口笛⑦
カカシと出会って、カカシと一緒におにぎりを食べたあの夜から、運命があるのなら、きっと動き出していたのだろうと、思った。
寝ている時に起こされたって、眠いと怒りながらも心は躍っているし、夏の西日が照らされた部屋で、汗かき西瓜を食べながら暑さでぼおっとした頭は、夢の中にいるみたいに、心地よかった。
いい気持ちで、なくならないで欲しいと思った。
咳込みながら、資料室で一人書類の整理をしていた。熱は下がらないが、動けない程でもない。ただ、生徒にはうつしたくないからと、自分から申し出てアカデミーの授業は休んでいる。受付の雑務だけだが。家で寝ているより、こうして仕事をして頭を動かしている方が、よっぽど楽だった。
あの夜の翌日。朝早く。カカシは家に来た。
自分はドアを開ける事が出来なかった。体調を崩しているから帰ってくれと、ドア越しにそれだけ伝えたら。カカシはそのまま帰っていった。
怒って無理矢理ドアから入ってくるか、窓から入ってくるかするのかと思ったが。
会っても。熱が出てぼんやりした頭で何も考えれる事は出来なかったし。カカシが何を言っても頭に入ってこなかったんだと思う。
布団に身体を沈め、泥のように眠った。
だから、今日は昨日より調子がいい。
整理し終わった書類の束を紐で括り、箱の中に入れる。頼まれた量のまだ3分の1くらいか。
イルカは残っている書類の束を眺めて、何か飲もうと席を立った。部屋を出て廊下に出たところで、名前を呼ばれる。顔を上げれば、アオシが笑顔でイルカを見ていた。
「イルカ、先輩に訊いたら風邪で休んだって訊いてたけど、今日はここで仕事なのか」
緑の瞳が優しそうに微笑んでいる。それは、目の前まで来て、ぼんやりした顔のイルカに、心配そうな表情に変わる。
「...お前、まだ体調良くないんだろう。無理しないで休めば良かっただろ?無理したら余計風邪をこじらせて、」
「カカシから訊いた」
「...え?」
よく訊きとれていなかったのか、突然名前が出たら内心驚いているのか、それはどうでも良かった。
少し表情が固くなったままのアオシを静かに見つめた。
「...訊いたって」
「訊いたんだ」
強い口調で言い切るように。逸らさずに見つめた先の緑色の目が大きくなる。
何で、言わなかった。
イルカは語らずとも心で思い、目でそれを表して。ただ、それ以上アオシに何も言いたくなかった。
けほ、と咳が出た口に手を当てると、アオシが片手をイルカに伸ばした。
「イルカ、違う」
「違わないよ。何も」
否定の言葉にアオシの手が止まる。イルカはアオシをジッと見つめた。
「違わない」
突き放すように言えば、アオシの顔が青くなったのが見えた。
イルカは歩き出す。立ち尽くしたままのアオシの横を通り過ぎて、給湯室に向かう。
アオシは、イルカを追って来る事はなかった。
やっぱり。
イルカは麦茶を自分のマグカップに次ぎながら、思う。
それ以上何も言って来ないのは、認めたからだ。
カカシもアオシも。
だから、俺の言った通り。何も違わないんだ。
それがどんなに惨い事なのか。
間にいた自分がなんと滑稽か。
そんなの、きっと。自分でなければ分からない事なんだろう。
麦茶は濃いのに、何も味がしない。透明の水のようだ。こくこくとそれを飲み干せば、冷たい液体に喉が潤ったのが分かった。
グラスから口を離せば、またげほげほと咳が出る。
イルカマグカップを洗うと、書庫室へ戻った。廊下には、もうアオシの姿はなかった。
頭が痛い。
ずっと、ずっと、頭が、痛かった。
「イルカ」
昼休み食欲はなかったが、何か腹には入れなくてはいけない。持参したおにぎりを、アカデミーの裏庭でベンチに座り、一人食べていた。
