苦い①

夜。走り込みを終えたイルカは息を整えながらアカデミーの裏山へ向かった。
生徒向けに簡易的な訓練場になっているそこは、鈍った身体を動かすには最適だった。
夜中である故、昼間の喧噪はなく虫の声が聞こえている。じっとりと空気は身体にまとわりつくようだ。
イルカは誰もいない事を確認すると、黙々と身体を動かし始めた。
額には汗が浮かぶ。
この程度の運動で息が上がるのは鍛錬不足の証拠で。イルカは内心情けなくなくなりながらも、それを受け止めるように、休む事なく腕立てを始めた。
火影から呼び出されたのは数日前の昼休みだった。
食堂に向かう前に片づけたいと、仕事をしていた時に呼び出された。向かった執務室に、火影もまだ仕事をしていたのか、書類に目を落としていたその視線を入ってきたイルカに向ける。
いつもより厳しく見えるその眼差しに、緊張が走るが。それは、間違っていなかった。

「え、俺がですか」
言われた任務内容に返答もせず、つい聞き返してしまったイルカに、火影の厳しい視線が送られる。
二度も言わせるなと、言わんばかりのその表情にイルカは背筋を伸ばし、了解しました、と返答をし頭を下げると執務室を後にした。
扉を閉め、廊下を歩き出しながら息を吐き出した。
久しぶりに里外への任務。
それは内勤であっても珍しい事ではない。しかし、今回はいつもと内容が違った。
任務のサポート役とは言え、Aランクと言われて中忍であれば緊張しない訳がない。戦忍として活躍していれば別の話だが。
ここ最近、アカデミーと受付業務を掛け持ちのみで、実戦からは遠ざかっているのは事実だ。
鈍っているのは確実で。
イルカは自分の手のひらを広げて眺めた。ごつごつしているのは元からだが、傷よりも事務方らしい指に出来たタコが目立つ。
イルカは苦笑いを浮かべながらため息を吐き出した。
任務まではまだ少しある。
「・・・・・・鍛錬しとくか」
無茶をするつもりはないが、何事も下準備は必要だ。
イルカはその日から日頃以上の鍛錬を始めた。
この裏山を選んだ理由は、自分のアパートでは出来ない術の練習が出来るからだ。
一通り任務で使いそうな術を反復的に発動させる。
最後の術をやり終えた時だった。砂利を踏む足音が聞こえたのは。
驚きに振り返ると、そこには見たことのある上忍が立っていた。
はたけカカシ。自分の元生徒の上忍師。
いつも涼しい顔をしているのは、意図的なのか元々そうなのか。少し不思議な人だと思っていた。
その通り、カカシはいつもと同じ涼しい顔でイルカを見つめていた。
「こんばんは」
「すみません、いらっしゃるなんて思わなくて」
鍛錬に集中していたとは言え、回りの気配に疎かになっていたのは事実。イルカは恥ずかしくなりながらも、カカシを見つめ返した。
イルカの言葉にカカシはたぶん薄く微笑んだ。たぶんと言うのは、闇夜にいる為に表情がよく見えていないからだ。
「ああ、ごめんね。ちょっと前から見させてもらってました」
見ていた事を隠す事なくイルカに告げ、カカシは距離を詰めるように目の前まで歩いてきた。
「土遁が苦手?」
ずばり言い当てられて、イルカは苦笑いを浮かべた。
それを一瞬で見抜いたカカシは流石だ。
両親が上忍であり自分以上の実力を持っていたとは、カカシが知るわけがないが、そうなりたいと思う自分の努力にも限界があると知っていた。
「で、こんなって言ったらあれだけど。なんでこんな事してるの?」
またしても躊躇いなく問われた内容に、イルカはまた苦笑いを浮かべるしかなかった。
「来週ランクの高い任務に就くので、それで、」
笑われるのかもしれない、そう思ったがカカシは表情変える事なくイルカをじっと見つめ、
「来週・・・・・・もしかしてアスマが行く華隠れのやつ?」
またしても極秘の任務内容をさらりと口に出され、今度はイルカは焦るが、カカシは上忍でもその中でもずいをぬいた忍び。耳にしていてもおかしくはないと思い直す。
「・・・・・・そうです。アスマさんの足手まといにはなりたくなくて」
素直に認め顔を掻くと、カカシはへえ、と返事をした後、視線を地面に落とす。再び顔を上げたカカシは、ポケットから手を出した。
その手がぼさぼさの銀色の髪に伸ばされる。
「俺、手伝ってあげよっか」
「・・・・・・」
想像していなかった言葉にイルカは瞬きをすれば、カカシは笑いながら続ける。
「えっと。ま、あなたは先生だから何をすべきかって知ってるとは思うけどさ、俺の助言も少しは役にたつかなーって」
「・・・・・・えっ」
少し大きな声がイルカから出た。
そんな事、言われるとは思ってもいなかった。目を丸くしてカカシを見つめる。
驚きが先行してしまっているが、カカシほどの忍びから直接手ほどきを受ける機会なんてそうあるわけがない。
願ってもないチャンスだ。
「・・・・・・よろしくお願いします」
イルカはカカシに勢いよく頭を下げた。


