口笛⑧
「おい」
その声にカカシが縦肘ついていた、顔を上げた。
カカシが行く、いつもの居酒屋のカウンターに一人。ぼんやり一人で座っていた。
「えらくしけた面してんな」
まあいつもだけどな、と、煙草をふかしながら近づくアスマは、冗談めかした口調だが、顔は笑っていない。カカシの手元にある空になった銚子に視線を落として。
「なに?」
片手の猪口を口に傾けながら、口を開いたカカシに、また目を戻した。
「自棄酒か。らしくねぇな」
ふっと笑うアスマに、眉根を寄せた。
「悪いけどさ、つき合ってもらいたいとか、思ってないからさ」
ぶっきらぼうに言うカカシを見て、アスマは小さく息を吐いた。
「そんなんじゃねえ」
「じゃあ、なに?」
アスマの言い方にカカシは視線を逸らすことなくじっと見つめる。くわえていた煙草を指に挟むと、アスマはゆっくりと口から煙を吐き出した。
「もうちょっとやり方があっただろ」
「...?だから、なに」
意味が分からない、とカカシは片眉をつり上げた。
「....イルカが倒れた」
一瞬、目が開いたが、カカシはその目を逸らしテーブルに落とす。
「昨日、アカデミーでぶっ倒れて。病院運ばれて。...肺炎だとよ。即入院だ」
「...........そ...」
「そって、お前。まさか行かねえとか、言わねえよな」
その言葉に眉根を寄せて、カカシは黙って顔を背けた。
無言のままのカカシに、アスマは嘘だろ、と苦笑いを浮かべた。
「お前....飲めねえ酒飲んで。ふてくされてる場合じゃねえだろ。...おい!」
カカシは動かなかった。アスマからは表情すら見えない。苛立ちに頭を掻いて、アスマは店から出て行った。
カカシはアスマがいなくなっても、動かなかった。ぼんやりとした目で、猪口に注がれた酒を眺める。
暗部やめて、俺と一緒にいてください
そしたら、俺は全部忘れてあげます
本気で言ってるんです
そこまで思い出して、カカシは口元から笑いを零し、歪めた。
死の宣告より残酷な、イルカの言葉が、頭から離れない。
青い目にイルカの顔を浮かべて。消えてしまわないように、カカシは瞼を閉じた。
ねえ、俺、もしかして、死ぬのかもしれない
だって頭がずっと痛いし。
目がぐるぐるまわるし。
胸はひゅーひゅー言うし。
肺の中は真っ白で。
それに、頭の中だって真っ白だ。
病室の窓からは夏の明るい光が部屋を照らしていた。窓は締められ、空調により一定の気温が保たれている。
その明るい光に包まれるように、イルカはベットの上でぐっすりと眠っていた。腕に繋がれた管から血管に点滴が繋がれている。
「...あら、ずいぶん楽になったみたい」
看護師が点滴の残量を確認し、部屋に入り、イルカの気持ちよさそうな寝顔を見て微笑んだ。
俺は、...なんかひどい事を言ったような、気がする。
誰に?
なんて?
友達に?生徒に?
アオシに?
それとも、ーーカカシに?
目を開いて、眩しくて。そこにいるのが誰か、すぐに分からなかった。
霞む目に見えてきたのは、見覚えのある顔で、
「わりい」
アスマが立っていた。
「起こしちゃったか。ちょっと様子見に来ただけだ。すぐ帰るな」
いつもの煙草は口にない。
周りの景色と、腕に繋がれた点滴と、薬品の匂いで、ここが病院で、自分がいるのは病室だと、分かる。
そうか、俺。あのまま気を失って。
ぼーっとしたまま、アスマの顔を見ていると、目を細め、アスマが微笑んだ。
「平気か?」
優しい表情を見ていただけで、イルカの目から、涙が零れた。ぎょっとしたアスマが心配そうにイルカの顔をのぞき込む。
「おい、」
「ごめん...なさい。何か、疲れてて...ごめんなさい」
するすると、こめかみを伝って涙がシーツを濡らしていく。
俺の涙腺は壊れていた。
「じゃあな」
笑顔を作り、アスマは部屋を出て行く。そこからは、部屋は静まり返って、訊こえるのは自分の鼻を啜る音だけ。イルカは目を擦りながら改めて部屋を見渡した。
(....個室...?)
