婦に会いに、常連客はやってくる。
明日の授業内容を思い浮かべながら、イルカは皿洗いを続けた。1時間目は基礎訓練だったな。その来週には小テストを行うと朝礼で言われたばかりだ。それに向けて何をやらせるべきか。その次の週は音楽のテスト。正直音楽は自分も苦手だった。新人の教師は、一通りの科目をこなさなければならない。正直、頭が混乱しいっぱいになりそうになる。
最後の皿を洗い、イルカは蛇口をきゅっと締めると同時に空いた扉の音。
(あ...あの人)
イルカは手を拭き、お茶を用意しながらながらその客を見つめた。
イルカがここを手伝うようになってから時々見かけていた。週に1、2度目にする。来る時間はまばらだが、閉店時間ぎりぎりが多い。
いつも隅の席に座り、いつも同じものを注文する。
彼はいつもフードがある長めの上着を着込んでいる。片目は閉じたままで縦に傷が入っている銀髪の男。
初めて見た時はイルカは顔を青くした。たぶん、いや間違いないだろう、男は自分と同じ。忍びだ。手甲をはめている。しかし、自分に面識もなく、向こうもそうだろう。受付も担当しているが、見たことがない。
歳の頃はたぶん自分と同じぐらい。
誰とも目を合わそうともせず、ご飯を食べると直ぐに帰る。店にいても15分いるかいないか。
里にある店である故、多少怪しかろうが、店主も他の客も誰も気に留める事はない。
イルカも同じように彼に注視しないよう気をつけていた。
湯呑とおしぼりを置けば、
「いつもの」
と前を向いたまま、直ぐに短い注文を言われる。最初、いつものが何か、分からなかった。店主に訊けば、すぐに魚定食だと教えてくれた。
仕入れる魚で毎日メニューは変わるが。今日は鰈の煮付け。店主によって手際よくすぐに用意される。
膳を置けば、口布を下ろして食べ始めた。
彼の食べ方は好きだ。早いが、箸の持ち方も綺麗で、魚の食べ方が上手い。残すこともない。
だが。イルカはその様子を店の奥で眺めながら、首を傾げた。何かが変だ。そして気が付く。箸の持ち手がいつもと逆になっている。左手で食べていた。
(...両利き...?いや、違う)
右手が包帯で指先まで巻かれていた。左手は包帯をしていなかったが、コートで見えないが、たぶん、左手も怪我をしている。端から見れば問題ないように見えるが。指で箸が上手く握れないくらいに、筋肉か、筋を損傷している。
小皿に盛られた煮豆を箸から何回か滑らせている。
彼は2日前に店に来ていた。その時は混雑してあまり目を配っていなかったが、たぶん彼は右手で食べていた。と言うことは、昨日か今日、怪我をした事になる。
忍びなんて身体が商売道具である故、怪我なんてしないのがおかしいのかもしれない。分かっている。
男の箸から白飯が、落ちる。
気が付けば、イルカは男に歩み寄っていた。幸いに他の客はさっき帰り、男以外誰もいない。
「あの」
イルカの声に、男がちらを顔を向けた。傷がある左目は瞑ったまま。青く冷えた目をしていた。
声を発しないが、なに、と目で物語っている。少しだけ男の空気に物怖じしたが、
「よかったら、手伝いましょうか」
おずおずと言った。
「いい」
短い言葉で即答され、男は食事を再開した。
が、また左手に持つ箸からは、ご飯が落ちる。
「やっぱり、手伝います」
手を、男の箸に伸ばしていた。指先が箸に触れた瞬間、
素早く振り払われ、イルカは驚きに手をビクリと硬直させ、箸は振り払った勢いで床に落ちた。
驚きに、イルカは伸ばした指をもう片方の手で握りながら男へ視線を戻した時、男は立ち上がった。上着からお金を出しテーブルに置くと、イルカを見ることもせず歩きだし、暖簾をくぐる。
「大丈夫かい?」
立ち尽くしていたイルカに店主が声をかける。イルカは小さく頷きながら、男がいたテーブルへ視線を落とした。ほとんど何も食べられていない。
俺が余計な事をしなかったら、あの人は少しでもここのご飯を食べれた。
手も付けられていない皿をぼんやり見つめながら、そう思った。
「これ、出してきますね」
今日も無事店が終わった。
イルカは後片づけを手伝いゴミを纏めると、店主に声をかける。大きなゴミ袋3つ。両手で抱えながら裏口から外に出て扉を締めた。明るい夜空にイルカは顔を上に向けた。
大きな満月が、照らしていた。ここ最近は、忙しさに月なんて見上げて見る事もなかった。イルカはゴミ袋を抱えながらしばらくぼんやり月を見上げ。その色を目に映す。
シュ、と目の前に何かが走ったように見えた。ふ、と目線を戻し、イルカは短く息を呑んだ。
上着を纏った仮面の男が、立っていた。
(ーーーえ?暗部....)
