目を閉じれば③

「イルカ先生」
呼び止められたのは中庭からだった。
授業が終わり、教室から廊下を出たところで名前を呼ばれた。振り返る先に自分を呼んだと思われる相手もいない。でもあの声はと、考えが及ぶ前にまた名前を呼ばれ、それが外からだと分かり、窓から顔を覗かせる。視線の先にカカシが上を向いてイルカに笑顔を向け手を振っていた。
眉を寄せていた。不快な気持ちと気まずさと、たぶん自分は両方入り混じった顔をしている。
ここ3階だぞ。
声をかけるなら上忍の跳躍を利用してここまでくればいいのにと半ば呆れ気味に思った。
それでもカカシはその場からは動かなかった。
「ねえ、先生。今日は何時に終わりそう?」
見上げるカカシはこの前と変わらない口調だった。返答に躊躇した。同じ様にまた飲みに誘う気なんだろう。残業も夜勤も控えてないが、少し身を乗り出し今日は遅番です、と答えた。
「遅番て何時?」
そうだよな。そうくるよな。
本当は顔も合わせたくなかったが、そうだからと言って相手にこれ以上嘘をつく程の気持ちにはなれなかった。自分のついた嘘に後悔をした。早い後悔ほど情けないものはない。イルカは溜息をついた。
「明日6時じゃ駄目ですか?」
「いいよ。でも、先に謝りたくて」
その目は本当に反省していると感じて、でもそれはこの状況で言うのか。
イルカは仕方なしと辺りを見渡し、カカシにそっちへ行きますと投げかける。生徒の視界に入っていないと確認した上で、窓枠に足をかけると、身体を飛ばして地面に降り立った。
地面に触れた膝の土を払いながら立ち上がり、カカシを見た。
「凄い。現役の動きですね」
「馬鹿にしてるんですか」
「いや…そんなんじゃ」
はははと笑いながらもカカシは肩を竦めた。溜息で返すと、片手を腰に置き、で?と強くカカシを見た。
「大声で謝る気ですか」
「そのつもりでした」
緩い笑顔を見せられ顔を顰めた。だが、苛立つ前に言うべきだと、イルカは教材を抱えながら頭を下げた。
「謝るのは俺です。先日は無礼な事をしました。すみません」
「いいよ、頭上げてイルカ先生。責めるために来たんじゃない」
肩にカカシの手が触れ、イルカが頭を上げると、直ぐにその手は離れた。辛そうな表情を見せられ胸が痛くなる。
言い訳はしたくなかった。あの場で沸いた怒りは否定しない。だからと言ってその事に改めて触れるつもりは自分にはなかった。だが、同時に自分とは違い場を設ける事が出来るカカシに申し訳ないと罪悪感が沸いていた。
カカシは真面目な表情をイルカに向けた。
「言葉を選ばなかった訳じゃないよ。でも、あなたが怒るとは思わなかった」
「でもそれをあの距離で言うのはどうかと思います」
「確かに。そうですね」
苦笑気味に頷くカカシに、不可解だと素直に顔に表した。一方通行の会話を望んでいたようにしか見えない。それは勝手が良すぎるのではないか。
「改めてと思ったんですけどね、顔を見たら謝りたくなったんです」
「……そうですか」
「じゃ、明日また校門で待ってますから」
カカシはあっさりと会話を終わらせ背中を向けた。
怒るとは思ってなかった、なんて。
カカシの偽りのない気持ちに、自分が落ち込んでいると気がつき首を振った。カカシはそこまで過去に拘っている訳ではない。だからこそ感じた温度差であって、これ以上考える必要もないんだ。だからせめて放っておいて欲しかった。勝手な言い分だと分かっているが、イルカは逃げ出したくなっていた。


連れて来られた先にコンビニがあり、首を傾げる間も無くカカシが店内に入る。思わず呼び止めていた。
「買い物ですか?」
カゴを持つカカシに聞くと、片眉をあげてイルカを見た。
「違いますよ。今日は外で一緒に飲もうかな、と」
言いながら、缶ビールを何本かカゴに入れていた。
「外って、」
「例えば、公園とか」
たまにはいいもんですよ。ほら、まだ桜咲いてるし。花見しながらでもいいでしょ。
呑気そうに微笑んで、何故だろう、その顔は嬉しそうに見える。
こりゃ否定はできそうにない
逃げ出したくなっていたのに、そんな顔を見ただけでまあいいかと思えている。なんだろうか、この感じは。
考えていても仕方がない。
イルカはカカシからカゴを奪うと、つまみを適当に放り込み始めた。出来るだけ散らからずに済むものを選んで。
「今度は俺が奢ります。先日は金払わないで帰っちゃったんで」
少し驚いた顔をしたカカシは、すぐに眉を下げて了解した。


「ほら、まだ咲いてる」
カカシは散り始めている桜を指差した。
