口笛③

「へぇ、もういいのか」
イルカの話を訊いて同僚が顔を上げた。イルカを写すその目は緑色、言い方を変えれば翡翠色。黒目にあたる場所中心から外にに、濃い色が広がっている。透き通る翡翠色はなんとも綺麗だ。見たことがないけれど、透き通った深海には、こんな色が広がっているんじゃないのか、とイルカは想像した事がある。
「あぁ。もう奥さんも店に戻ってきてな。親父さんも嬉しそうだった」
イルカはそう答えると、隣に腰を下ろした。
「そっか。良かったな」
屈託のない笑顔をアオシに見せられ、イルカは素直に微笑んで頷く。
同い年の彼は、アカデミーで同じ年に入学した。が、自分より頭一つ、いや二つ以上才能は飛び抜けていた。よって卒業は彼の方が勿論早く。卒業し、直ぐ中忍になった事までは知っていたが、そこからはぴたりと消息を絶った。だから、アカデミー教師として顔を合わせた時は、驚いた。
戦場で負った傷が元で上忍になるのを諦め、教師の道を選んだのだと、一緒に飲みに行った時に初めて訊いた。
勿体ないとは思うが、彼は実際、教師としても才能に溢れていた。常に冷静な考えを持ち、頭も切れる。
昔からそうだった。体力勝負で熱血の自分とは正反対だが。正反対だからこそ、馬が合う、と言うのだろうか。
同期の中でも一番に信頼があり、親友と、呼ぶに値する存在で。たぶんアオシもそう感じているのだろう。
そんな彼だから、今回の店の手伝いの件も一番に彼に相談を持ちかけた。

「今までありがとな」
親父さんの店の手伝いの為とは言え、色々迷惑をかけてしまったのは事実。こっそりとバイトを始めるなんて、他のヤツには言えなかった。
「なんの、なんの」
当たり前ですよ、友達なんだから。とテストの答案に目を落としながら。あっけらかんと言う。
友達なんだから。
友としての空白期間があったと言うのに。素直に嬉しくなり、イルカは微笑んだ。
「今度奢る」
イルカが言うと、アオシは顔を上げる。
「マジ?」
期待いっぱいの顔をする。
「おう、マジ」
アオシが目を細めて笑った。
「じゃあ給料日に。焼き肉」
意地悪な顔をされ、イルカは鼻を鳴らした。
「まかせとけ」
片手を上げガッツポーズを見せる。
何か言いたげな目で、嬉しそうにアオシがイルカを見つめている。イルカは片腕を下げアオシを見た。
「...何だよ」
「嬉しそうだな」
「え、まぁ、そりゃあ俺も焼き肉好きだし」
「違う違う。そうじゃなくって」
ペンを机に置いて、肩肘をついてイルカを見る。
「女でも出来た?」
「...へ?あ、いや....え?何で?」
突然言われて、焦ったイルカは顔を引き攣らせた。
アオシのもう片方の手が、イルカを指さした。
「それ、キスマークだよな」
「え!?」
思わず首もとを両手で隠すと、もっと下、と指で言われる。アンダーウェアから見えるか見えないか。ぎりぎりの場所につけられたそれを、イルカは隠すように服を上に引っ張った。それを見てアオシが声を立てて笑うと、ほかの職員の視線に肩を軽く竦めながら、固まったままのイルカに視線を戻した。
「悪りぃ。そんな驚くと思わんかった」
「いや.....」
顔を真っ赤にさせ口ごもるイルカに、アオシは眉を下げた。
「どんな子?」
「ーーえ?」
「お前が好きになるんだから、きっと良い子なんだろうな」
「.........」
また固まったイルカにアオシが首を傾げた。
「....イルカ?」
「あ...うん」
「良かったな」
アオシは嬉しそうに笑顔を見せる。再び答案に視線を戻し、採点を再開させると、予鈴の鐘が鳴る。
「あー、1限目授業入ってたわ」
そう言って、アオシは教材を手に持つと立ち上がる。片手を上げ職員室の扉に向かって歩き出す。
アオシを目で追いながらもそこで漸く深く息を吐き出し、首もとを掌で擦った。
(....参った)
良い子。良い子って言うのはちょっと違うって言うか。思わず肯定してしまった。
(馬鹿、馬鹿)
職員室を出て、廊下を歩くアオシの後ろ姿を見つめた。
自分より少し長身で細身の彼は、少しだけカカシと似てる。
そこまで思って、イルカは頬を赤く染めた。バカバカしい。シルエットだけでカカシを思い出すなんて。
(違う違う、そんなんじゃない)
一人顔を顰め赤ペンを手に持った。
たぶん、後ろ姿でそう思ってしまったのは。アオシもカカシも。戦場の最前線にいたからなのかもしれない。言葉では言えない空気が、身体を包んでいる。そんな、気がする。
顔立ちだって全然違うし、しゃべり方もーー声も。
昨夜、耳奥に囁かれた低い声を思い出し、熱くなる頬に眉を寄せる。また首もとに手を当てた。
その時きっとつけられたであろうキスマーク。
(あのやろう)
でも責められない。だって、ーー嫌じゃないんだから。