そう、大部屋ではなく、個室に自分は寝ていた。
それが、部屋が足りなかったからなのか。何故なのか分からない。
たくさん寝たはずなのに、まだ頭はぼーっとする。イルカは天井を見上げ、古い壁紙をただ、眺めた。
木の葉病院の建物は古く、大きい。歴史を感じさせる入口から入り、カカシは周りを見渡した。悩んで。悩んで。気が付けば、ここに足を運んでいた。
イルカの部屋は何処なのか。
受付に目を動かし、カカシはふと捉えたものに目を留めた。ロビーに並ぶ椅子に、座っている男。カカシはその男の後ろ姿を見つめ、足を向け歩き出した。
男は、ーー姿勢良く座ってはいるが、俯き、緑色の目を自分の足下に落とし、虚ろな表情のまま、動かない。
不意に間近に現れた気配に、アオシは顔を上げ、首だけを後ろに向けた。
カカシの冷たい目と、視線がぶつかった。
カカシの目は、アオシの膝に置かれた果物に目を向け、そこから背を向け、背中合わせになるように、立ったままアオシの座っている椅子の背もたれに体重をかけた。
「行けば?」
そうカカシに言われ、しばらくまた沈黙のあと、アオシが恐る恐る口を開いた。
「...カカシ....さんは?」
カカシもまた、その台詞に口を閉ざし。銀髪を掻いた。
「...俺とアンタで行ったら。どうなんだろうねぇ」
冗談にも取れない言葉に、アオシが目を開いて、背を向けたままのカカシを睨んだ。
「やめてください!なんで、...なんでそんな事言えるんですか」
怠そうに椅子に体重を預けたまま、カカシが短く笑った。そしてため息を吐き出す。肩越しにアオシへ目線を向けた。
「またアンタはいい子ちゃん?お前はいいよね。...何も知らなかったフリして?自分が上手く立ち回ればお友達も幸せになれるとでも思ってんだから」
そうでしょ?と、ゆっくりとアオシに振り返りながら、黙ったままのアオシをカカシは見つめた。首を傾げる。
「ねえ、どうなの?」
薄く笑ったカカシに、一回目を向けて、またアオシは視線を宙に浮かせる。
ガタ、と音を立てて、アオシは立ち上がった。同じ位の目線になったカカシに面と向き合い。苦しそうにアオシは顔を歪めた。手に持っていた林檎を、カカシの前に差し出した。
「これ、...カカシさんが持って行ってください」
憮然とした顔のまま、カカシはアオシを見つめた。
「何で?」
「だって、俺は...イルカに...酷い事を、」
眉を寄せ絞り出すように言う。黙って頭を掻いて、カカシは笑い出した。
アオシが驚いてカカシに顔を向けると、色違いの目が、真っ直ぐにアオシに向けられていた。
「酷いってなに?」
怒りなのか、射抜くような視線に、アオシは其処から言葉を出せなかった。冷えている色なのに、獣のような目は、あの時。ーーカカシに身体を委ねた時の目と重なり、勝手に身体が反応し、震えた。咄嗟にアオシは視線を下に落とす。
「ねえ」
身体をビクとさせ、またカカシに目線を戻す。さっき感じた凄みのある目はなかった。
「...言っとくけどさ、イルカと恋人にならなかったら俺とアンタはもう二度と会う事はなかった。だから、ーー俺はあんな事に、それほど意味があるとは思えない」
薄く口を開いたまま、黙ったアオシに、カカシは背を向ける。そのままカカシがいなくなるまで、アオシは動けなかった。
ぼんやり天井を見たまま、イルカは点滴へ目を向ける。そろそろ点滴が終わりそうだ。イルカは上半身だけ起き上げ、暗くなりつつある窓の外を見つめる。
あんなに頭が痛かったのに。
咳が出て、身体が怠かったのに。
やっぱ、病院ってすごい。
勝手にただの風邪だと判断して放っておいた自分に情けなくなる。普段生徒に体調管理を怠るなと、言っておきながら、自分がこんな様では。
アカデミーで倒れて運ばれたとアスマから訊いて。まだショックを隠しきれなかった。
確か。あの時。生徒と話してたから。
思い出して、眉を寄せ目を瞑る。
きっとビックリさせてしまっただろう。周りにいた生徒にも。
しかも風邪をこじらせ肺炎になっただなんて。
最悪だ。
へこみながら最後に見た生徒の顔が思い浮かぶ。
仲直り、しないの?
