見えない男③

「おかえりなさい」
 扉を開けてすぐかけられた言葉に、カカシは一瞬驚いた。
 そこには、笑顔を浮かべたイルカが目の前に立っている。
 家で待っていますと言ったのだから、ここにいて当然だ。だから、驚いた理由はそこではない。ただ単に、イルカに投げかけられた言葉に余りにも慣れていなかった。
 一人暮らしを始めて長いが、帰ってくる時に誰かが自分を迎え入れるような場面は一度としてなかった。そういう相手さえろくに作らなかったし、職業上誰かに自分のテリトリーに踏み入って欲しくなったと言うのもある。
 ただ、今回のイルカの場合は致し方ない事情により、やむを得ずこんな状況なのだが。
 当の本人が、そのやむを得ずという状況をどう受け止めているかは分からないが、目の前で笑顔を浮かべている。
 その笑顔を受けながら、カカシは僅かに視線を下にずらした。
「・・・・・・ただいま」
 答えて靴を脱ぐ為にしゃがみ込むと、思ったより早かったですね、言いながらイルカが近付いてきた。
「あれ、カカシさん、また弁当なんですか?」
 持ってきた袋をイルカがのぞき込んでいる。
 また、と言うのは昨日の事をイルカは指していた。元々幼い頃から家にいる時間が少なく、また任務によっては家を空ける事あり保存食は多少家にある程度で、生鮮食品はほぼない状態に等しい。あっても腐らせてしまう事がほとんどだった。外食か弁当の方が栄養のバランスよく補える。
「先生も食べたかった?」
 意地悪い目にイルかは肩を竦めた。
「俺は腹は減りません」
 そうだったね、と返して歩き出すと、イルカもまたカカシの後を追う。
「何で自炊しないんですか?」
 テーブルに置いて弁当を取り出すカカシの横でイルカは腕を組んで問う。カカシは小さく笑った。
「俺は外食派なんです」
「へえ、じゃあなんで、」
「弁当を買ったのは、あなたがいるから」
 聞かれる前にカカシに言われたイルカは、一回口を噤んだ。
「・・・・・・別に俺に気を使わなくてもいいです」
「使ってませんよ。ただ、遅かったら遅かったで先生が心配するかなあ、と」
 キッチンへ足を向け冷蔵庫を開け缶ビールを取り出す。そのままプルトップを開けて一口喉へ流し込んだ。本当は、正直外食しようか帰るべきか、悩んだ。ただ、イルカの心情が読めないのが今の現状だった。子供でもないし、自分の部屋に一人でいるからと言って危惧する相手でもないのだから、気にしなくていいと分かっているが。
 伺う様子を見せるカカシに、イルカは少しだけ複雑な表情を浮かべると、ふいと顔を別の方へ向けた。
「あの調理器具は未使用なんですか?」
 話を変えられる。カカシはイルカが見つているキッチンへ目を向けた。
 壁につり下げてあるのは、確かに調理器具だった。たぶん、埃をかぶっている。あー、と呟きカカシは缶ビールから口を離すと、銀色の髪を掻いた。
「何となく、ですかね。料理しなくても、何もないって訳じゃ何かの時困るんで」
「何かの時ってどんな時なんですか?」
 たいした理由じゃないが、何て説明したらいいのか、一瞬戸惑う。カカシはテーブルを前に椅子に座ると弁当を開けた。
「外食出来ない時、ぐらいですかね。ほら、体が動かなくなる時ってあるでしょ、我々のような仕事の場合」
 それはどんな時だとまた聞かれそうだったから、カカシは先に答える。基本兵糧丸で済ませてしまうから、結果調理器具は未使用のままなのだが、敢えてそれは口には出さなかった。
 分かっていたはずなのに、頭に浮かばなかったのか。少しの間の後、イルカは失礼しました、と小さく答えた。そして弁当を食べ始めているカカシの横にくる。どーぞ、と向かいの椅子を引くと、イルカはどうも、と答えてその椅子に座る。
 物体事態を動かす事は出来ないが、触れる事は出来るらしい。らしい、と言うのは、正直よく分からないし、本人であるイルカもよく分からないみたいで、部屋でくつろげる事にはイルカ自身喜んでいた。
「あ、今日は幕の内弁当ですね」
 立て肘をついて、カカシの食べている弁当を見ている。
「いいなあ」
 なんてぼやくイルカにカカシは顔を上げた。
「やっぱりお腹空いてきた?」
「いーえ、そうじゃなくって。俺、幕の内弁当なんて高いの買わないですもん」
 ため息混じりの声を出す。
「え、高い?」
「やっぱそうなりますよね。カカシさんなら値段なんて関係ないですよねえ。まあ、俺だったら買うなら安い海苔弁か、いやコンビニ行ったらカップラーメンとビールかなあ」
 そういや最近コンビニに行ってないなあ。もうおでんや肉まんが並ぶ時期ですもんねえ。おでんとビールでもいいですよねえ。そんな事を一人で口にするイルカが何となく面白い。だけど買い物で値段を見ないはずもないし、栄養のバランスを考えればこれに行き着くだけの事なんだけど。と、行儀悪く箸を咥えながらイルカを見つめていると、ふと目線がカカシに向けられる。
「ね、カカシさん俺いいこと考えちゃいました」
 嬉しそうに微笑むイルカにカカシは小首を傾げた。



