見えない男②

 カカシは夜道を歩きながら、足音はしないものの確実に感じる背後からの気配に気がつき、嘆息した。
 足を止める。
 くるりと振り返ると相手もまた足を止め、目が合う。カカシは不機嫌に目を細めた。
「・・・・・・イルカ先生さ、」
「はい」
「俺病院にいたほうがいいって、言ったよね?」
 少し責めるような口調のカカシに、イルカは苦笑いを浮かべる。

 そう、そう助言したのはついさっきの事。
 イルカがカカシの前に現れてから、一旦イルカをつれて病院に戻った。 病室では、先ほどナルトと顔を出した時と変わらず、本体であるイルカは何の問題もなく、ベットですやすやと寝ている。その前に立ち、カカシは改めて自分の横に立っている病院着のままのイルカを見た。
 イルカは、他人を見るかのように自分の寝ている姿を同じように見つめ、やがてカカシの視線に気がつく。にへらと笑った。その危機感のない笑いに思わずため息が出る。気持ちを切り替えるようにカカシはベットで寝ている本体のイルカを指さした。
「取りあえずさ、先生戻ってみて」
 指示すると、イルカは視線を自分の本体へ向けた。
「・・・・・・やってはみますけど。やる意味はないですよ」
 カカシは眉を顰める。
「何で?」
「だって・・・・・・、そりゃあ俺も最初はどうにかすればここに戻れるかなあって、何度か試したんですけど、」
 肩を竦めるイルカに、カカシは僅かに首を傾げた。
「けど?」
「すかすか通り抜けちゃって、全然戻れないし、何より触れないんです」
 イルカが寝ている自分へ腕を伸ばす。その通り、すっと本体をイルカの腕が通り抜けた。
 ね?と言いながら、すかすかと自分の本体へ何度も体を通す、何とも情けない笑顔を浮かべるイルカを見つめる。
(・・・・・・何だ、これ?)
 思わずカカシは、腕を組むようにして手を口元に添えた。
 ーー正直、目の前で起こっている事が理解できない。
 今まで生まれてきて一度も、そっち方面は信じたことがなかった。時々、慰霊碑に立っていると、誰かが側にいるような不思議な感覚は希に感じた事があったが、ただそれだけだ。
 おばけとか、幽霊とか。そんなものは絶対に存在しない。目に見えるものが全て。
 そう思ってきたのに。
 カカシの目の前では、チャクラもなにも一切感じない、不思議な存在のもう一人のイルカが、本体をすかすかと出たり入ったりしている。
 ーーこれは一体何なんだ。
 カカシは思わず頭を抱えたくなった。
 整理しきれない気持ちを静めるように、ゆっくりと息を吐き出すと、イルカへもう一度目を向ける。
「イルカ先生、大体状況は分かりました。明日俺が火影様に聞いてみます。だから、あなたはここで大人しくしていてください」
 そう告げるとカカシはそのまま病院を後にした。
 