名前を呼ばれ、反応するかのように食べる手を止めて顔を上げれば、明るい木漏れ日の下で、カカシが立っていた。あの雨の夜以来のカカシは、少し疲れているようにも見える。
あぁ、この人は夜が似合うな。
それにまぁ、なんでこんな暑いのに、着込んじゃって。
薄手のフード付きのパーカを着ているのは、きっと暗部の印を隠す為だと分かっているが。
意味なく、カカシを見てぼんやりと思い、ただ、そこから視線を逸らすように下へ視線をずらせば、カカシが目の前まで歩いてきた。
「イルカ」
落ち着いた、優しく呼ぶカカシの声。それに素直にまた、イルカは顔を上げた。カカシがジッと座っているイルカを見下ろしている。微かに眉間に皺がよっている。
顔を上げただけでそれ以上反応しないイルカに、カカシはイルカの座るベンチの横に座った。
そこからカカシはまたジッとイルカの目をのぞき込んだ。
けほ、と咳を出して、イルカは自分の口に当てる。
「...風邪、うつっちゃいますよ」
「うつってもいい。イルカ」
こっちを見て、とカカシの手がイルカの頬に添えられた。俯いていた目を、ゆら、とカカシに向けると、視界からカカシの顔が消える。
気が付けば、きつく抱きしめられていた。力があまり入っていないイルカの身体をぎゅう、とまた力を込める。
「もう、口も利いてくれないのかと思った」
耳元で、消えそうな声でカカシが呟いた。太陽の匂いと一緒に、ふわとカカシの匂いが香る。普段から匂いなんてない人だが。イルカにはそれは嗅ぎ分けられた。
その匂いを軽く吸い込み、イルカは抱きしめられるままに目を瞑る。
気持ちがいい。このまま寝てしまいたい。
場違いな気持ちにゆらゆらと身を任せていると、身体を離して、瞼に、頬に軽く唇を落とした。
それも黙って受け入れる。
「イルカ」
なんて悲しい声で呼ぶんだろう。
胸が痛くなってもおかしくないのに。なのに、自分の心は氷のように凍ったままだ。
反応らしい反応を示さないイルカに、カカシはイルカの両肩を掴み、またジッと自分を食い入るように見てくる。イルカも黙ってその色違いの双眸を見つめ返した。
そこからゆっくりと唇を開く。
「暗部やめて、俺と一緒にいてください」
「....え?」
「そしたら、俺は、全部忘れてあげます」
どうですか?
冷えた心で、冷えた目で、カカシを見た。一瞬驚いたのか、目を開いて。そこからすぐ、目元を緩ませた。
「なに、ソレ。馬鹿な事いわないでよ」
「馬鹿な事じゃないですよ。本気で言ってるんです」
薄く笑ったまま、カカシは不思議そうにイルカを見た。
「イルカ、ごめんね。あの時はねどうかしてた。仲間がわんさか死んで、俺の隊まで志気が下がって、救援は追いついてくれないし、結構大変だったの」
「どうかしたら、その度に男を抱くんですか」
「....そんなね、人を見境のない男みたいに言わないでよ」
「適当に。お互い適当に相手選んでるなら、……やだけど、我慢出来ます。でも、アレは適当で選ぶ相手なんかじゃないんです。俺の、親友なんです」
どうしようも出来ない怒りが、心の中で静かに燃えている。
凍ったままの心の理由が、淡々と口からこぼれ落ちていく。それは自分でも酷い内容だと思った。それでも、それが今の自分の全てだった。
カカシの眉間にまた、皺が出来た。
「無茶苦茶言わないでよね。俺、イルカと結婚してるわけでもないんだよ?イルカと会う前にたった一回だけヤっただけの男が、そんな問題なの?親友だとか、知らなかったって言ってるじゃない」
静かな怒りが、カカシの声から、目から感じ取れる。