綺麗な目がじっとイルカを見ていた。
真っ白で無垢な心が、何て眩しいのだろう。
バン、と音がして、思考が遮られる。顔を上げ。カカシの姿に驚き、でも幻のようで、ただ、カカシを見つめた。
カカシは、ドアを締めるとイルカの前まで来て、近くにあるパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。
また、カカシが手に持っている、紙包みを見て。
「また、...それ持ってきてくれたんですか」
「うん。でも...もう意味ないね」
確かに、もう点滴され病状は改善に向かっている。イルカはその紙包みに手を伸ばしてカカシの手から取ると、そのままその袋を開け、小さく微笑んだ。
また、入っているキツネのマスコット。
やっぱり、カカシが持っているのは何か可笑しい。
ガチャと扉が開き、看護師が顔を見せる。
「もう面会時間はそろそろ終わりですから」
それに応える為、イルカが軽く頭を下げると、
「イルカ」
カカシに名前を呼ばれ、カカシの顔を見た。
「俺、前も言ったけど、イルカに本気で惚れてる。はっきり言って結構夢中なの」
この人はいつもそうだ。同性だとか、男同士であっても。そんな事を気にしない。隠そうともしない。
看護師がいるのに、とイルカは顔を赤らめるが。カカシは気にすることなく、続けた。
「俺言ったでしょ?イルカと俺が出逢ったのは、運命なんだって」
看護師が出て行き、扉の閉まる音が遠くで訊こえる。
だから、とカカシはそこで言葉を切って、一回下を向く。再びイルカの目を見つめた。
「だから。お願い。戻ってきて?」
本気で惚れてる
その言葉にまたゆるゆると、涙腺が緩む。
愛おしい人の自分への言葉。何よりも嬉しい。ーーはずなのに。
目に涙を浮かばせながら。その涙が落ちるのを堪えるように、カカシは眉根を寄せた。
「...イルカ?」
優しい声。
ずっと、ずっと呼んで欲しくて。
大好きな、カカシの俺を呼ぶ声。
ぽろ、と涙が頬を伝った。
「俺だって...俺だって.....」
泣きながら出た声は、子供みたいな、情けない声だった。
それでも涙が止まらない。
だけど。
「イルカ」
カカシの手がイルカの手に触れそうになった時、イルカがカカシへ、泣き顔を向けた。
「だけど」
イルカに首を振られ、手は触れる寸前で止まる。
「俺、思い出すんです。何度も」
鼻を啜り、差し出されたままのカカシの手を涙目で見つめる。
「この手が、アオシを抱いた。この唇が、キスをした。この目が。髪が。腕が」
そこでイルカはカカシの目を見た。
「思い出すんです。何度も。何度も、何度も!ねえ、カカシさんその時はどうしたらいいんですか?俺だけずっと辛いままで、」
「忘れるよ、いつかは」
カカシの言葉にイルカは目を潤ませながら、笑った。
「忘れる?...忘れるわけがない。一生忘れない!絶対!絶対に忘れない!!」
「落ち着いてイルカ。今はパニックになってるだけでしょ」
「違う!!」
声がまた大きくなった。イルカは抱えた頭を振る。
「何で?イルカ!」
カカシがイルカの両肩を掴み、揺すられ、
静かにしてください!と、部屋の扉が開き看護師が顔を出した。
肩を掴んだまま、カカシは苦しそうな表情をする。見つめる先の、イルカの目から、涙が零れた。ぜ、ぜ、と掠れる息が、イルカの口から漏れる。
そこから、小さく呻いて、イルカは激しく咽せた。
カカシが丸まったイルカの背中をゆっくりさする。
「落ち着いて...ね...、イルカ」
何度も、優しく、カカシの掌を背中で感じる。愛おしい、カカシの大きな掌。
胸が痛くて、イルカは俯いたまま、ぎゅっと目を閉じた。
カカシの腕を掴むと、ゆっくりと、押し返す。カカシの手が、イルカから、離れた。
「イルカ」
「別れましょう、俺たち」
俯いたまま何かに耐えるように唇を噛んでいるイルカに、カカシは眉根を寄せた。