いきなりの事にイルカは驚きに青くなった。目を開きながらもその犬の面をジッと見つめていれば、男はその面を外した。
(あ......)
面の男は、店に来ていたあの銀髪の男だった。よく見れば、目の前いる男は銀髪で、面に気を取られ気がついていなかった。
そう分かったからだけで驚いている訳ではない。いつも閉じていたはずの左目はしっかり開いている。右目とは色が違う。左目は燃えるような赤い色をしている。闇に輝く色違いの双眸にイルカは目を奪われていた。
同じ歳くらいで、同業者だが、気配や風貌が、明らかに特殊だと感じてはいたが。暗部だったとは。気が付きもしなかった自分に情けなくなる。
なのに、昨日は馴れ馴れしくーー。
「もう店は閉めたの?」
問われた事に遅れて気が付く。
「ーーえ、あ、はい」
こくこくと頷けば、男はさして自分が暗部だとは気にする様子もなく、素顔を晒したまま、ふーんと小さく声を出した。
「まぁ、いいや」
ふいと背中を向けられ、
「あ、待って!」
イルカは思わず手を伸ばした。どさどさ、と持っていたゴミ袋が足下に落ちる。
男は飛躍しようとした動きを止め、振り返った。
「なに」
「あの、ちょっと。ちょっと待っててください!」
イルカはそう言うなり裏口から店に慌てて戻る。キッチンの隅に置かれていた包みを掴むと、直ぐにまた裏口から外へ出た。
男は、まだ同じ場所に立っていた。
イルカはつかつか男の前まで歩み寄ると持っていた包みを差し出した。
「これ、食べてください」
胸の前に出された包まれたものに、男は首を傾げた。
「おにぎりです」
なに、と男が問う前にイルカが答える。
「......」
「あ、中身は今日の定食で使った焼き鮭です。残り物で、申し訳ないですが」
本当は自分の夜食として、作ったものだったが。
黙ったままの男に付け加えれば、また沈黙が続く。
「あの...この前は...っ、すみませんでした」
包みを持ったまま、イルカは頭を下げた。
「余計な事をしてしまって、...あなたの、...邪魔を...」
それでも、まだ男は沈黙を保っていた。また振り払われるのだろうか。そう思った時、手が軽くなる。頭を上げれば、男が包みを掴んでいた。
「俺に?」
「あ....はい」
「そう」
イルカの手から包みが離れる。男は無表情にその包みを眺めている。
その時、ふわと血の匂いがした。昨日の怪我だろうか、それとも今日の?