ほとんど無表情で変わらないイルカから、何も返事は来ないと判断したのか、カカシは短く笑った。
「友情物語なんて俺に何の関係あるの?」
いい加減、許してよ。
凍った心に。突き刺さる。
痛いのに、イルカはそこで漸く微笑んだ。食べかけのおにぎりを包み直すと、ゆっくりと立ち上がる。
カカシが自分を見ているのが分かる。
「...あなたの、...本音が訊けて、良かったです」
そう小さく呟いて、イルカはそのまま歩き出した。数歩歩いて直ぐ、背中に何かが当たる。振り返った時には、もうカカシの姿はどこにもない。それを確認し、ふと下を見ると、芝生の上に落ちている紙包み。しゃがみ込んで拾う。もう一度顔を上げ辺りを見渡したが、カカシの姿も、気配すら、消えていた。
咳が酷くなった。
咳き込みながら鍵を開け、部屋に入る。静まり返った誰もいない自分の部屋は真っ暗で、時計の音が微かに聞こえていた。
いなくなって数日だと言うのに。もうカカシの匂いは、自分の生活の匂いに紛れて消えてしまっている。
大きく咳を出しながら、部屋に上がると鞄を床に落とすように置き、羽織っていたベストを脱いだ。そのままドスンと床にしゃがみこむ。
咳のせいで喉も痛い。
床に放り投げられた鞄からはみ出る様に飛び出した紙包みに、目が留まった。そのまま仕事に戻ったから、開けていない。一体カカシが何を投げてよこしたのか。ぼやぼやした頭で考えてみるが、思いつきすらしない。仕方なくぺりと、シールを剥がし中を覗いて。イルカの目が少し丸くなった。途端出る咳に、手を当てながら紙袋から取り出し、ちゃぶ台の上に置く。
木の葉病院の風邪薬と、木の葉病院のマスコットのキツネの根付。きっとおまけで付いてきたのだろう。
(...カカシさんが買ったのか...)
木の葉の服を着たキツネを指でちょんと触る。その横に置かれた袋に入っている丸い錠剤に視線を落とした。病院嫌いで、イルカが何を言っても行こうとはしなかった病院。そこで、わざわざ、自分の風邪薬を調合してくれていた。
再び出た咳に顔をテーブルに伏せる。
でも、熱はもう下がってしまっている。
その薬を、仕舞う為にイルカは立ち上がった。
「先生、ちゃんとお家では寝てなきゃダメだよー」
けらけら笑う生徒がイルカの横を走りすぎていく。
咳もよくならないのに頭が痛いのは、やっぱ風邪がなかなか治っていないんだろう。いい加減他の教員に授業を任せる事が出来ないと、週明けから、授業に戻った。
アオシとは、口すら利いていない。明らか様な自分の態度に、アオシはそれを全て受け入れる様に、俺に合わせるように。アオシもまた俺の全てに触れないようにしていた。
声が出ないから黒板にみっちり書き込むと、生徒がぶーぶー文句を言うが。心配は心配らしい。走る生徒の背中を眺め、目を細めた。途端に咳に襲われ、身体をくの字にして、咽せるような咳に自分でも嫌になる。
あたま、痛い。
「せんせーあのね」
気が付くと、後ろに生徒が立っていた。ん?どうした?とマスクを整えながら近づく。女の子は、少し不安そうな顔をしている。
「これ...」
差し出されたのは見覚えのある紙袋。
「あのね。イルカ先生にって。渡してほしいって。なんか...変な人が」
「...変な人?」
顔を顰め、生徒の目線と同じになるようしゃがむ。
「んーなんかね、口まで隠してる人でね。暑いのに長袖の服着てね、...」
その説明にふわりと顔が思い浮かぶ。
もう会う必要なんてないはずなのに。
生徒から紙袋を受け取り中を見る。また、薬が入っていた。
「...でね、頭は白くてね。目は色が違うの...」
小さな口から出る言葉は。否応なしにカカシの顔を浮かばせる。
なんで?
