目を閉じれば②

ペンが進まないのは久しぶりだ。
授業中と言う事もあり出払って誰もいない職員室で1人、テストの採点をしていた。開け放たれた窓のサッシには外から舞い込んだ桜の葉が一枚。
んーと口を尖らせて、サッシに揺れる葉を眺めながら空いた手で頭をガリガリと掻いた。掻きながら思い出すのはカカシの事。
10年ぶりの再会ってあんなものなんだ。
間延びした口調で、気持ちが読めない気配を纏っているのも変わらない。変わらないのに、何かが違うと思うのはカカシと離れていた年月のせいか。自分もそれなりに変わったとは思うが。
でもあれはないだろ。
そもそも自分を見て初めましてなんて抜かす事がありえない。何を考えている。合わせた俺も俺だけど。もしかして本当に忘れたとかって言うパターンか。
昨日見たカカシを思い出そうとしても、もやもやが胸に広がる。
「あーもう!」
怒り任せに椅子から立ち上がった。
ぐしゃぐしゃだ。正直昨日寝ていない。いや、少し寝た。そんな事はどうだっていい。要はその原因だ。すんなりと転結しなかった出来事はイルカの容量を超えていた。
パタパタパタ 鳥の羽ばたきにメジロがサッシに留まり、桜の葉をクチバシでつついた。虫なんか付いてないだろうに。遊んでる様が可愛くて、屈み込み、目を細めて身体を動かすメジロを愛でる。
「こんにちは」
メジロのその背後にある桜の一本木の幹にカカシがしゃがみこんでいた。
「…こんにちは」
屈み込んだ姿勢のまま、見上げる先のカカシに言葉を返した。イルカは気配を感じる事が出来なかった自分に羞恥した。視界に入っていたはずなのに、いつメジロの背後に現れたのか。
メジロも背後の気配に感じる事なく、サッシに留まったまま羽根を繕い始めている。
「何か考え事?」
うわ、何だこれ。どう言う意味だ。
目を見張ったまま動けないでいると、カカシは目を細めた。
「警戒心ビンビンだね」
「………あ、当たり前だ!!!」
バササ、とメジロが慌てるように飛び立っていく。ハッと息を飲んで、職員室から廊下にまで響き渡る自分の声に、口を手で覆った。授業中に確実に聞こえてない事はないだろう。
静寂を取り戻す職員室の中、目線を廊下に向けたイルカに、カカシが笑いを零すのが聞こえ、再びそっちに目を向けた。
「今日は何時にあがれますか?」
「へ?」
「仕事の終わる時間」
それは分かっている。急な流れに戸惑うのは当たり前だと思うのだが。それでも自分の日程を思い出した。
「…6時くらいですかね」
「用事がなければ、今日飲みに行きませんか?」
「えぇ、まあ、……いいですけど」
「じゃあ決まりだ」
良かった、校門で待ってますから、とカカシは頬を緩ませると直ぐに消えた。
止まった思考を動かしたのはチャイムだった。
直ぐに廊下が慌ただしくざわめき出し、職員室に教員が入ってくる。窓に向かって佇んでいるイルカに同僚が声をかけた。
「廊下まで聞こえたぞー。叫ぶなら扉締めてからにしろよな」
教本で肩を叩き通りすぎる。
イルカは首を傾げた。
あれ、夢?
急に現実に引き戻されたような。
カカシがいたのも、メジロが飛んだのも、俺の幻想?