「・・・・・・で?」
「で?」
 すっかり夜も更けた暗い道で、イルカはきょとんとしながら黒い目をカカシに向け、聞き返す。
 きっとイルカだって、自分の今置かれている状況は分かっているはずなのに、さっきから一方通行の会話に感じてならない。カカシは口布の下で一回唇を閉じ、開けた。
「だから、・・・・・・明日火影様に聞いてからまた病院に行くって言ったのに、なんでついてくるの?」
 正当な質問に、イルカは少しだけ表情を曇らせた。
「だって、あそこにいても意味がないし」
 カカシは呆れてイルカを見つめた。イルカが子供のように少し唇を尖らせているのは、気のせいではない。
「いや・・・・・・意味あるとかないとか、関係ないよね。だから俺が明日火影様に聞くって言ってるんじゃない」
 だんだんときつくなるカカシの口調にも、イルカは動じていないかのようで、少しふてくされた顔をする。視線を地面へ落とした。
「・・・・・・ずっとあそこにいてもつまらないし、」
 蹴れもしない道ばたの小石をすかすかと蹴る真似をする。
 この人は本当にあのイルカなのだろうか。自分が把握している分には、もっと常識的で、こんな幼稚な事を言うような人間ではない。聞いて呆れる言い訳に耳を疑いたくなるが、目の前の男は間違いなくイルカだ。
 任務先で怪我をしているのなら、敵に攻撃を受けた時の、相手の術の何らかの影響だと考えられない事もない。憶測だが、色々考えられる事はあるはずなのに。
 なのに、つまらないって。嘆息し、髪をがしがしと掻いた。
「俺はさ、今日任務で疲れてるし、さっさと家に帰って休みたいのよ。あなたが退屈だろうが、そんな事はどうでもいいでしょう」
 イルカが地面から視線を上げた。
「どうでもいいって、そんな酷いっ」
 その反応にカカシは少し目を見開いていた。
「酷いって、」
「俺だって戻りたいですよ!でも今はどう考えても戻れないんだから仕方ないじゃないですか!俺は・・・・・・心細かったんです。もしかして、ずっとこのままだったらどうしようって。ずっと一人なのかなって。でもカカシさん、あなたは俺が見えますよね?」
 触れないようにしていた事を言われ、言いかけていた言葉をぐっと飲み込んだ。
 そう、さっきから今までだけの経緯だけだが、イルカの存在を見える事が出来るのは、自分だけだ。
 ナルトでさえ、見えていなかった。
「ナルトにも・・・・・・俺が見えていないんです」
 心で思った事を、イルカがぽつりと呟く。目を伏せ肩を落としたイルカは悲しそうで、カカシはその姿をじっと見つめた。
「・・・・・・でも、俺が見えていても見えなくても、あなたの状況は何一つ変わらないですよね」
「気持ちの問題です!」
 気持ちって。
 イルカの気迫に反論したいが、取りあえずはその言葉をもう一度飲み込む。
「何を触ってもすっかすかで、話しかけてもみんなに無視されるし、・・・・・・話し相手があなたしかいないんだから、仕方ないじゃないですか」
 幼稚で一部のあんまりな言葉を含め、自分勝手な正論だとしか思えないが、確かにイルカ本人からしたら深刻な問題なのだろう。それを証拠に伏せた睫毛から見える黒い目は、潤んでいる。
 まあ、イルカ先生は悪い人ではないし、本人が困っているのは事実。
 考え込みながら、カカシは僅かに夜空を仰ぎ一回目を閉じる。
「・・・・・・いいですよ。それで」
「え?」
 ため息混じりのカカシの言葉に、イルカは聞き返す。
「だから、いいですよって言ったんです。俺の後についてくる事で、イルカ先生の気が済むんなら、俺はそれで構わないです」
 ぱっとイルカの顔が明るくなった。
「・・・・・・はいっ」
 力強く応えるイルカは、本当に嬉しそうで、何よりも安堵している。
 諦め半分には変わらないが、この選択はイルカの表情を見る限りは間違ってはいない。そう思うことにすればいい。
 カカシは歩きながら、隣で歩く病院着の姿のイルカを見つめた。


「だから、イルカ先生が昨夜からずっと俺の側にいると言っているんです」
 執務室に入ってきて早々、矢継ぎ早に説明し始めたカカシに火影は一旦人払いをした。そこでもう一度説明しろと言われ、カカシが口にした台詞に火影は大きな表情の変化を見せはしなかったが、眉間に深い皺を寄せた。鼻から息を漏らす。
 カカシは昔から口が悪いが、間違っても質の悪い嘘は言わない。それを分かっいても尚理解し難いと、火影はただ、テーブルに両腕を置きカカシを見つめた。
 火がついたままのパイプは灰皿に置かれたまま。煙が静かに古い天井へ立ち昇る。
 火影が深く息を吸い込み、吐き出した。
「・・・・・・まあ、たぶん何らかの原因で、イルカは自身の体から分離している状況にあると言えるな」
「それは俺もそう思います」
「もう一度、病院で寝ているイルカを調べてみよう。ちと記憶にはないが、もしかしたら前例があるかもしれん」
「はい」
「それまでは、もう一人のイルカを・・・・・・そのイルカはここにいるのか?」
 聞かれてカカシは首を振った。
「いえ、今はここにはいません」
「今は?」
「ええ。最初の方にはちらっと顔は出しましたが、もうここにはいないですね。今彼は好き勝手にどこにでも出歩ける状況みたいなので」
 その言い方に火影は顔を僅かに顔を顰めながらも、理解をするしかないのだろう、深く一回頷いた。
「・・・・・・まあ、そっちのイルカも元気ならそれでいい」
 息を吐き出しながら、火影はそう口にした。