「...俺に、さわられるのが、イヤなんだ」
その言葉に、イルカは一回瞬きする。そこから、その黒い目を閉じた。口が開く。
「俺...さっき、アスマさんの前で泣きました。何でこんなに、と思うくらい涙が溢れて。...でも、安心していつまでも泣けて。撫でてくれる大きな手が、...気持ちよくて...このまま一生いたいと思いました」
そこでゆっくりと目を開く。カカシは、呆然としたような、惚けたような。初めて見せる表情で、自分を見つめていた。
「今の、...今のカカシさんの気持ちが俺の気持ちです。だから、分かったら、別れてください」
カカシの手が。緩く握られていた手に力が入ったのが見えたのは、一瞬だった。
自分の頬が音をたてるのを訊きながら、後悔が頭をかすめた。
ほんとにこれでよかったのか。
ほんとにこれでいいのか。
ほんとに。
いいんだろうか。
もうーーこれで。
終わってしまうのに。
でも、俺は、病室から出て行ったカカシさんを追わなかった。
NEXT→
その声にカカシが縦肘ついていた、顔を上げた。
カカシが行く、いつもの居酒屋のカウンターに一人。ぼんやり一人で座っていた。
「えらくしけた面してんな」
まあいつもだけどな、と、煙草をふかしながら近づくアスマは、冗談めかした口調だが、顔は笑っていない。カカシの手元にある空になった銚子に視線を落として。
「なに?」
片手の猪口を口に傾けながら、口を開いたカカシに、また目を戻した。
「自棄酒か。らしくねぇな」
ふっと笑うアスマに、眉根を寄せた。
「悪いけどさ、つき合ってもらいたいとか、思ってないからさ」
ぶっきらぼうに言うカカシを見て、アスマは小さく息を吐いた。
「そんなんじゃねえ」
「じゃあ、なに?」
アスマの言い方にカカシは視線を逸らすことなくじっと見つめる。くわえていた煙草を指に挟むと、アスマはゆっくりと口から煙を吐き出した。
「もうちょっとやり方があっただろ」
「...?だから、なに」
意味が分からない、とカカシは片眉をつり上げた。
「....イルカが倒れた」
一瞬、目が開いたが、カカシはその目を逸らしテーブルに落とす。
「昨日、アカデミーでぶっ倒れて。病院運ばれて。...肺炎だとよ。即入院だ」
「...........そ...」
「そって、お前。まさか行かねえとか、言わねえよな」
その言葉に眉根を寄せて、カカシは黙って顔を背けた。
無言のままのカカシに、アスマは嘘だろ、と苦笑いを浮かべた。
「お前....飲めねえ酒飲んで。ふてくされてる場合じゃねえだろ。...おい!」
カカシは動かなかった。アスマからは表情すら見えない。苛立ちに頭を掻いて、アスマは店から出て行った。
カカシはアスマがいなくなっても、動かなかった。ぼんやりとした目で、猪口に注がれた酒を眺める。
暗部やめて、俺と一緒にいてください
そしたら、俺は全部忘れてあげます
本気で言ってるんです
そこまで思い出して、カカシは口元から笑いを零し、歪めた。
死の宣告より残酷な、イルカの言葉が、頭から離れない。
青い目にイルカの顔を浮かべて。消えてしまわないように、カカシは瞼を閉じた。
ねえ、俺、もしかして、死ぬのかもしれない
だって頭がずっと痛いし。
目がぐるぐるまわるし。
胸はひゅーひゅー言うし。
肺の中は真っ白で。
それに、頭の中だって真っ白だ。
病室の窓からは夏の明るい光が部屋を照らしていた。窓は締められ、空調により一定の気温が保たれている。
その明るい光に包まれるように、イルカはベットの上でぐっすりと眠っていた。腕に繋がれた管から血管に点滴が繋がれている。
「...あら、ずいぶん楽になったみたい」
看護師が点滴の残量を確認し、部屋に入り、イルカの気持ちよさそうな寝顔を見て微笑んだ。
俺は、...なんかひどい事を言ったような、気がする。
誰に?
