口笛⑨

雪が降っている。
周りの景色も雪みたいに真っ白だ。
綿のような雪が頭上から舞い降りてくる。その雪と一緒に口笛が聞こえる。自分が好きでよく口ずさんでいた歌。母さんがよく、ご飯を作りながら歌っていた歌。
その口笛が聞こえるのはどこからなのか。
イルカは真っ白い景色を見渡しながら、歩き、探す。
しばらく歩いて。
カカシがそこにいた。
イルカに背中を見せて、しゃがみ込んでいる。
雪が降っていて寒いのに、カカシはノースリーブの暗部の服を一枚着ているだけだ。
さすがに寒いのだろう。カカシの吐く息が白い靄になるのが、背中越しに見える。
ゆっくり、音もなく近づいたイルカにカカシがゆっくり振り返りーー、確かに其処にいたのはカカシだったはずなのに。目の前の男は緑色の目でイルカを見上げている。
暗部服に身を包んだままのアオシは、イルカを見て微笑んだ。穏やかな表情を浮かべている。
”イルカ、花持ってる?”
アオシに問われてイルカは首を振った。
”なんで?”
”だって、ほら”
アオシはしゃがみこんだまま、背を向け見ていた先を指さした。
”飼っていた小鳥が死んじゃったから”
指さす場所には、少し高く盛られた土がある。その下にアオシの言う小鳥が眠っているのだろうか。
”だから花が欲しいんだ”
”どんな花?”
イルカが訊くと、アオシは考えるように目を伏せ、またすぐに顔を上げた。
”黄色の薔薇”
”ごめんね。持ってない。でも、アオシ”
名前を呼ぶと、アオシは、ん?、と、優しい微笑みのまま首を傾げた。
”その小鳥は、自分で殺したんだろ?”
イルカの言葉に、緑色の目が優しく細くなり、微笑んだ。顔を上げ、イルカを見上げる。
”ごめんね”
そう、悲しそうに微笑みながら、アオシが言った。


そこから意識が薄れ始める。

ああ、そうだ。カカシさんの残した荷物。返さなきゃ。


カカシさん。
短かったけど、あなたと一緒にいた時すべてが楽しかった。
幸せだった。
元気で。


それが、俺が見た、最後の夢だった。
何かある度に思い出すのは、カカシの事ばかりなのに。夢にさえ出てくる事はなかった。

あれから半年が経っていた。

ねえ、カカシさん。今なにしてますか?

「おはよーっす」
職員室で、自分の席に着いて授業の支度をしていた。かけられた声に顔を上げる。
同僚がイルカの後ろを通り過ぎ、隣の席に鞄をどさりと置き、席に座る。
アオシが使っていた時は、どの机よりも綺麗に整理整頓されていたのだが。片づけが苦手な同僚によって、見事な散らかりっぷりをさらけ出していた。
乱雑に置かれた教本の下に埋もれている答案用紙を引っ張り出す同僚を見て、嘆息した。
「お前なぁ、もうちょっと片づけようがあるだろ」
何か紛失しても気が付かないんじゃないのか、と管理されていない状態に呆れる。
よって、アオシがいた形跡は今、何処にも見あたらない。
アオシは。ーー退院して、アカデミーに復帰した時にはもう、アカデミーを去っていた。
訊いた話しによると、アカデミー職員の能力を買われ、少し離れた里村の臨時職員に就いたのだという。本人が申し出たのか。前から決まっていた話なのか。
顔を合わせたらアオシと何を話せばいいのか。笑えるのか。何事も無かったように。色々頭を巡っていたのに。それはもう必要ではなくなっていた。
でも自分は傍から見れば一見落ち着いてはいるのだけど、頭の中ではまだごちゃごちゃで。整理しきれない何かに押しつぶされそうになっていたのは、事実だった。
鬱憤や怒りや悲しみや。思いでに残っている淡い気持ちとか。幸せだった頃の甘い感覚とか。
一体俺は、何をしたいのだろうか。
「お前、痩せたよな」
イルカの呆れる台詞に気にする様子もなく答案用紙を引っ張り出し、一応と、枚数を確認しながら、同僚が口を開いた。
「...あぁ、気が付いたか?三キロほど。ちょっと太ってたからな。今は元に戻ったって感じだけど」
教本を揃えながらイルカは応える。
「ダイエット?」
「違うよ。何言ってんだ」
笑いながら。本当は5キロ痩せて。失恋で痩せるなんて。丸で女子のようで。やばいと思って必死に無理に食べるようにしてる何て、誰にも言える訳がない。
それが可笑しくて、イルカはまた小さく笑った。
「おー、見ろ。雪だ。雪」
やっぱ降り出したな、と同僚が寒そうな表情を浮かべて窓を見る。イルカもつられて顔を向けて。
ちらちらと降り出した雪が窓から見えていた。天気予報からすると、夜には吹雪いてくるのかもしれない。
いつもの景色が、じきに白く染まる。
イルカは動かしていた手を止めて、窓の外に広がる雪を、じっと見つめた。
カカシさん。
今なにしてるんだろうか。
任務で服を血に染めているんだろうか。
それとも、今ーー俺と同じように、雪を見ているだろうか。