コンビニから裏手に入った公園は小さく、小さなソメイヨシノが一本ベンチ脇に生えていた。間違っても満開でも花見スポットとしては人が足を運ばないだろう、あるとしたら、それはきっと何十年も先の事だ。
ベンチにカカシと並んで座り、まだ冷えている缶ビールを開け口にした。カカシもまた一口飲んで、背中をベンチにもたれた。
「俺に誘われて嫌?」
唐突な質問は的を射たような台詞で、正直に答えようとイルカはカカシを見た。
「正直戸惑います。まだ」
「そっか。そうだよね」
ビールを飲みながら言うその顔は嬉しそうで、当たり前だよねー、とカカシは言った。そこから沈黙が続き、カカシはずっと前を見たまま。口元はまだ微笑んでいた。自分もビールを口にして前を向く。昨日より二人でいる空間は違和感が薄らいでいる。公園でこうして座って過ごす時間なんてそうなかったな、とふと思った。一体いつぶりだろう。
「ねえ、イルカ先生」
顔を向ければ、カカシはまだ前をぼんやりと見たまま、
「あなたに言った事はね、俺の望みだったんだよ」
またビールを煽って、一息ついた。
「忘れてたらいいって、そう思った。なのに水かけられて、嬉しかった」
真面目に向けられた台詞を受けて、その先の言葉を知らなかった。迷いが生じたが、
「マゾですか」
冗談を選んだ。
注視した先のカカシは笑った。
「そうだね。だって嬉しかったんだもん」
くったくのないカカシの笑顔に目を奪われる。知ってる。記憶にある笑顔。ふとイルカの目をジッと見る。カカシは目を逸らさなかった。
「……向き合うのを躊躇うくせに考えるのはあなたの事ばかりなんだ」
イルカは息を呑んだ。
なんだよそれ。男に面と向かって言う事かよ。
頬が熱くなるのがわかった。それが気のせいだと思いたくて、イルカはギュっと強く眉頭を寄せた。
「俺は男ですよ」
「そんなの、知ってますよ。他の人には言わないよ。イルカ先生だから言うの」
それに、とカカシは続ける。
「あなたたは俺のナンバーワンだから」
酒を吹き出しそうになる。それをこらえてイルカは飲み切った。自分で言って恥ずかしくないのか。
「なんだそれ。もう酔ったんですか?」
いいや残念ながらまだ、とカカシは余裕を見せた顔で、微笑みながら首を振った。
「でもさ、あなたが怒るのはもっとだよね。それはイルカ先生を見て思った。反省してる。でもね先生、過去は思い出として大事だけど、俺にとって今一番大切なのは今。この瞬間」
指で地面を刺した。
「過去は思い出として胸の中に入れておきたい」
手を胸の上に置いて。その綺麗な横顔で綺麗事だと片付けられているようで。堪らず目を逸らしたくなる。堪えてカカシをジッと見た。
「勝手じゃないですか」
何が?という顔をされムカつきを覚える。
「おれの中ではまだ繋がっていたんです」
「じゃあ俺を忘れた事なんてなかったって言えるの?」
「それは…」
言い淀んでいた。10年は長い。教師になると決めて、教員に就いて、その期間は勉強と仕事に没頭していた。それは、忘れたくてと言う希望が底にあったかもしれない。夢中で過ぎた時期は思い出そうとしても、穴の空いた網のように、記憶からすくい上げることが出来ない。
ただ、この目の前にいるカカシよりは思っていたはずだが、10年の中でどれほど思い出に浸るかなんて、測れもしない事を口論しても仕方ない。
「イルカ先生の手」
汗をかく缶ビールを指の腹で擦っている手を指差された。
「俺があなたを見つけた時は、その手に子供の手があったんだ」
「子供…?」
「子供たちが嬉しそうにイルカ先生と手を繋いでた」
それが生徒だと、すぐに思い当たった。カカシは続ける。
「あなたが辞めろと言った暗部に俺はまだいて、…その手とは繋ぐ事が出来ないって思った。….紛争が終わった時に、どうして俺はすぐにイルカに会いに行かなかったんだって、すっごく後悔した」
イルカと呼ばれて胸がドキと高鳴った。
苦しそうな笑みを浮かべてカカシは空き缶をビニール袋に入れる。
夜空を見上げて小さく笑った。
「そしたらきっとあなたは俺を抱き締めてくれて、その手は俺のものだったのに」
そんなこと。生徒と比べる事じゃないだろうに。
少し混乱しそうになりながら、イルカは言葉を探した。そんな前から自分を見ていたのか。そんなの卑怯だろ。それに何で抱き締めるなんて。もう完全に混乱している。
何か言わなくては。急すぎるカカシの告白は時間が経てば経つほどイルカは迫ったものを感じる。見せる横顔にのまれそうになっていた。