カカシさん。
「ねえ、先生」
ん?と顔を上げると、まだ不安な色を含んだ目をした生徒がイルカを見ていた。
「先生の友達?」
考える様に一度視線を生徒から紙袋へ移す。
「喧嘩したから会わないの?」
「え?」
目を生徒に戻すと、じっと大きな目がイルカを写していた。
「仲直り、しないの?」
仲直り。
また出た咳をマスク越しに手で押さえながら。その言葉の意味を考える。でも、頭が耳鳴りがして。痛くて。
「そう、だな...」
小さくそう返しながら、ぐら、と視界が歪んだ。そこから生徒の顔が、斜めに落ちていく。視界が真っ白になり薄れていく。
いい加減、許してよ
俺は、許せるのか。ーーカカシを。アオシを。
ずっと。ずっと俺は頭が痛くて。
ただ、ーー俺は。きっと、自分が惨めになることが許せなかった。
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寝ている時に起こされたって、眠いと怒りながらも心は躍っているし、夏の西日が照らされた部屋で、汗かき西瓜を食べながら暑さでぼおっとした頭は、夢の中にいるみたいに、心地よかった。
いい気持ちで、なくならないで欲しいと思った。
咳込みながら、資料室で一人書類の整理をしていた。熱は下がらないが、動けない程でもない。ただ、生徒にはうつしたくないからと、自分から申し出てアカデミーの授業は休んでいる。受付の雑務だけだが。家で寝ているより、こうして仕事をして頭を動かしている方が、よっぽど楽だった。
あの夜の翌日。朝早く。カカシは家に来た。
自分はドアを開ける事が出来なかった。体調を崩しているから帰ってくれと、ドア越しにそれだけ伝えたら。カカシはそのまま帰っていった。
怒って無理矢理ドアから入ってくるか、窓から入ってくるかするのかと思ったが。
会っても。熱が出てぼんやりした頭で何も考えれる事は出来なかったし。カカシが何を言っても頭に入ってこなかったんだと思う。
布団に身体を沈め、泥のように眠った。
だから、今日は昨日より調子がいい。
整理し終わった書類の束を紐で括り、箱の中に入れる。頼まれた量のまだ3分の1くらいか。
イルカは残っている書類の束を眺めて、何か飲もうと席を立った。部屋を出て廊下に出たところで、名前を呼ばれる。顔を上げれば、アオシが笑顔でイルカを見ていた。
「イルカ、先輩に訊いたら風邪で休んだって訊いてたけど、今日はここで仕事なのか」
緑の瞳が優しそうに微笑んでいる。それは、目の前まで来て、ぼんやりした顔のイルカに、心配そうな表情に変わる。
「...お前、まだ体調良くないんだろう。無理しないで休めば良かっただろ?無理したら余計風邪をこじらせて、」
「カカシから訊いた」
「...え?」
よく訊きとれていなかったのか、突然名前が出たら内心驚いているのか、それはどうでも良かった。
少し表情が固くなったままのアオシを静かに見つめた。
「...訊いたって」
「訊いたんだ」
強い口調で言い切るように。逸らさずに見つめた先の緑色の目が大きくなる。
何で、言わなかった。
イルカは語らずとも心で思い、目でそれを表して。ただ、それ以上アオシに何も言いたくなかった。
けほ、と咳が出た口に手を当てると、アオシが片手をイルカに伸ばした。
「イルカ、違う」
「違わないよ。何も」
否定の言葉にアオシの手が止まる。イルカはアオシをジッと見つめた。
「違わない」
突き放すように言えば、アオシの顔が青くなったのが見えた。
イルカは歩き出す。立ち尽くしたままのアオシの横を通り過ぎて、給湯室に向かう。
アオシは、イルカを追って来る事はなかった。
やっぱり。
イルカは麦茶を自分のマグカップに次ぎながら、思う。
それ以上何も言って来ないのは、認めたからだ。
カカシもアオシも。
だから、俺の言った通り。何も違わないんだ。
それがどんなに惨い事なのか。
間にいた自分がなんと滑稽か。
そんなの、きっと。自分でなければ分からない事なんだろう。
麦茶は濃いのに、何も味がしない。透明の水のようだ。こくこくとそれを飲み干せば、冷たい液体に喉が潤ったのが分かった。
グラスから口を離せば、またげほげほと咳が出る。
イルカマグカップを洗うと、書庫室へ戻った。廊下には、もうアオシの姿はなかった。
頭が痛い。
ずっと、ずっと、頭が、痛かった。
「イルカ」
昼休み食欲はなかったが、何か腹には入れなくてはいけない。持参したおにぎりを、アカデミーの裏庭でベンチに座り、一人食べていた。
名前を呼ばれ、反応するかのように食べる手を止めて顔を上げれば、明るい木漏れ日の下で、カカシが立っていた。あの雨の夜以来のカカシは、少し疲れているようにも見える。
あぁ、この人は夜が似合うな。
それにまぁ、なんでこんな暑いのに、着込んじゃって。
薄手のフード付きのパーカを着ているのは、きっと暗部の印を隠す為だと分かっているが。