店をやめてから、カカシはイルカの家に来るようになった。カカシが自分と同い年だと知ったのは、名前を教えてもらった時だった。近い歳だとは思っていたが。若くして暗部に身を置くカカシの経験値を想像してみるが、遠く及ぶ事は出来ない。写輪眼として名を馳せている忍びだと知ったのもその時だった。驚きはしたが、それは今となっては気にならない。それ以前にあの時に、彼を受け入れた時点で、自分の中で彼が同姓であろうが、暗部であろうが、それはどうでもいい事で、拘る事ではないとそう思ったからだ。
それ以上に惹かれている。
身体を合わせるのだって、受け入れ許してしまったのだから、自分でも驚きだ。今までの自分だったら考えられない事実だ。
「これってさぁ、運命だと思うんだよね」
カカシはイルカに肌をくっつけながら、そう言った。
「恋に墜ちるなんて言うけど。ホントそう。俺、アンタにゾッコンだもん」
冗談のような言い方をするくせに、目はとろんと溶けるように緩ませていた。

「墜ちるって....ありえねぇよ」
そんな歯が浮くような台詞をさらっと言いのけるカカシに呆れはしたが。つっこめなかったのも事実。
イルカは火照る頬に息を吐き出し、小さく呟いた。
(のろけるのはいい加減よそう)
茹だってきた頭を何とかしようと、珈琲を買いに行くために、イルカは赤ペンを置き立ち上がった。




カカシは。思ったよりも甘ったれだ。
そして、自分の想像よりも遙かを軽く、飛び越える。暗部だからと、私生活にも身を潜める事があるのかと思ったが。口布以外は普通に晒し、買い物も散歩も、呑みにだって、行く。
「イルカ~、こっち。こっちきて」
台所で皿を洗っているイルカの背中に、間延びした声がかかる。
「今は無理ですって」
と言えば、ぱんぱんと音が聞こえた。手を動かしながらも振り向けば、ごろんと横になったカカシが肩肘をついたまま、もう片方の手で床を叩いている。催促するように。夕方任務から帰ったカカシは疲れているのは分かるが。
「ねぇ、イルカ」
首を捻ってこっちを見た。色違いの目がジッとイルカを見つめる。数ヶ月だが、自分の方が先に産まれてるってのに、大人びた目は、生まれつきなんだろうか。それとも、死線をくぐり抜けてきた中で生まれたものなのだろうか。
(って言ってもやってる事は子供っぽいんだよな)
イルカは仕方ないと、手を止め蛇口を捻り水を止める。タオルで手を拭くとカカシの近くに正座した。
「きましたよ」
カカシはずりずりと身体を動かし、頭をイルカの腿の上にぽすんと乗せた。
「寝るんですか?」
訊けば、んーと曖昧にカカシは答える。イルカはそっと髪に触れた。
銀色の髪は思ったよりも柔らかかった。寝癖のようなぼさぼさの髪をとくように指を滑らせると、カカシが身じろぎし、顔を上げた。
「....する?」
イルカの指に自分の長い指を絡ませる。
「やです」
ふいと顔をそむければ、カカシは可笑しそうに微笑んだ。
「アンタはいつもいやって言うよね。たまにはしたいって、素直に言ったら?」
「言うわけないだろっ」
「いたっ」
拳で頭を軽く叩く。いっつもこれでカカシのペースに乗せられる。ふん、と鼻から息を出しカカシを見る。
「せんせー痛い」
笑いながら、イルカを見上げる色違いの目が悪戯に細くなった。猫のような目だとも、思う。
赤い左目は、蠢いているようで蠢いてないようで。カカシの掌がイルカの目を塞いだ。
「あんま見ないで?」
上半身を起こしてカカシの顔が近づくのが分かる。啄むようにキスをされ、舌がゆっくりと自分の口に侵入してくる。同意を現すように舌を絡ませると、カカシは目に見えて調子に乗る。生き物のように動いて、熱くて。頭が痺れるくらいに、優しく溶かす。
怖いくらいに、優しくて。それはイルカの胸を簡単に締め付けた。
何でカカシは自分を選んだのだろう。何もかも平凡過ぎる自分に、惹かれる所はあるんだろうか。
暗部にいると、普通の人に寄り添いたくなったり、ただ、温もりが欲しかったからとか。
言い訳みたいのを探してる自分が嫌になる。
好きになる速度って。みんな違うんだろうか。まるで空の上から落ちているみたいに、早い気がしてーー。あぁ、それってカカシが言った恋に墜ちるって、そう言う意味なのかな。
「....なに考えてんの」
「え?」
思考が遮られ、唇を離したカカシがイルカを覗き見ていた。
「なんか変な事考えてるでしょ」
そして自分はきっと、わかりやすい。見抜かれやすい精神構造なのだ。それを容易く見抜くカカシに苦笑した。
「キスが上手いなぁって」
「ふぅん」
カカシはその返事に不満そうに呟くと、唇を尖らせてむくりと起きあがった。上衣を脱ぐ。白く逞しい上半身がイルカの心音を速まらせる。
「まぁ、いいよ。あとは身体に訊くから」
口の端をゆっくりと上げ、微笑んだ。




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