口笛⑥

カカシは俺をどきどきさせる。
誰よりも。
それは初めてで。きっと、生まれてから初めてで。

今まで。少しずつ、うまくいかない事があっても。
気にしないようにして生きてきた。
仕方がないと、受け入れる事で。解消していたのかもしれない。
家族の事だって、友達の事だって。なんだって。

だから、きっとーー恋人の事も。



夏の雨は、変に暖かい。
あの10歳だったあの雨の日。
アカデミーの授業が終わって、一緒に帰ろうとアオシを探した。
教室にいなくて。廊下にもいない。そこから廊下をぶらぶら歩いていたら、窓からアオシの姿を見つけた。
名前を呼ぼうと窓枠に駆け寄り。
ーーでも、あの女の子と一緒に歩いてるのに気が付いたら、声なんて出せなかった。
一つ傘の中に、2人がいた。
アオシの横顔はすごく嬉しそうで。頬を赤くしながら笑ってた。
隣で一緒に笑っているあの子の笑顔は、初めて見るような。目を細めて恥ずかしそうに微笑んだ。
2人でくすくす笑い合って。
あの雨の匂いが、どうしても忘れられない。
蒸し暑い。雨の匂い。雨から香る草花の匂いは、どうしても、胸を苦しくさせる。
そんなの忘れていたと、思っていた。

霧雨は、音なく地面を濡らしていく。イルカの髪も身体も。
そんなのどうでも良かった。
雨とか、風が出てきたとか。明るかった視界がどんどん暗くなり、陽が落ち夜になっていく事とか。雨に濡れた服の重たさも。
どうでも良かった。

嘘だって言って欲しい。
そんな事ないって。
アスマさんの勘違いだって。

訊きたくても、カカシは任務に出て里にはいない。いつ帰ってくるのか、訊いた気がするのに、頭に浮かばない。
気が付けば、あの神社に自分はいて。石段に座って身体で雨を受けながら、遠目に写るあのお店を見つめていた。

雨の匂い。
冷たくなった身体に、その匂いが勝手に入ってくる。
夜になった神社に、訊こえるのは、雨の音と遠くに訊こえる蛙の鳴く声。

ーー誰か嘘だと言って。

それだけが静かに心にゆっくりと回っていた。

嘘だと。

夢でもいい。

何でもいい。

ここで寝て、起きたら。ーー夢で終わってるとか。

「イルカ?」

寒さで、微かに震えながら、イルカは座って身体を両腕で包んでいた。
雨みたいに振ってきた声に、反射的に顔を上げる。視線を静かに向けると、雨除けのコートを纏ったカカシが立っていた。頭に被っていたフードを外す。
銀色の髪は雨に濡れ始めるが、相変わらず綺麗に輝いている。
「気配あったから来てみたら、本当にいた」
驚いた顔を見せた後、カカシはふっと嬉しそうに顔を緩ませた。
「何やってるの?こんな場所で」
なつかしーんだけど、と言うカカシを、ただ、ジッと見つめる。

ねえ、カカシ。

嘘だって言って。

呆けたような顔で、身体を自分の腕で抱いたまま何も反応しないイルカに眉を寄せ、ずぶ濡れになっている全身と、イルカの顔色と表情に更に眉を顰めた。
震えている身体を、イルカの生気のない目を。暫く見つめる。
「...イルカ、....ここにいつから...いたの?」
「カカシ」
身体の震えはとまらないのに、被せるように出た自分の声は、驚くほどに落ち着いていた。
「本当の事教えてください」
大粒の雨が髪に落ち、イルカの頬を滑っていく。
「これだけでいい。本当の事、教えてください。他は何を言ってもいいから。嘘つかないで。俺に本当の事言って」
「俺イルカに嘘ついた事なんてないじゃない、」
「アオシと、何か、あったんですか」
カカシの言葉が、イルカの台詞にプツンと途切れた。微かに開いたままのカカシの口は、そこから何も出てこない。
イルカの発した「何か」にイルカに以前話した事情が含まれていない事なんて、この雨の中にいるイルカを見たら、一目瞭然だった。
「....ね」
イルカが呟く。
カカシの目が、真っ直ぐに、答えをひたすら待っているイルカに向けられている。
「.....ね、....カカシさん....」
小さく、懇願するように。イルカはまた呟いた時、カカシの目が、イルカから外された。
何処を見るでもない。暗闇のどこかに視線を動かす。
重くのしかかる何かに胸をつぶされそうで、イルカは口を開いた。
「言ってください」
イルカはぎゅっと自分の腕に触れていた指に力を入れる。
嘘だって。
縋る言葉はそれしかなくて、イルカはカカシを見つめる目を緩ませた。微かに微笑みながら、
「言って」
そう言った時、カカシがため息混じりに掌で顔を覆った。
受け入れたくないその仕草に、目眩がするのに。見たくないと脳が拒否するのに、カカシから目が離せない。カカシの手が動き、微かに表情がイルカに写る。こっちを見ないまま、カカシは口を開いた。