今年は。雪が多い。
雪が多すぎて。前が見えない。ーー大事な事が見えない。

何も、ーー見えない。


「...いや、見ようとしてない...だよな」
「何一人でしゃべってんだ」
誰もいないと思っていた廊下で独りごちる、その背中に声をかけられ、イルカは驚いて振り返った。
アスマが火をつけていない煙草を持て余すようにくわえながら、立っていた。
ほい、と渡されるままに手を出す。
任務報告書だった。それを見て、イルカは小さく微笑む。
「...今日でなくとも、明日でも提出で良かったんですよ」
「あぁ、この近くまで来たから。ついでに、だ」
「そうですか」
アスマが何となく気を遣っているのが分かり、情けなくも、らしくないアスマの優しさと態度は、イルカの頬を緩ませた。
それに甘えるように、イルカもいつも以上にアスマに会っては話しをするようになっていた。
安心するのに。悲しいけど、アスマを見ると思い出すのはカカシの事で。
だけど。
思いでは消えていく一方で、増えていくことはないのだ。
それでも、アスマに会って、たわいのない話をしたくなるのは、何故だろうか。
アスマは分かっている。核心には触れないようにして、だから、させたいようにさせてくれる。気にしてくれている。
「雪、随分と降ってきたなぁ」
廊下はさみーな、と、大きな身体を大きな手で擦りながら。アスマは既に吹雪いてきている窓へ顔を向けた。
かたかたと窓枠が鳴り、その音は、寒さをじわじわ運んできているようだ。
「あ、アスマさん雪が」
肩に雪が乗っていた。イルカが腕を伸ばして触れた途端、手の熱さでそれは溶け、アスマのベストに染みる。
それをぼんやり見つめて、ふと目を向けると、アスマと目が合った。少し背が高いアスマを見上げるようにして、イルカは口を開いた。
「俺....別れる時、...決定打が欲しくて。ちょっとだけ、アスマさんのせいにしちゃいました」
そこでイルカは伸ばしていた手を引っ込め、薄く微笑んだ。
「アスマさんまで巻き込んだみたいになって...すみません...」
イルカの笑っているような泣いているような表情を見つめたまま、アスマは謝るイルカに眉を下げた。
「もともとなぁ、アイツと俺は仲が悪かったんだ」
口にくわえていた煙草を手に取り、アスマは廊下に目を落とす。
「だから、何も問題ねーよ」
それに黙ったままのイルカに顔を上げる。
「お互いなるべくしてならなければならないような家に生まれて。でも俺はこんなんで、アイツはさ。...好き勝手やってんのに、まあ、天才に適う訳がないのは分かってんだけどよ、...要は...まあ俺はアイツが。ーーカカシが羨ましいのは確かだ」
そこまで言って、アスマは小さく笑った。
あの日以来。アスマから、初めてカカシの名前が、出た。
自分が言い出した事だから、当たり前なのに。その名前を訊いただけで、心が震えた。
イルカは黙って見つめる。
「へそ曲がりのくせに、愛だの恋いだのには真っ直ぐで、言いたい事はちゃんと言えて。俺の正反対だな、アイツは。...だから、本当に俺はーーアイツが嫌いなんだよ」
キライ。
その言葉にイルカはどう答えたらいいのか。
素直に受け取り、辛そうな表情を見せたイルカに、意地悪くアスマは微笑んだ。
ポン、と大きな掌をイルカの頭に置いた。
「だからよ、ーーもし。...こんなもしは馬鹿らしいけどな、生まれ変わる事ができるんならーー俺は...迷わずカカシになりてぇな」
目を向けるとアスマは優しく微笑んだ。アスマの大きな掌がイルカの頭から離れる。