 七班の任務中、昼食をそれぞれに済ませた後、食休みの為に時間を取る。枝に寝そべりながら小冊子を開いて目を通していると、ふわりを風が動いた。
「カカシさん」
 顔を上げ視線を下に落とすと、木の根元にイルカが立っていた。昼間でもしっかりとイルカはカカシの目に移っている。太陽の光を浴びているイルカの肌は血色良く、健康そのものだ。どこか透けてくれればいっそそういうものだと、割り切って理解出来るのだが、見た目本体と何ら変わらない。ただ、格好は病院着と裸足のままだった。
「どうしたの?」
 聞き返すと、イルカは少しむくれた。
「どうしたのって、探したんですよ。急にいなくなるから」
「いや、急にいなくなったのはあなたでしょう」
 執務室で姿を消したイルカは、そこから姿を見せなかった。だから仕方なくそのまま任務に向かった。ただそれだけだった。
「違います。ちょっとアカデミーに子供たちの様子を見に行っていただけです。もう一度戻ったらカカシさんいないから、」
 視線を感じ目線をずらすと、少し離れた場所で休憩しているサクラがこちらを見ていた。
 今は距離があり、話している内容が聞こえていないからいいものの、仮にこの会話が耳に入ったら、ーーカカシは内心苦笑した。
 イルカが見えないサクラには、自分が独り言を言っている様にしか見えない。
「カカシさん、聞いてます?」
 急に視線を外したままのカカシに、イルカに木の下からまた不満そうな声を出され、慌ててイルカに視線を戻した。
「聞いてるよ」
「今日は何時頃終わりますか?」
「どうだろうね、アイツらに寄るからはっきりと分からないけど、まあ日が暮れる頃には終わるでしょ」
 カカシ先生、とその時サクラがカカシを呼んだ。もうすぐ休憩の時間が終わろうとしているのだろう、小冊子を閉じてカカシが体を起こすと、ナルトがまだ寝てます、と付け加えたサクラの台詞にイルカが声を立てて笑った。
「相変わらずだな、あいつは」
 イルカへ再び目を落とすと、目を細めてナルト達がいる方向を見つめている。イルカの病院着の格好は奇妙にも感じたが、その暖かい眼差しは間違いないく、ナルト達の元担任のうみのイルカだと認識させる。僅かに目を細めイルカの表情を見つめた後、カカシはイルカが立っている場所へ降り立った。
「さて、そろそろ再開しますけど。イルカ先生も見てく?」
「え?」
 イルカの状況が状況なだけに、と言うのもあったが、我ながら滅多にないサービス精神に自分でも驚いた。が、イルカはすぐに首を横に振る。
「嬉しいですけど、遠慮しときます。アイツらもきっと隠れて見られるのは気分よくないでしょう」
 正にイルカらしい正論で、しかし声には明らかに寂しさが含まれていた。少し残念そうな表情を浮かべたカカシに、イルカは緩い笑みを浮かべるだけに留める。
「なので俺は家で大人しく待ってます」
 家と言うのはイルカの家ではない。カカシの家を指していた。この姿になってから、イルカは自分の家にも帰ろうとしない。どんな理由があってかなんて、カカシは聞くつもりもなかった。目の前にいるイルカは確かにイルカだが、別人のようにも感じる。事実、こんなたくさん話した会話する事も、以前はなかった。ただ単に距離が近くなったからだとも思えない。
 イルカは背を向けると、軽やかに歩き出す。揺れる黒い髪と、後ろ姿をカカシは見つめた。



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