窓の近くまで行き窓枠に手を置く。足元には桜の葉が床に落ちている。それを拾い上げると誰もいない幹を眺めた。
いや、いた。カカシは確かにいた。
何か変な感じだった。
外を眺めるイルカに、センチメンタルになってるなー、と同僚が肩を叩き通りすぎて。
桜の葉を茎でクルクルと回しながら、センチメンタルじゃねえよ、と窓の外に向かって答えた。




言われた通りにカカシは校門にいた。
イルカが目の前までくると、壁につけていた背を離して、いきましょうか、と歩き出す。
訳も分からず、しばらくその後について歩いていたが、やがてカカシは歩調を合わせるようにイルカの横に並んだ。
「店、どこでもいいですか?」
「あ、…はい」
「良かった、こっちです」
自分より少し背が高い。少しだけ見上げる形で横顔を伺った。顔と髪を。揺れる銀髪は夕陽に染まっている。
「イルカ先生、ここ」
袖をついついと引っ張られ、顔をあげればそこはイルカも足を運んだ事のある大衆居酒屋だった。人気があり、予約が必要な事もある。まだ時間が早いのか、席が埋まり出してはいるが、空席もある。カカシはその奥の個室に入り、イルカも対面して座った。
個室は初めてだ。あるのは知っていたが、自分の場合は普通のテーブル席かカウンターか。カカシの入り慣れた感じにも、同じ里にいながら不思議な気持ちになる。
「先生はビールでいい?」
メニューを広げながら確認され素直に頷く。
「つまみ、適当に頼みますね」
カカシは呼び鈴を押し、店員に注文をする。おしぼりで手を拭き、何か話さなければと口を開く前に店員が顔を出し、よく冷えた生ビールと突き出しをテーブルに置いた。
「はい」
ジョッキを渡され、カカシも自分のジョッキを持ちカチンと合わせた。既に口布は降ろされている。
「飲まないの?」
「……飲みますよ」
そりゃ飲むけど。
グイとジョッキを上げて喉に流し込む。きめ細かい泡が口に広がりキレのあるビールはとても美味いが、正直この環境でなかったらもっと美味く感じているはずだ。
「…はたけ上忍」
「カカシでいいですよ」
「言えません!」
自分が中忍だからと卑下するつもりはないが、相手は上忍であり里の誉れだ。それはどうひっくり返そうともその事実は変わらない。
食いつく言い方にカカシは目を細めて、間近に視線を交わらせた。
「じゃあナルトみたいに先生って呼んでください。あなたと同じ先生って」
「………カカシ先生」
しぶしぶと言って取れる程の言い方にも関わらず、カカシは満足そうな顔を見せた。
「はい」
「俺、あなたと何を話したらいいか正直分かりません」
カカシは突き出しの煮ものからじゃが芋を選ぶと口に入れた。
「そうですか?」
この男。
思わずその言葉さえ突いて出そうになる。10年ぶりに顔を合わせて杯を酌み交わしたが、人を簡単に振り回す言い方は変わっていない。タチが悪いのはそれが無自覚だという事だ。
カカシが使う敬語も嫌な気持ちにさせた。丁寧な言い方だか、気持ちが落ち着かない。物腰も柔らかで彼の成長の一部に違いないのだが。
「あなたはいい先生になったね」
「…そう…ですか…」
拍子抜けしたイルカに構わずカカシは続けた。
「うん、俺はそう思いますよ」
煮ものを箸で突きながら、カカシは伏せていた目を上げた。
頭に昇った血が下がり始めていた。
そうか、そうじゃない。改めざるを得ない。10年で俺とカカシは他人に戻っていた事に。
それを今、カカシから気付かされていた。
急に頭が、心が冷めていた。
店員が顔を出し、注文の品をテーブルに並べる。カカシは自分の残り少ないグラスの中身を飲み干すと、ビールを追加しイルカ先生も一緒でいいよねと酒を頼んだ。
急に馬鹿らしく思えてきた。この温度差に、どうして昨日気付けなかったのだろう。額に掌を押し当てるイルカに、カカシは不思議そうな顔をした。
「なに、どうしたの?」