なんて?
友達に?生徒に?
アオシに?
それとも、ーーカカシに?
目を開いて、眩しくて。そこにいるのが誰か、すぐに分からなかった。
霞む目に見えてきたのは、見覚えのある顔で、
「わりい」
アスマが立っていた。
「起こしちゃったか。ちょっと様子見に来ただけだ。すぐ帰るな」
いつもの煙草は口にない。
周りの景色と、腕に繋がれた点滴と、薬品の匂いで、ここが病院で、自分がいるのは病室だと、分かる。
そうか、俺。あのまま気を失って。
ぼーっとしたまま、アスマの顔を見ていると、目を細め、アスマが微笑んだ。
「平気か?」
優しい表情を見ていただけで、イルカの目から、涙が零れた。ぎょっとしたアスマが心配そうにイルカの顔をのぞき込む。
「おい、」
「ごめん...なさい。何か、疲れてて...ごめんなさい」
するすると、こめかみを伝って涙がシーツを濡らしていく。
俺の涙腺は壊れていた。
「じゃあな」
笑顔を作り、アスマは部屋を出て行く。そこからは、部屋は静まり返って、訊こえるのは自分の鼻を啜る音だけ。イルカは目を擦りながら改めて部屋を見渡した。
(....個室...?)
そう、大部屋ではなく、個室に自分は寝ていた。
それが、部屋が足りなかったからなのか。何故なのか分からない。
たくさん寝たはずなのに、まだ頭はぼーっとする。イルカは天井を見上げ、古い壁紙をただ、眺めた。
木の葉病院の建物は古く、大きい。歴史を感じさせる入口から入り、カカシは周りを見渡した。悩んで。悩んで。気が付けば、ここに足を運んでいた。
イルカの部屋は何処なのか。
受付に目を動かし、カカシはふと捉えたものに目を留めた。ロビーに並ぶ椅子に、座っている男。カカシはその男の後ろ姿を見つめ、足を向け歩き出した。
男は、ーー姿勢良く座ってはいるが、俯き、緑色の目を自分の足下に落とし、虚ろな表情のまま、動かない。
不意に間近に現れた気配に、アオシは顔を上げ、首だけを後ろに向けた。
カカシの冷たい目と、視線がぶつかった。
カカシの目は、アオシの膝に置かれた果物に目を向け、そこから背を向け、背中合わせになるように、立ったままアオシの座っている椅子の背もたれに体重をかけた。
「行けば?」
そうカカシに言われ、しばらくまた沈黙のあと、アオシが恐る恐る口を開いた。
「...カカシ....さんは?」
カカシもまた、その台詞に口を閉ざし。銀髪を掻いた。
「...俺とアンタで行ったら。どうなんだろうねぇ」
冗談にも取れない言葉に、アオシが目を開いて、背を向けたままのカカシを睨んだ。
「やめてください!なんで、...なんでそんな事言えるんですか」
怠そうに椅子に体重を預けたまま、カカシが短く笑った。そしてため息を吐き出す。肩越しにアオシへ目線を向けた。
「またアンタはいい子ちゃん?お前はいいよね。...何も知らなかったフリして?自分が上手く立ち回ればお友達も幸せになれるとでも思ってんだから」
そうでしょ?と、ゆっくりとアオシに振り返りながら、黙ったままのアオシをカカシは見つめた。首を傾げる。
「ねえ、どうなの?」
薄く笑ったカカシに、一回目を向けて、またアオシは視線を宙に浮かせる。
ガタ、と音を立てて、アオシは立ち上がった。同じ位の目線になったカカシに面と向き合い。苦しそうにアオシは顔を歪めた。手に持っていた林檎を、カカシの前に差し出した。
「これ、...カカシさんが持って行ってください」
