日曜日②

「イルカ」
職員室。朝礼をが終わり席に戻ろうとして、名前を呼ばれる。イルカは振り返った。
先輩が立っていた。
「お前、大丈夫か」
内心ドキリとした。イルカは得意の笑顔を浮かべる。
「何がですか?」
その笑顔に先輩である男は微笑んだ。
「いや、朝礼中ちょっと顔色悪そうに見えたからよ。何でもないならいい」
あの旅行先での忘れ難い出来事は、ふとした時に思い出してしまう。もう忘れようと心に決めたのに。気を抜いた時に顔に出ていたのか。
あの件は、悪い犬に噛まれたと思うしかない。自分は男で、そこまで深く考える必要はきっとないはずだ。
頭から消えない男の低い声がふっと浮かび、イルカはぐっと奥歯を噛んだ。
忘れよう。そう、もう忘れるんだ。
気を引き締めないと。
イルカは心でそう呟き、
「ええ、大丈夫です。ありがとうございます」
そう答える声はいつもの通りの元気がいい。
じゃあ、と、背を向けたイルカにまた男が呼び止めた。
「そうそう。さっき主任が呼んでたぞ」
イルカは男が親指で指した方向へ目を向ける。アカデミーの主任がちょうどこっちを見ていた。先輩である男に礼を言うと、主任に頭を下げ、足を向けた。

主任の話は業務内容の変更だった。
内容は簡単で、教員として配属されたが、それとは別に任務の受付所での業務を兼任して欲しいと言うことだった。
最近任務も増えてきているが、人手不足の現状で、受付だけに人員を割くわけにはいかない。
よって新人の教員数人が兼任を任される事になった。
まあ、仕方ない。
まだ教員になって間もないし、それで全てが潤滑に回るのなら喜んで引き受けよう。
イルカは簡単な説明を受け、書類を手に受付へ向かった。
そこには自分と顔なじみの同期もいる。
人員不足が根底にあろうが、仕事を任されると言うのは正直嬉しい。どんな仕事でも全ては里の為になる。
「悪いな」
同期の男にイルカは笑顔を見せた。
「いいって。まあ、俺は事務方向きだからな」
言えば、同期の男は苦笑いを浮かべる。
「俺もだ」
まあ、よろしくな。
並んで受付に座った。
「これ、任務表」
同期の男が書類をイルカに渡した。
「朝に任務表を各待機所に張り出してある。それを見て、ここに上忍、中忍が任務を受けにくるから。本人確認と簡単な説明と、」
言っている先に、受付には人がちらほらと入ってくる。
イルカは同期の仕事を隣で見ていた。
そこまで難しい事はなさそうだ。
ふっと自分の前に人が立つ。顔を上げ、先に目に入ったのは髪の色。心臓が大きく跳ねた。
銀色の髪。寝癖だろうか。ぼさぼさのその髪から目を離せなかった。
あの日の記憶は曖昧だ。耳元で囁かれた声も、男の顔も、髪の色も。
そう、髪の色は白っぽかっただけで、銀色かどうかも分からない。
さっきあれほど忘れようと心に誓ったのに。
「あれ、任務ないの?」
その男の声に我に返る。
改めて顔を見ると、にっこり微笑まれた。顔がほとんど隠れているが、人好きする笑顔に、ふっと気持ちが緩んだ。
隣で同期の男がイルカを肘でつつき、立ち上がる。
「おはようございます、はたけ上忍。すみません、こいつ入ったばっかで慣れてないんで、」
ほら、これだ、と同期の男に書類を渡される。イルカはその紙に目を落とした。
はたけカカシ。
驚いた。名前だけしか知らなかったが。あの写輪眼のカカシを知らないはずがない。
そうか、受付にいれば里の忍びが上忍であろうがここに顔を出すのか。
「それ、くれないの?」
目の前にいたカカシの声に、イルカは慌てて立ち上がる。
「すみませんっ、これが本日の任務です」
勢いよく任務書類を両手で差し出したイルカを見て目を丸くする。すぐに目元が緩ませた。
「どーも」
カカシは受け取るとその書類に目を通す。すぐに顔を上げ、青い目がこっちを見た。
「これって前の任務から派生したってやつ?」
「え?」
「あ、それはですね、」
質問に、隣にいた同期の男が受け答えを始める。イルカはそのやりとりをぼんやりと眺めた。
銀色の髪の上忍。
写輪眼のカカシ。どんな忍びかと思っていたが。思ったよりも普通だ。
すごみのある男を想像してしまっていたのに。
柔らかい笑みには拍子抜けした。
「分かった、ありがとね」
説明が終わったのか、カカシがそう区切る。背を向けようとして、青い目がイルカを見た。
それだけで心臓がどき、と反応する。
数秒視線が交わり、すぐにその視線は外される。カカシは背を向け歩きだした。
「まあ、何事も経験だ」
人が途切れた合間に同期の男がイルカに声をかける。
「いろんな上忍がいるしな。あー、緊張した」
笑う同期の男に、イルカも微笑む。
しばらくカカシの顔が頭から離れなかった。それがなぜか分からない。
寝癖のような銀髪に斜めにあてた額宛。口布は鼻まで上げて顔なんてほとんど見えないから、表情すらよく分からなかったけど。唯一見える右目がこっちを見ただけで、体が反応した。
でも、気になるのは。きっとあの髪の色のせいだろう。それしかない。あの髪の色はこの里では珍しい。
でも、こんな事で仕事に影響するのは自分でも許せない。
(いい加減忘れなきゃ)
「なあ、今日飲みに行くか?」
同じ職場になった事だし。
理由を付けて嬉しそうに杯で酒を飲むの真似をする同期の男。
「ああ、行くか」
そう。気持ちを切り替えよう。
イルカは頷いた。