「ありがとうございました」
 任務依頼主である農家の主人に、子供達と一緒に頭を下げる。
 日が短くなってきている分、その時間内で農作業をしなければいけないのは、確かに大変だ。跡取りもなく、広大な農地を持っていれば更にそうで、今回の依頼者もそんな農家の一人だった。
 ただ、人柄も良くそんな大変さは微塵に感じさせなかった。お礼にと渡された野菜や果物は、それぞれ袋いっぱいに詰められていた。
 道すがら、特に会話をするわけでもなく、三人はただそれぞれにその袋を持って歩く。
 慣れない畑仕事で疲れたのか、いつもならすぐにDランクに任務に対するいつもの不平は口にしない事に、内心感心していた時、ふとナルトがカカシへ振り返った。
「でもさ、何で今日はカカシ先生もそれ貰ったの?」
 ナルトが指した先にあるのは、カカシが手に持っている袋。ナルト達と同じように野菜が詰められていた。
「ほんとそうよね。今まで貰っても私たちに渡してきたのに」
 サクラの言葉にサスケも同じ様な眼差しを向けてくる。眠そうな目で三人を眺め、カカシは僅かに肩を竦めた。
「そう?」
 明らかな事実の指摘もさらりと受け流す。気にはなるが詮索する事は到底適わない相手だと、何となく分かっているのか。それ以上追求の言葉は投げてこなかった。物分かりがいいのも、それはそれで問題ではあるんだけどねえ、と思いながらナルト達へ視線を向ける。
「ま、こんだけ貰って食べずに腐らせたら意味ないからね。食べきるように工夫しなさいよ」
 味噌汁とかラーメンに入れるとか。カカシに向けられていた青い瞳が、ふと地面へ落とされた。
「・・・・・・だよな。いつもはさ、イルカ先生にもあげたりするけど・・・・・・今、先生・・・・・・あんなんだし」
 言われて今更ながらに気がつく。自分の身近にいるイルカは周りからしたら、そうではない事に。悲しそうに伏せられたナルトの横顔を、カカシは見つめた。頭を掻く。
「・・・・・・そのうち良くなるよ」
「それこの前も言ったってば」
 直ぐに返される言葉。同時に向けられたナルトの視線には明らかに非難が込められていた。
「この前も、すぐ目を覚ますって言ったじゃんか」
「・・・・・・まあね、でも、」
「ずっと起きないじゃんか!なのにすぐに良くなるなんて何で分かるんだよ!」
「ちょっと、ナルト」
 大きくなったナルトの声に、サクラが止めた。
「何でカカシ先生を責めるのよ。仕方がないでしょ、目を覚まさないのは事実なんだから」
「だってさ、」
「分かってる、心配してるのはみんな同じなのよ。だからカカシ先生だって同じ気持ちに決まってるじゃない」
 ねえ、と同意を求められ、カカシは一瞬躊躇った。が、すぐに頷く。それを見たナルトは眉間に深い皺を寄せたまま、押し黙った。
「病院の先生だって、あとは時間の問題だって言ってたのを忘れたの?だから待つしかないの。分かった?」
 サクラに言われ、ナルトはそれ以上何も口にすることなく、ゆっくりと歩き出す。カカシもまた僅かに項垂れた金色の頭を見つめながら、その後ろから歩き出した。