憮然とした顔のまま、カカシはアオシを見つめた。
「何で?」
「だって、俺は...イルカに...酷い事を、」
眉を寄せ絞り出すように言う。黙って頭を掻いて、カカシは笑い出した。
アオシが驚いてカカシに顔を向けると、色違いの目が、真っ直ぐにアオシに向けられていた。
「酷いってなに?」
怒りなのか、射抜くような視線に、アオシは其処から言葉を出せなかった。冷えている色なのに、獣のような目は、あの時。ーーカカシに身体を委ねた時の目と重なり、勝手に身体が反応し、震えた。咄嗟にアオシは視線を下に落とす。
「ねえ」
身体をビクとさせ、またカカシに目線を戻す。さっき感じた凄みのある目はなかった。
「...言っとくけどさ、イルカと恋人にならなかったら俺とアンタはもう二度と会う事はなかった。だから、ーー俺はあんな事に、それほど意味があるとは思えない」
薄く口を開いたまま、黙ったアオシに、カカシは背を向ける。そのままカカシがいなくなるまで、アオシは動けなかった。
ぼんやり天井を見たまま、イルカは点滴へ目を向ける。そろそろ点滴が終わりそうだ。イルカは上半身だけ起き上げ、暗くなりつつある窓の外を見つめる。
あんなに頭が痛かったのに。
咳が出て、身体が怠かったのに。
やっぱ、病院ってすごい。
勝手にただの風邪だと判断して放っておいた自分に情けなくなる。普段生徒に体調管理を怠るなと、言っておきながら、自分がこんな様では。
アカデミーで倒れて運ばれたとアスマから訊いて。まだショックを隠しきれなかった。
確か。あの時。生徒と話してたから。
思い出して、眉を寄せ目を瞑る。
きっとビックリさせてしまっただろう。周りにいた生徒にも。
しかも風邪をこじらせ肺炎になっただなんて。
最悪だ。
へこみながら最後に見た生徒の顔が思い浮かぶ。
仲直り、しないの?
綺麗な目がじっとイルカを見ていた。
真っ白で無垢な心が、何て眩しいのだろう。
バン、と音がして、思考が遮られる。顔を上げ。カカシの姿に驚き、でも幻のようで、ただ、カカシを見つめた。
カカシは、ドアを締めるとイルカの前まで来て、近くにあるパイプ椅子にどかりと腰を下ろした。
また、カカシが手に持っている、紙包みを見て。
「また、...それ持ってきてくれたんですか」
「うん。でも...もう意味ないね」
確かに、もう点滴され病状は改善に向かっている。イルカはその紙包みに手を伸ばしてカカシの手から取ると、そのままその袋を開け、小さく微笑んだ。
また、入っているキツネのマスコット。
やっぱり、カカシが持っているのは何か可笑しい。
ガチャと扉が開き、看護師が顔を見せる。
「もう面会時間はそろそろ終わりですから」
それに応える為、イルカが軽く頭を下げると、
「イルカ」
カカシに名前を呼ばれ、カカシの顔を見た。
「俺、前も言ったけど、イルカに本気で惚れてる。はっきり言って結構夢中なの」
この人はいつもそうだ。同性だとか、男同士であっても。そんな事を気にしない。隠そうともしない。
看護師がいるのに、とイルカは顔を赤らめるが。カカシは気にすることなく、続けた。
「俺言ったでしょ?イルカと俺が出逢ったのは、運命なんだって」
看護師が出て行き、扉の閉まる音が遠くで訊こえる。
だから、とカカシはそこで言葉を切って、一回下を向く。再びイルカの目を見つめた。
「だから。お願い。戻ってきて?」