意味なく、カカシを見てぼんやりと思い、ただ、そこから視線を逸らすように下へ視線をずらせば、カカシが目の前まで歩いてきた。
「イルカ」
落ち着いた、優しく呼ぶカカシの声。それに素直にまた、イルカは顔を上げた。カカシがジッと座っているイルカを見下ろしている。微かに眉間に皺がよっている。
顔を上げただけでそれ以上反応しないイルカに、カカシはイルカの座るベンチの横に座った。
そこからカカシはまたジッとイルカの目をのぞき込んだ。
けほ、と咳を出して、イルカは自分の口に当てる。
「...風邪、うつっちゃいますよ」
「うつってもいい。イルカ」
こっちを見て、とカカシの手がイルカの頬に添えられた。俯いていた目を、ゆら、とカカシに向けると、視界からカカシの顔が消える。
気が付けば、きつく抱きしめられていた。力があまり入っていないイルカの身体をぎゅう、とまた力を込める。
「もう、口も利いてくれないのかと思った」
耳元で、消えそうな声でカカシが呟いた。太陽の匂いと一緒に、ふわとカカシの匂いが香る。普段から匂いなんてない人だが。イルカにはそれは嗅ぎ分けられた。
その匂いを軽く吸い込み、イルカは抱きしめられるままに目を瞑る。
気持ちがいい。このまま寝てしまいたい。
場違いな気持ちにゆらゆらと身を任せていると、身体を離して、瞼に、頬に軽く唇を落とした。
それも黙って受け入れる。
「イルカ」
なんて悲しい声で呼ぶんだろう。
胸が痛くなってもおかしくないのに。なのに、自分の心は氷のように凍ったままだ。
反応らしい反応を示さないイルカに、カカシはイルカの両肩を掴み、またジッと自分を食い入るように見てくる。イルカも黙ってその色違いの双眸を見つめ返した。
そこからゆっくりと唇を開く。
「暗部やめて、俺と一緒にいてください」
「....え?」
「そしたら、俺は、全部忘れてあげます」
どうですか?
冷えた心で、冷えた目で、カカシを見た。一瞬驚いたのか、目を開いて。そこからすぐ、目元を緩ませた。
「なに、ソレ。馬鹿な事いわないでよ」
「馬鹿な事じゃないですよ。本気で言ってるんです」
薄く笑ったまま、カカシは不思議そうにイルカを見た。
「イルカ、ごめんね。あの時はねどうかしてた。仲間がわんさか死んで、俺の隊まで志気が下がって、救援は追いついてくれないし、結構大変だったの」
「どうかしたら、その度に男を抱くんですか」
「....そんなね、人を見境のない男みたいに言わないでよ」
「適当に。お互い適当に相手選んでるなら、……やだけど、我慢出来ます。でも、アレは適当で選ぶ相手なんかじゃないんです。俺の、親友なんです」
どうしようも出来ない怒りが、心の中で静かに燃えている。
凍ったままの心の理由が、淡々と口からこぼれ落ちていく。それは自分でも酷い内容だと思った。それでも、それが今の自分の全てだった。
カカシの眉間にまた、皺が出来た。
「無茶苦茶言わないでよね。俺、イルカと結婚してるわけでもないんだよ?イルカと会う前にたった一回だけヤっただけの男が、そんな問題なの?親友だとか、知らなかったって言ってるじゃない」
静かな怒りが、カカシの声から、目から感じ取れる。
ほとんど無表情で変わらないイルカから、何も返事は来ないと判断したのか、カカシは短く笑った。
「友情物語なんて俺に何の関係あるの?」
いい加減、許してよ。
凍った心に。突き刺さる。
痛いのに、イルカはそこで漸く微笑んだ。食べかけのおにぎりを包み直すと、ゆっくりと立ち上がる。
カカシが自分を見ているのが分かる。
「...あなたの、...本音が訊けて、良かったです」
そう小さく呟いて、イルカはそのまま歩き出した。数歩歩いて直ぐ、背中に何かが当たる。振り返った時には、もうカカシの姿はどこにもない。それを確認し、ふと下を見ると、芝生の上に落ちている紙包み。しゃがみ込んで拾う。もう一度顔を上げ辺りを見渡したが、カカシの姿も、気配すら、消えていた。
咳が酷くなった。
咳き込みながら鍵を開け、部屋に入る。静まり返った誰もいない自分の部屋は真っ暗で、時計の音が微かに聞こえていた。
いなくなって数日だと言うのに。もうカカシの匂いは、自分の生活の匂いに紛れて消えてしまっている。
大きく咳を出しながら、部屋に上がると鞄を床に落とすように置き、羽織っていたベストを脱いだ。そのままドスンと床にしゃがみこむ。
咳のせいで喉も痛い。
床に放り投げられた鞄からはみ出る様に飛び出した紙包みに、目が留まった。そのまま仕事に戻ったから、開けていない。一体カカシが何を投げてよこしたのか。ぼやぼやした頭で考えてみるが、思いつきすらしない。仕方なくぺりと、シールを剥がし中を覗いて。イルカの目が少し丸くなった。途端出る咳に、手を当てながら紙袋から取り出し、ちゃぶ台の上に置く。
木の葉病院の風邪薬と、木の葉病院のマスコットのキツネの根付。きっとおまけで付いてきたのだろう。
(...カカシさんが買ったのか...)