任務までの5日、ほぼ毎日カカシは裏山に来た。
お願いしますと言ったものの任務に支障が出ては申し訳なく、聞いてみるも、調整してるから大丈夫、とあっさり返された。
自分が苦手としていた箇所を的確に見抜くカカシは、そこを容赦なく指摘し、指導する。
正直きついと思ったが、カカシを前に泣き言は言いたくなかったし、時々カカシからかけられる褒め言葉は、素直に嬉しかった。
いい歳で自分も生徒に指導する立場なのに、とも思っても、ああ、自分は褒めて延びるタイプなんだと実感する。
それに。
少し、誤解していたのかもしれない。
ナルトから聞いていたカカシに関する話は、あまり褒められたものではなかった。上忍には変わり者が多いからと、勝手にそう判断して、願わくばナルト達はそうなって欲しくはないと思った事もあった。
だから、カカシに対する見方が大きく変わったのは確か。
身体を動かす前に必ずする、カカシの丁寧な説明を聞きながら。カカシの眠そうな目を見ながらそう思った。

「こんなもんでしょ」
日付が変わった頃、最後の鍛錬を終えたイルカにカカシが声をかける。
「・・・・・・ありがとうございました」
息を整えるように呼吸を繰り返しながら、座り込んだイルカが目の前に立ったカカシを見上げると、頭上に輝く月夜の光がカカシの銀色の髪を照らしていた。
あまり露出していない肌は、透けるように白く見える。
男に思うのはあまりにおかしな事なのに。吸い寄せられるような感覚を覚えた。
「ーーイルカせんせ?」
名前を呼ばれ、はっとする。自分をじっと見られている事に気がついたカカシが、少し不思議そうに首を傾げて、イルカへ視線を向けていた。
そして、差し出されたカカシの手に気がつく。
「あ、すみません」
言ってイルカは手を差し出すとカカシがその手を掴んだ。思ったよりも冷たいその手がイルカを引っ張り上げる。
立ち上がったイルカは、またありがとうございます、と小さく礼を言うと、握手をしたような状態のまま、カカシは小さくにこりと笑い、手を離した。

「おごりです」
近くの自販機で買ったペットボトルの炭酸飲料を差し出すと眠そうな目がイルカに向けられた。
「俺?」
「あ、もしかしてコーヒーとかが良かったですか」
カカシは首を振った。
「ううん。こーゆーのも飲むよ。ありがと」
素直に手を伸ばし受け取る。
カカシが蓋を開け、ぷしゅ、と炭酸の音が聞こえる。
何気なく視線をカカシに向けていれば、覆面を下げられそこで気がつく。イルカは視線を勢いよくカカシから外した。
やば。ってそうだよ馬鹿。そりゃそうなるだろ。
「・・・・・・先生も飲んだら?」
心の中で呟きながら顔を見ないよう下を向くイルカに構う事なく、カカシが言う。ゆっくりと目線を向けると、カカシはすぐ後ろにあった段差の出来た場所に腰を下ろし、飲んでいる。
気にしなくていいって事だろうか。
下手に触れる事で気まずくなるのは避けたい。
手招きをされ、イルカもカカシに促されるままに、隣に座って同じ炭酸飲料を飲んだ。冷たくて、しゅわしゅわと喉ではじける炭酸が気持ちいい。
「でも、こんなんじゃ全然足らないですよね」
ふと口にした言葉に、黙って飲んでいたカカシは顔をイルカへ向けた。
「何が」
「いや、お礼です。今度改めて飯でも奢らせてください」
はたけ上忍がよければ。
と小さく付け加えるとカカシが笑った。
「いーよそんなの。俺が好きでやったんだから」
あっけらかんと、少し笑いながら。思った以上に男前の台詞を言われ、イルカは苦笑いを浮かべた。
イメージより、ずっとちゃんとしている。
不信感を抱いていた自分が情けなくなった。
いや、それより自分なんかと一緒に飯とかはさすがに嫌だからなのかもしれない。今まで繋がりもなかった、そこら辺にいる中忍が言うべき言葉じゃなかったのかもしれないけど。
でもそれくらいの事をしてもらったんだから、何かお礼を。
「・・・・・・あのさ」
「あ、はい」
考えていた意識を戻して返事をする。
「色々頑張ってるのって、アスマの為?」
ペットボトルを口に付けたまま反射的に顔を横に向けると、思った以上に間近でカカシと目が合った。
アスマの為。
確かに自分は今回の班のリーダーであるアスマの足をひっぱらないようにと、そう思っていた。
でも。カカシの言い方が。何故かそれとは違う口調に感じて。
素直に、はい、と言うべきなのか分からなくて。
カカシの目を見つめながらゆっくりと咥えていたペットボトルを口から離すと、同時に手の中にあった蓋が地面へ落ちる。
「あ、」
拾おうと屈んだ拍子に、肩がカカシに微かに触れた。
イルカの肩を掴まれたかと思うと、そのままカカシの方向へ向けられ、拾おうとした指は蓋に触れる事なく遠のき、ーー気がついたらカカシの唇が自分の唇を塞いでいた。
驚くもその口を塞がれた感覚に声が出ない。
目を見開いたまま固まったイルカをカカシが勢いよく離し、唇も離れる。
「あー、・・・・・・ごめん」
そう小さく呟いたカカシは、その場から消えた。


1人イルカは自分の口元を指で触れた。
囁かれたカカシの声と、炭酸飲料の味と、カカシの唇の感触が。
夢のようで。
いや、夢だったのか。
イルカは、ただ呆然とカカシの消えた闇を見つめた。


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