本気で惚れてる
その言葉にまたゆるゆると、涙腺が緩む。
愛おしい人の自分への言葉。何よりも嬉しい。ーーはずなのに。
目に涙を浮かばせながら。その涙が落ちるのを堪えるように、カカシは眉根を寄せた。
「...イルカ?」
優しい声。
ずっと、ずっと呼んで欲しくて。
大好きな、カカシの俺を呼ぶ声。
ぽろ、と涙が頬を伝った。
「俺だって...俺だって.....」
泣きながら出た声は、子供みたいな、情けない声だった。
それでも涙が止まらない。
だけど。
「イルカ」
カカシの手がイルカの手に触れそうになった時、イルカがカカシへ、泣き顔を向けた。
「だけど」
イルカに首を振られ、手は触れる寸前で止まる。
「俺、思い出すんです。何度も」
鼻を啜り、差し出されたままのカカシの手を涙目で見つめる。
「この手が、アオシを抱いた。この唇が、キスをした。この目が。髪が。腕が」
そこでイルカはカカシの目を見た。
「思い出すんです。何度も。何度も、何度も!ねえ、カカシさんその時はどうしたらいいんですか?俺だけずっと辛いままで、」
「忘れるよ、いつかは」
カカシの言葉にイルカは目を潤ませながら、笑った。
「忘れる?...忘れるわけがない。一生忘れない!絶対!絶対に忘れない!!」
「落ち着いてイルカ。今はパニックになってるだけでしょ」
「違う!!」
声がまた大きくなった。イルカは抱えた頭を振る。
「何で?イルカ!」
カカシがイルカの両肩を掴み、揺すられ、
静かにしてください!と、部屋の扉が開き看護師が顔を出した。
肩を掴んだまま、カカシは苦しそうな表情をする。見つめる先の、イルカの目から、涙が零れた。ぜ、ぜ、と掠れる息が、イルカの口から漏れる。
そこから、小さく呻いて、イルカは激しく咽せた。
カカシが丸まったイルカの背中をゆっくりさする。
「落ち着いて...ね...、イルカ」
何度も、優しく、カカシの掌を背中で感じる。愛おしい、カカシの大きな掌。
胸が痛くて、イルカは俯いたまま、ぎゅっと目を閉じた。
カカシの腕を掴むと、ゆっくりと、押し返す。カカシの手が、イルカから、離れた。
「イルカ」
「別れましょう、俺たち」
俯いたまま何かに耐えるように唇を噛んでいるイルカに、カカシは眉根を寄せた。
「...俺に、さわられるのが、イヤなんだ」
その言葉に、イルカは一回瞬きする。そこから、その黒い目を閉じた。口が開く。
「俺...さっき、アスマさんの前で泣きました。何でこんなに、と思うくらい涙が溢れて。...でも、安心していつまでも泣けて。撫でてくれる大きな手が、...気持ちよくて...このまま一生いたいと思いました」
そこでゆっくりと目を開く。カカシは、呆然としたような、惚けたような。初めて見せる表情で、自分を見つめていた。
「今の、...今のカカシさんの気持ちが俺の気持ちです。だから、分かったら、別れてください」
カカシの手が。緩く握られていた手に力が入ったのが見えたのは、一瞬だった。
自分の頬が音をたてるのを訊きながら、後悔が頭をかすめた。
ほんとにこれでよかったのか。
ほんとにこれでいいのか。
ほんとに。
いいんだろうか。
もうーーこれで。
終わってしまうのに。
でも、俺は、病室から出て行ったカカシさんを追わなかった。
NEXT→
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