そんなヤツだ。アイツは。

アスマは俺に何でそんな事を言ったのか。
考えてみたけど、カカシの顔や、思い出が浮かぶばかりで。
それは、胸が苦しくなるだけだった。






アカデミーからの帰り。イルカは商店街に来ていた。
久しぶりに定時でアカデミーを上がれ、明るい時間に商店街に来て、タイムセールのスーパーで買い物を済ませる。
安いからと買いすぎた。
両手に袋を下げてスーパーを出る。
思い出は、自分を勇気づけもするが、自分を傷つけもする。一緒に過ごした分、あちらこちらにカカシの思いでは散らばっている。
(堪んねえな....)
カカシと一緒に歩いた道を、独りで歩きながら、笑いが零れた。
「...買いすぎて重いし」
袋を持ち直しながら、思わず呟いていた。
同じように、夕日を背に受けながら買い物袋を下げて歩いていた時、カカシが声をかけてきた事を思い出す。
”イルカせーんせ”
甘ったれで生意気で。
でも、優しくて。
それが、嬉しくて。
心地が、良い。
「イルカせーんせ」
名前を呼ばれ、ふと後ろへ目を向けた。
視線の先に見えた靴に、足に、イルカは息の呑んだ。
カカシの嬉しそうに自分に向かってくる姿が、一気に目に浮き上がった。
「カカシさ…!」
振り返り、目の前にいた顔を見て、固まる。
それは、相手も同じだった。
アスマは。驚いた眼差しをイルカに向けていた。
何もかも違うのに。何で間違えたのか。
でも。だって。攻める眼差しをアスマに向けていた。
「.....なんで...なんで俺の事、イルカせーんせ、なんて。なんで...そんな風に呼ぶんですか」
未だ動揺しながら。胸の痛みに耐えながら。イルカは訊いた。
眉根を寄せたアスマは困ったように口を閉じ、
「言ってねえ。イルカって、普通に呼んだ」
気まずそうに、そう言った。

俺は、馬鹿だ。

大馬鹿だ。

身体に力を入れて、イルカは俯く。
雪が残っている地面が、浮き上がった涙でぼやけた。

一度自分からカカシの名前が出ただけなのに。
それだけで堪らなくなって。
苦しくて。

どうしよう。

涙を堪えるように、イルカは手から袋を離して口を押さえた。袋が落ち、買ったじゃが芋が、玉ねぎが、地面に転がる。

カカシさん。

背を向け走り出したその手を、アスマに掴まれた。振り解こうとしても更に強く掴まれ、イルカは振り返る。アスマを見た。
「離してください!」
「待て、お前。何処に行こうとしてんだよ」
言われて、イルカは口を噤んだ。視線をアスマから外す。
「カカシさんの家です」
「アイツは居ねえよ」
「だったら…帰ってくるまで、待ちます!」
「…帰ってこねえよ」
「......え?」
固まったイルカに、漸くアスマが手を離した。
また眉根を寄せ、イルカを見る。
「帰ってこないって、言ってんだ」
イルカは首を傾げた。小さく笑う。
「帰って来ないって...何で、」
アスマは息を吐き出しながら、後頭部を掻いた。
「遠征部隊で召集された。だから、もう里にはいない」
ーーいない?
視線を宙に浮かせながら、アスマに言われた言葉を頭で繰り返すけど、どうしても、その意味が飲み込めない。
「....お前に言おうか、迷ったけど。...お前。肺炎でアカデミーで倒れたろ?...その後はお前とカカシが病院で大声出して...それがな。親父の耳に入ってんだわ」
そこでイルカはぼんやりしていた視線をアスマに戻した。
「...火影様に?」
アスマは煙草を取り出し、マッチで火をつける。深く吸い込み、煙を肺から吐き出した。
それはどういう意味なのだろう。
眉を顰めたまま、考え込む。
アスマは続けた。
「木の葉病院に入院した時に、個室に手配したのはおやじ…いや、三代目だ。知ってんだろ?イルカ。お前に目をかけてるって。単に心配したんだろ」
個室の事はな、と言葉を切った。
「でもな、病院で騒いだのはマズかった。お前とカカシがそう言う仲だって、聞き込みしなくとも病院でおおっぴらになっちまってたんだからな」
イルカは、ただ、アスマの煙草の火を見つめていた。
「だから...簡単に言うと、イルカ。お前がこれ以上傷つかないように、暗部と関わりを持たないように。引き離す為に、カカシは遠征部隊に入れられたんだ」
涙が。止まっていた涙が、一粒、頬を伝った。
「いつ...いつカカシさんは帰ってくるんですか?」
「いつって…」
アスマはそこで言葉を切り、顔を顰めた。苦しそうに、イルカを見る。
「イルカ、だったら....だったら何でアイツを振った?…振ったのは、お前だろうが」
なんでこうなる前に、と言うかのように。イルカを見る。

夢中なの

戻ってきて

カカシの言葉が頭にはっきりと聞こえる。
また涙が、イルカの目から溢れた。

忘れるよ、いつかは

イルカに本気で惚れてる

訴えるような、真剣な眼差しもはっきりと、鮮明に思い出す。
抱きしめられた、カカシの温もりも。
人懐こい甘えるような眼差しも。
傷ついた表情も。

俺に、さわられるのが、イヤなんだ

そう、俺が決めた。
ーー全部。全部、俺が。

何で俺は

小さなプライドを守って

大事なことから逃げようとしていたのか

俺に必要なのは、撫でてくれるアスマの大きな掌でもなく、俺を引っ張って離さなかった、たったひとつの、優しい

カカシの手だったのに。


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