「あの、...怪我は、」
「触んないで?」
男は後ろに下がり距離を空けた。警戒心を強くされ、イルカは首を振った。
「だい、じょうぶ...ですか?」
距離を保ちながら怠そうに立っている男を見つめた。
「うん。平気。死にそうな怪我だったら、こんなところに来ないから」
素っ気ないような言い方は彼の持つ口調なんだろうか。それとも敢えて使っているのだろうか。鬱陶しいと思われてるからだろうか。そんなイルカを、そこまで見慣れていない青い目が自分を映していた。一瞬その色に惹きこまれる。
「...あんたってさー」
間延びした口調に、何故だろう。身体がぴくんと反応した。
「...はい」
おずおず返事をすれば。
「変わってるよねぇ」
感心気味に、しみじみそう呟いた。
「え...?変わって...る...?」
そうなのかな。と視線を漂わせてみる。男はそれでもイルカをジッと見ていた。
「ふーん...」
ぼそりと零され視線を男に戻せば、男が後ろ手にある木に飛躍し、ふわりと音もなく、しゃがむように幹に着地する。闇に生きる忍びの動きにイルカはそれだけで見とれた。
男は包みを軽く上げる。
「これ、もらっとくから」
「は、はい!」
思わず大きな声が出ていた。しまったと顔を赤らめると、男が笑いを零した。
「それ、ちゃんと捨てなね」
指をさされ、足元に落ちているゴミ袋に目を落とした。
「ありがと」
「ーーえ、」
顔を上げた時は。既に男の姿は見えなかった。気配もない。思わず闇に目を向け気配を探るが、当たり前だが、何も感じることは出来ない。
(ーーお礼を言われた...)
ゴミ袋を拾い、抱え直しながら、姿を消した夜空に目を向ける。
男の声を、ぼんやり思い出していた。
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会計を済ませ暖簾をくぐる客の背中に、皿を洗いながら声をかけた。かちゃかちゃと音をたてながら、手際よく皿を洗っていく。
「イルカさん、悪いねぇ」
後ろで後片づけをしていた店主に声をかけられ、イルカは小さく微笑んで首を振った。
「何言ってるんですか。これくらい。俺一人暮らし長いんで慣れてますから」
「そうかい。ありがとう」
イルカの屈託のない笑顔につられるように、申し訳なさも含みながら店主は微笑んだ。
親父さんは少し腰が曲がっている。歳も歳なのだから、仕方ないのかもしれないが。長時間の立ち仕事は足腰に堪えるだろうに。その小さく曲がった背中をちらと眺めてイルカは皿洗いを続けた。
里の街外れにある小さな定食屋。店主が若い頃始めたというその建物は古く、至る所が傷んでいるが、それがいい味を出しているのかもしれない。歴史が刻まれた店は今でも現役に続いているのだから。
そんな店を休もうと思っていると訊いたのはつい一ヶ月前だった。アカデミー教師になって間もないイルカは、残業後、時々この店に足を運んで夕食を済ませていた。値段も安い上に懐かしい味で美味しい。年老いた店主もその妻も、夫婦共々、馴染みやすくイルカを息子のように接してくれていた。
いつものように、残業後に店に顔を出すと、店にいるはずの店主の妻がいない事に気が付いた。店主が忙しそうに動いているだけだ。
お客がいなくなった後訊けば、どうやら腰を痛めて自宅療養しているらしい。寂しさもあるのだろう、店主の力ない表情に、店の手伝いを申し出た。出来る限り。ただ、仕事の掛け持ちは許されていない。口の堅い同僚に事情を話し、しばらくは定時で上がれるよう話をつけてもらっていた。
街の外れにある店にはそこまで客は来ない。それでもイルカのように、この店の味と夫婦に会いに、常連客はやってくる。
明日の授業内容を思い浮かべながら、イルカは皿洗いを続けた。1時間目は基礎訓練だったな。その来週には小テストを行うと朝礼で言われたばかりだ。それに向けて何をやらせるべきか。その次の週は音楽のテスト。正直音楽は自分も苦手だった。新人の教師は、一通りの科目をこなさなければならない。正直、頭が混乱しいっぱいになりそうになる。
最後の皿を洗い、イルカは蛇口をきゅっと締めると同時に空いた扉の音。
(あ...あの人)