木の葉の服を着たキツネを指でちょんと触る。その横に置かれた袋に入っている丸い錠剤に視線を落とした。病院嫌いで、イルカが何を言っても行こうとはしなかった病院。そこで、わざわざ、自分の風邪薬を調合してくれていた。
再び出た咳に顔をテーブルに伏せる。
でも、熱はもう下がってしまっている。
その薬を、仕舞う為にイルカは立ち上がった。
「先生、ちゃんとお家では寝てなきゃダメだよー」
けらけら笑う生徒がイルカの横を走りすぎていく。
咳もよくならないのに頭が痛いのは、やっぱ風邪がなかなか治っていないんだろう。いい加減他の教員に授業を任せる事が出来ないと、週明けから、授業に戻った。
アオシとは、口すら利いていない。明らか様な自分の態度に、アオシはそれを全て受け入れる様に、俺に合わせるように。アオシもまた俺の全てに触れないようにしていた。
声が出ないから黒板にみっちり書き込むと、生徒がぶーぶー文句を言うが。心配は心配らしい。走る生徒の背中を眺め、目を細めた。途端に咳に襲われ、身体をくの字にして、咽せるような咳に自分でも嫌になる。
あたま、痛い。
「せんせーあのね」
気が付くと、後ろに生徒が立っていた。ん?どうした?とマスクを整えながら近づく。女の子は、少し不安そうな顔をしている。
「これ...」
差し出されたのは見覚えのある紙袋。
「あのね。イルカ先生にって。渡してほしいって。なんか...変な人が」
「...変な人?」
顔を顰め、生徒の目線と同じになるようしゃがむ。
「んーなんかね、口まで隠してる人でね。暑いのに長袖の服着てね、...」
その説明にふわりと顔が思い浮かぶ。
もう会う必要なんてないはずなのに。
生徒から紙袋を受け取り中を見る。また、薬が入っていた。
「...でね、頭は白くてね。目は色が違うの...」
小さな口から出る言葉は。否応なしにカカシの顔を浮かばせる。
なんで?
カカシさん。
「ねえ、先生」
ん?と顔を上げると、まだ不安な色を含んだ目をした生徒がイルカを見ていた。
「先生の友達?」
考える様に一度視線を生徒から紙袋へ移す。
「喧嘩したから会わないの?」
「え?」
目を生徒に戻すと、じっと大きな目がイルカを写していた。
「仲直り、しないの?」
仲直り。
また出た咳をマスク越しに手で押さえながら。その言葉の意味を考える。でも、頭が耳鳴りがして。痛くて。
「そう、だな...」
小さくそう返しながら、ぐら、と視界が歪んだ。そこから生徒の顔が、斜めに落ちていく。視界が真っ白になり薄れていく。
いい加減、許してよ
俺は、許せるのか。ーーカカシを。アオシを。
ずっと。ずっと俺は頭が痛くて。
ただ、ーー俺は。きっと、自分が惨めになることが許せなかった。
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