「ごめん」

ごめんって、なに?
イルカの目に写るカカシがぼやける。

「一回だけ」

そこから頬を流れるのが雨なのか、涙なのか。
それはもうよく分からない。

どうして。

カカシの顔がよく見えなくなって、イルカは目をごしごしと擦った。

どうして、あいつなんだ。

「イルカ」
「何で....、何で!」
イルカの声が神社に鈍く響く。
「何であいつなんですか。何で、何で!」
立ち上がったイルカはカカシに詰め寄っていた。完全に崩れ落ちたものに必死にしがみつくものなんて何もない。
カカシは言われるままに苦しそうにイルカを見つめている。
事実だと受け入れられない。
今までそうしてきたように。すればいいはずなのに。
どうしても、頭が、身体が、受け入れられない。
「....どうして....言ってくれなかったんですか...」
その言葉に一回、カカシは視線を下に落とし、また直ぐイルカを見た。
「言う必要なかった」
「ないはずがないじゃないですか....」
「ないよ」
静かなカカシの声にイルカは力を込めて両腕でカカシを突き飛ばした。
ドンと、音がし、子供のようなイルカの行為をカカシは受け止め、勢いよく体制を崩し、地面に尻餅を付く。
雨に顔を濡らしながら、イルカを見上げた。
「俺にはあった!あったんです!!」
そこから背中を見せ走り出す。雨に打たれながら、必死に走り、神社から、カカシの視界から、姿を消した。

カカシでいっぱいだった夏。
それは儚くも、夏の雨と一緒に流れ、崩れた。









「お前.....マジかよ」
突き飛ばされたまま、雨に打たれているカカシにかけられた声。
カカシがゆっくりと顔を向ければ、傘を差したアスマがコンビニの袋を手に、煙草をくわえながら立っていた。
黙ってカカシは立ち上がると、頭を掻く。
「わりい。俺、なんか...マズい事、あいつに言っちまった」
神妙な顔をしたまま言うアスマに、カカシが小さく頭を振った。
「別に、いいよ」
だって、きっと。こいつが言わなくても、きっとどこかでーーイルカは気が付いた。のかもしれない。
「でもお前...何で....」
その言葉だけで、意図を理解したのか。カカシはチラとアスマを見て。そこからため息を零した。
「あん時は...そういう気分だったんだ」
分かるでしょ、と言われ、アスマは渋面を作り煙草を奥歯で噛んだ。
「噂は本当だったって事か」
「違うよ」
即答され、それ以上疑いはしないが。アスマは眉を寄せたまま、カカシの目を見た。いつも以上に冷えた色に見える。
「あいつもそうだった。お互い身体を利用しただけ」
そう。あの戦場は環境も戦況も酷く、過酷だった。仲間も多く死に、士気は下がる一方で。その状況で他の何かに縋るやつも出てきていたのは確かだった。ある意味、それがあたり前のようだった。
だから、カカシを、相手を責める事は出来ない。
あの戦場を思い出し、アスマはいい知れない気持ちのムカつきに嘆息しながらカカシへ顔を向けた。
カカシは。いつものしれっとした口調だが、歯切れの悪さがアスマにも伝わっていた。カカシの思った以上の想いに、無表情を装ってはいるが沈痛な面もちに、アスマはイルカが走り去った方向へ顔を向けた。
「...追わねえのか」
カカシは間を置いて、濡れた頭をくしゃくしゃと掻く。
「.........無理....」
小さく答えたその声は、アスマには雨でよく訊こえなかった。
初めて見せるカカシの表情に。ただ、眺めるしかなかった。
カカシはジッと耐えるようにイルカの座っていた石段を見つめた。

 何であいつなんですか

黒い瞳から、涙が、雨のように零れていた。
カカシの身体はとうに冷え切っているが、イルカはもっと寒かったのだろう。
イルカは唇が。顔が。身体が。指が。全て、震えていた。
カカシはそこで眉根を寄せる。
心臓を鷲掴みされたように、苦しい。痛い。
ーーぶっ壊れそう。

何で

何でって。
それを説明したら、戻ってきてくれるの?
イルカ。

霧雨から大粒になった雨は、カカシの身体を激しく打ち付けていた。


NEXT→
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。