イルカは手を拭き、お茶を用意しながらながらその客を見つめた。
イルカがここを手伝うようになってから時々見かけていた。週に1、2度目にする。来る時間はまばらだが、閉店時間ぎりぎりが多い。
いつも隅の席に座り、いつも同じものを注文する。
彼はいつもフードがある長めの上着を着込んでいる。片目は閉じたままで縦に傷が入っている銀髪の男。
初めて見た時はイルカは顔を青くした。たぶん、いや間違いないだろう、男は自分と同じ。忍びだ。手甲をはめている。しかし、自分に面識もなく、向こうもそうだろう。受付も担当しているが、見たことがない。
歳の頃はたぶん自分と同じぐらい。
誰とも目を合わそうともせず、ご飯を食べると直ぐに帰る。店にいても15分いるかいないか。
里にある店である故、多少怪しかろうが、店主も他の客も誰も気に留める事はない。
イルカも同じように彼に注視しないよう気をつけていた。
湯呑とおしぼりを置けば、
「いつもの」
と前を向いたまま、直ぐに短い注文を言われる。最初、いつものが何か、分からなかった。店主に訊けば、すぐに魚定食だと教えてくれた。
仕入れる魚で毎日メニューは変わるが。今日は鰈の煮付け。店主によって手際よくすぐに用意される。
膳を置けば、口布を下ろして食べ始めた。
彼の食べ方は好きだ。早いが、箸の持ち方も綺麗で、魚の食べ方が上手い。残すこともない。
だが。イルカはその様子を店の奥で眺めながら、首を傾げた。何かが変だ。そして気が付く。箸の持ち手がいつもと逆になっている。左手で食べていた。
(...両利き...?いや、違う)
右手が包帯で指先まで巻かれていた。左手は包帯をしていなかったが、コートで見えないが、たぶん、左手も怪我をしている。端から見れば問題ないように見えるが。指で箸が上手く握れないくらいに、筋肉か、筋を損傷している。
小皿に盛られた煮豆を箸から何回か滑らせている。
彼は2日前に店に来ていた。その時は混雑してあまり目を配っていなかったが、たぶん彼は右手で食べていた。と言うことは、昨日か今日、怪我をした事になる。
忍びなんて身体が商売道具である故、怪我なんてしないのがおかしいのかもしれない。分かっている。
男の箸から白飯が、落ちる。
気が付けば、イルカは男に歩み寄っていた。幸いに他の客はさっき帰り、男以外誰もいない。
「あの」
イルカの声に、男がちらを顔を向けた。傷がある左目は瞑ったまま。青く冷えた目をしていた。
声を発しないが、なに、と目で物語っている。少しだけ男の空気に物怖じしたが、
「よかったら、手伝いましょうか」
おずおずと言った。
「いい」
短い言葉で即答され、男は食事を再開した。
が、また左手に持つ箸からは、ご飯が落ちる。
「やっぱり、手伝います」
手を、男の箸に伸ばしていた。指先が箸に触れた瞬間、
素早く振り払われ、イルカは驚きに手をビクリと硬直させ、箸は振り払った勢いで床に落ちた。
驚きに、イルカは伸ばした指をもう片方の手で握りながら男へ視線を戻した時、男は立ち上がった。上着からお金を出しテーブルに置くと、イルカを見ることもせず歩きだし、暖簾をくぐる。
「大丈夫かい?」
立ち尽くしていたイルカに店主が声をかける。イルカは小さく頷きながら、男がいたテーブルへ視線を落とした。ほとんど何も食べられていない。
俺が余計な事をしなかったら、あの人は少しでもここのご飯を食べれた。
手も付けられていない皿をぼんやり見つめながら、そう思った。
「これ、出してきますね」
今日も無事店が終わった。
イルカは後片づけを手伝いゴミを纏めると、店主に声をかける。大きなゴミ袋3つ。両手で抱えながら裏口から外に出て扉を締めた。明るい夜空にイルカは顔を上に向けた。
大きな満月が、照らしていた。ここ最近は、忙しさに月なんて見上げて見る事もなかった。イルカはゴミ袋を抱えながらしばらくぼんやり月を見上げ。その色を目に映す。
シュ、と目の前に何かが走ったように見えた。ふ、と目線を戻し、イルカは短く息を呑んだ。
上着を纏った仮面の男が、立っていた。
(ーーーえ?暗部....)
いきなりの事にイルカは驚きに青くなった。目を開きながらもその犬の面をジッと見つめていれば、男はその面を外した。
(あ......)