「後は味を染み込ませる為に蓋をしてください」
 カカシはイルカに言われた通りに、おでんの仕込みが終わった鍋に蓋をする。
 すべて口頭でだが、イルカが教えてくれる料理はどれも簡単で手軽で、そしてカカシの好きな味ばかりだった。
 彼の良い考えがあると言った提案は、この料理だった。
 任務で依頼人から報酬とは別に貰うお礼を、カカシだけが受け取っていない事を、ナルト達から聞いていたのだろう。そして、その貰った野菜を無駄なく使う料理を、イルカは教えてくれた。
 正直料理はやったことがないから、苦手だった。ただ、イルカに言われて渋々包丁を持つことになったのだが、意外に簡単で驚いたのは事実だった。たぶん、どこぞの料理本なんかを目にしていたら、その下拵えや手順の多さにうんざりして、更に料理から遠ざかっていたに違いない。
 だが、イルカの料理はシンプルだった。手を抜くところを知っている。ワンタンスープなんて、わざわざワンタンの皮に具を包まず、材料そのまま入れてしまえばいいなんて、本当に手抜きじゃないかと思ったが、実際に作ってみたら、ちゃんとした料理になっていたから驚いた。
 手先も元々器用で覚えがいいカカシに、教える事が楽しいのか、イルカも自分の知っている知識を全部教えてくれ、うみの家に伝わるチャーハンも伝授された。ニンニクが効いていて、美味しかった。

 鍋の蓋を閉じ、暖かい匂いに包まれるキッチンに立ちながらカカシは火を弱火に調整して顔を上げる。
「ねえ、先生」
 呼びかけると、居間へ移動していたイルカが振り返った。
「はい」
「今日は病院へ行った?」
 毎日自分が本体に戻れるかどうか、必ず病院で試して欲しい、そう伝えるカカシにイルカはそれを素直に受け入れ実行していた。カカシの問いにイルカは頷く。
「ええ、勿論」
 で、駄目だった。だからイルカはここに帰ってきてここに居る。
「そっか」
 呟くような口調にイルカはカカシに近付く。
「どうかしましたか?」
 黒い目がじっとカカシを見つめた。今日ナルトに言われた事が脳裏に過ぎるが。目の前にいるイルカに伝えたところで、どうなるわけでもなく、逆にナルトと同じ様に、辛い気持ちになる。それが分かっているから、カカシはそれ以上何も言えなかった。微笑みを浮かべる。
「ううん。ただ今日はどうだったかなって、思っただけ。何の変化も感じなかった?」
 言われてイルカは考えるようにして、視線を漂わせた。
「そうだなあ、本体事態も特に変化もなかったですし、変化って言う変化はなかったですね」
「そう」
 カカシは頷く。
 イルカが本体から離脱して5日。火影からも何の連絡もない。
 日にちだけが過ぎていく。
 だが。
「ねえカカシさん。今日もらった柿、立派ですねえ。これもサラダにしません?ヨーグルトサラダ」
 ナルト達も、火影も、病院の関係者も、皆わずかな不安を抱えているのに。本人だけは至って変わらず元気で。側にいるイルカはいつも楽しそうに見える。そこまで心配もしていない。
 言い換えると酷く脳天気にも感じる。この温度差をどう受け取ったらいいのか。
 嬉しそうに柿を眺めるイルカを、カカシは見つめ。そこから密かにため息を吐き出した。

 
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