自分が思っていた以上に、カカシは自分を見ていた。それがどんなに今自分の心を震わせているか、伝え切れそうにない。カカシの今が大切だと言った意味がふわふわとイルカの頭に浮かぶ。どんなに願ってもあの頃には戻れない。一緒に修行して、戯れて、遊んで、笑って。手を繋いで。それはあの歳だから出来ていた事で、大人になった今、同じ忍びだけど別々の道を歩いている。
戻れない過去。
切望しているつもりもないはずなのに。無性にあの頃に想いを寄せていた。
だから、今カカシを抱き締めたところで何も始まらない。
だったら何でカカシはこんな事を言うんだ。
考えたくない思考を止めたくて、イルカはビニールから缶ビールを取り出しカカシに渡した。自分の分も取ると立ち上がる。
「それでも俺たちはこうして出会えた。それで十分じゃないですか」
「……そうだね」
何でそんな顔をするんだよ。
頬を緩めているのに、泣きそうな顔に胸がズキと痛みが走った。
イルカは意味もなく桜に身体ごと向ける。プルトップを開けてビールを喉に流し込んだ。
あ、これ黒ビールか。
麦芽の甘さに顔を顰めて、ビールのせいだと思いたくて。イルカはまたビールを飲んだ。
「黒ビールってたまにはいいですね」
振り返り、飲みます?と、差し出せばカカシは目を丸くしながら、伸ばした手からビールを受け取った。
「あ〜、あま」
「でしょ?」
声を立て笑って、カカシも目を細め微笑んだ。
「じゃあそれはカカシ先生にあげます」
「えー、酷い」
本当に嫌だと、そんな顔に笑いが溢れる。
「だって、それカゴに入れたのカカシ先生ですよ」
「そうだったかな…覚えてないな」
参ったなと頭を掻くカカシは苦笑しながら黒ビールを飲んだ。
「覚えてないなんて、カカシ先生らしくない」
「らしくないって...さすがに仕事でヘマなんてしないけど、俺だって抜けてる時はあるよ。特にイルカ先生の前だとね」
一気に飲み干してビニール袋に戻すと、代わりにサラミを出して口に入れた。
「…俺の前だと…ですか」
「先生怖いから、緊張しちゃう」
呆れてカカシを見た。
「生徒みたいな事言わないでください」
生徒にも言われた事ないのに、と口を尖らせる。
「それは冗談で、イルカ先生といると舞い上がっちゃって、自分でも訳が分からない。これは冗談じゃなく」
悪戯な目でイルカを見た。
何処までが本当なのか。小さい頃から修羅場をくぐってきたカカシだと分かって尚信じる事が出来ない。昔から自分の事を晒すのを嫌がってはぐらかしてばかりだったくせに。
ふと昔のフィルター越しにカカシを見つめる。
あとね、とカカシが口を開いた。
「手も震えるんですよ。本当に」
それは嘘だろう。あの写輪眼のカカシが平凡な中忍を前にして震えるなんて。生徒だって笑うだろ。
「なに言ってるんてすか、そんな事絶対にないですよ」
分かりきった嘘にそれを確かめたく、イルカは隣に座るとカカシの手を握った。
あ、しまった。握りしめた後に思った。手甲から伸びる指先は冷たく、そして微かに震える。それに驚くのと、触ってしまった事への驚きと。思わず固まる思考に何か言おうと頭を回転させる。
握った手に、カカシのもう片方の手が覆った。少し強く力を込められる。
恐る恐る顔を上げた。
近くなったカカシと視線が交わる。その目が薄っすらと緩み微笑んだのが分かった。
「ね、震えてるの分かった?」
スルリと手が解かれる。
本当に震えるなんて、ズルい。わざと震えるようにしたのかもしれない。
だけど、本当だったら。
それは、何で。
カカシは立ち上がる。
「イルカ先生にとったら俺はいい思い出?」
「え?」
今が大事といいながら、カカシは聞く。その広い背中を見つめた。
振り返り、カカシは真顔でイルカを見た。
「期待しちゃ駄目?」
口を半分開いたが、何を言うべきか声が出てこなかった。
「だって、俺に水をかけたじゃない。俺はあのままでいいって思ってたのに。ねえ先生、ちょっとでも望みがあるなら、俺に何か言ってよ」
切望するように、少し目を細めて。
何って、何を。
期待ってどんな。
酷く悲しそうな顔なのに、怒りをぶつけられているようで、胸がざわめきながら苦しくなる。沈黙はカカシが待っていると分かる。何か言わなければと思うほど頭が真っ白になった。
出てこない言葉に、カカシは待ちきれなくなったのか。溜息に似た笑いを零して。ごめん、と呟いて姿を消した。

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