面の男は、店に来ていたあの銀髪の男だった。よく見れば、目の前いる男は銀髪で、面に気を取られ気がついていなかった。
そう分かったからだけで驚いている訳ではない。いつも閉じていたはずの左目はしっかり開いている。右目とは色が違う。左目は燃えるような赤い色をしている。闇に輝く色違いの双眸にイルカは目を奪われていた。
同じ歳くらいで、同業者だが、気配や風貌が、明らかに特殊だと感じてはいたが。暗部だったとは。気が付きもしなかった自分に情けなくなる。
なのに、昨日は馴れ馴れしくーー。
「もう店は閉めたの?」
問われた事に遅れて気が付く。
「ーーえ、あ、はい」
こくこくと頷けば、男はさして自分が暗部だとは気にする様子もなく、素顔を晒したまま、ふーんと小さく声を出した。
「まぁ、いいや」
ふいと背中を向けられ、
「あ、待って!」
イルカは思わず手を伸ばした。どさどさ、と持っていたゴミ袋が足下に落ちる。
男は飛躍しようとした動きを止め、振り返った。
「なに」
「あの、ちょっと。ちょっと待っててください!」
イルカはそう言うなり裏口から店に慌てて戻る。キッチンの隅に置かれていた包みを掴むと、直ぐにまた裏口から外へ出た。
男は、まだ同じ場所に立っていた。
イルカはつかつか男の前まで歩み寄ると持っていた包みを差し出した。
「これ、食べてください」
胸の前に出された包まれたものに、男は首を傾げた。
「おにぎりです」
なに、と男が問う前にイルカが答える。
「......」
「あ、中身は今日の定食で使った焼き鮭です。残り物で、申し訳ないですが」
本当は自分の夜食として、作ったものだったが。
黙ったままの男に付け加えれば、また沈黙が続く。
「あの...この前は...っ、すみませんでした」
包みを持ったまま、イルカは頭を下げた。
「余計な事をしてしまって、...あなたの、...邪魔を...」
それでも、まだ男は沈黙を保っていた。また振り払われるのだろうか。そう思った時、手が軽くなる。頭を上げれば、男が包みを掴んでいた。
「俺に?」
「あ....はい」
「そう」
イルカの手から包みが離れる。男は無表情にその包みを眺めている。
その時、ふわと血の匂いがした。昨日の怪我だろうか、それとも今日の?
「あの、...怪我は、」
「触んないで?」
男は後ろに下がり距離を空けた。警戒心を強くされ、イルカは首を振った。
「だい、じょうぶ...ですか?」
距離を保ちながら怠そうに立っている男を見つめた。
「うん。平気。死にそうな怪我だったら、こんなところに来ないから」
素っ気ないような言い方は彼の持つ口調なんだろうか。それとも敢えて使っているのだろうか。鬱陶しいと思われてるからだろうか。そんなイルカを、そこまで見慣れていない青い目が自分を映していた。一瞬その色に惹きこまれる。
「...あんたってさー」
間延びした口調に、何故だろう。身体がぴくんと反応した。
「...はい」
おずおず返事をすれば。
「変わってるよねぇ」
感心気味に、しみじみそう呟いた。
「え...?変わって...る...?」
そうなのかな。と視線を漂わせてみる。男はそれでもイルカをジッと見ていた。
「ふーん...」
ぼそりと零され視線を男に戻せば、男が後ろ手にある木に飛躍し、ふわりと音もなく、しゃがむように幹に着地する。闇に生きる忍びの動きにイルカはそれだけで見とれた。
男は包みを軽く上げる。
「これ、もらっとくから」
「は、はい!」
思わず大きな声が出ていた。しまったと顔を赤らめると、男が笑いを零した。
「それ、ちゃんと捨てなね」
指をさされ、足元に落ちているゴミ袋に目を落とした。
「ありがと」
「ーーえ、」
顔を上げた時は。既に男の姿は見えなかった。気配もない。思わず闇に目を向け気配を探るが、当たり前だが、何も感じることは出来ない。
(ーーお礼を言われた...)
ゴミ袋を拾い、抱え直しながら、姿を消した夜空に目を向ける。
男の声を、ぼんやり思い出していた。
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