押し当てていた掌を額から外して、カカシを見た。
「どうして俺を誘ったんですか?」
「そりゃ、イルカ先生と飲みたかったから」
眉を寄せてカカシを見た。
「分かりません」
本当に分からなかった。
カカシは小さく息を吐いて眉を下げた。
「昨日の事をお詫びしたくて。酒の力がないと素面ではなかなか言えそうになかったから」
「あぁ…」
イルカの返答にカカシは酒で頬に赤みを帯びながらも困ったような顔を見せた。
「部下の前ではどうあなたに接したらいいか分からなくなっちゃって、誤魔化し半分もあったんですが」
そう言うものだろうか。不透明な気持ちで聞いていた。そう切り出されても過去を掘り下げる気分にはなれなかった。
部下と呼ぶ、ナルトの笑い顔が目に浮かんだ。
追加された酒をカカシは勢いよく飲んだ。
「あいつらといるとね、今更ながらに大切な物に気付かされるよ」
さらりと言うにはストレート過ぎる言葉に、それがカカシの本心だと感じる。冷えた心が少しだけ緩んだ。
グラスを傾けながらカカシが笑った。
「俺が先生なんて、笑っちゃうね」
「………」
「なに、何ですか?」
「そうでしょうか。ただ…俺は、あの子達の師はカカシ先生でよかったと思えましたよ」
「は?そうなの?」
驚いた顔をするカカシに、イルカは頷いた。
昨日今日で告げられるような言葉ではないとは思ったが、そう思ったのだから仕方がない。
「安易な言い方ですが、ナルトを見てそう思いました。それに、…」
言葉を切り、イルカはカカシの目を見た。
「カカシ先生の培ったものや意思はあいつらに必要だと思います…それを俺は少しだけど見てきたつもりですから」
言いながら後悔が浮かんだが、顔に出さないようにグラスを取り酒を流し込んだ。
「それは俺も同じだよ」
カカシは魚の身を箸で解しながら言った。俯き加減では表情がよく分からなかった。
「向き不向きってのはあるからね、真っ直ぐで真面目なのは教師にとって何よりも大事」
ふと上目遣いでイルカを見た。その目は悪戯っぽく薄く笑みを含んでいた。
輝きを宿す目に過去に引き戻されそうな錯覚を覚えて、視線を横に流していた。手に握ったままのビールを半分まで飲んだ。
間近で見る成人したカカシは身体も手も大きくなっていた。あの闇の中に身を投じて、そのままに成長した訳ではないだろうが、カカシからはそれを感じるものはまだ自分にはなかった。それに昨日から今に至るまで、大人の余裕を感じていた。
そう、俺たちはもう大人なのだ。
杯を重ねながら、教育の在り方や今の生徒の話をする。カカシが触れてこない限りは意識的に過去に触れないようにしていた。酔いすぎないようにと思いながらも酒を飲むのは、この時間がただ単に嬉しく感じていた。どんな運命にせよ、カカシと再び出会えた事は、やはり素直に嬉しい。酒を飲み、笑い合えるなんて想像すら出来なかった。
イルカは熱燗の猪口で口を湿らせた。
「そう言えば、カカシなんて呼べって言ったのに、カカシ先生は俺をイルカ先生なんて呼ぶんですね」
思い出したように話すイルカを見ながら、カカシは手酌で杯に酒を注いで口に含んだ。
「あぁ、そうですね。だってみんなそう呼んでるから。ナルトなんてね、毎日ですよ毎日。イルカ先生、イルカ先生って」
それは目に浮かぶようで。
「え、毎日?何やってんだあいつは」
呆れた顔を見てカカシは笑った。
「だからそう呼んじゃうってのもあるし、昨日は特に分からなかったから」
「分からない、何がですか」
「イルカ先生は俺の事忘れてると思ってたから」
一瞬の間の後、イルカは立ち上がっていた。
気がつけば、冷水の入ったコップをカカシにぶち撒けていた。
「帰ります!」
鞄を取るとイルカは酔いでもたつきながらも、足早に居酒屋から立ち去った。


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