ほろ酔い気分で帰途に着く頃には日付が変わっていた。
あの件があってから酒を飲むのを控えていた。そんな気分になれなかった。元々あの時、自分があそこまで泥酔したのにも原因があるのだ。
あの日酒を飲まなければ。飲んでもあんなに酔っていなければ、男に介抱される事も、ましてやあんな酷い事までされる事はーー。
(違う違う)
イルカは苛立ち気に頭を掻いた。
忘れようって思ってるのに、どうしてこう考えてしまうのか。
結局ぐじぐじ考えてしまっている。
それは、結局自分が傷ついたって事を認めているみたいだ。
乱暴されたのは事実だが。
(俺は男だ)
こんな事気にしてたってどうなる。上忍が下級相手に伽の相手をさせる事だってあると話に聞いた事もある。
だから、忍びである以上いつかはそんな役目も回ってくるかもしれない訳で。
ぐるぐるまとまらない考えが脱線し始める。蛇足する頭を切り替えようと、大きく息を吐き出した。
そこでふと視線の先に気配を捉えた。
それは視界にも入っている。自分の部屋の前に男が立っていた。
暗いが、見間違えようがない。
今朝受付で会ったばかりだ。
はたけカカシ。
今日初めて会ったあの上忍が、今自分の部屋の前に立っている。
どういう事なのだろうか。
状況が掴めない。
中忍の、顔見知りでもない自分に訪れる理由が分からない。
「こんばんは」
カカシに近づくと、イルカは取りあえず、と頭を下げた。カカシはドアに預けていた背中を起こす。
「こんな遅くにごめんね」
覆面に片目しか見えていない男は、相変わらず表情がわかりにくい。
「任務から帰ったら、まだあんたが部屋に帰ってなかったから。待たせてもらいました」
「はあ...そうですか」
それは、すみません。
一応謝ってみるものの、カカシがここにくる理由はまだ思いつかない。用事があるのなら、今朝会った時にでも言ってくれればよかったのに。
その後用事が出来たのだろうか。それにしては、カカシの様子を見る限りはそんなに火急の用でもなさそうに見える。
「えっと...俺に何かご用でしょうか」
おそるおそる聞くと、カカシにじっと顔を見つめられた。
「あんたに謝りたくて」
謝る。何をだ。
きょとんとした。
今日初めて会って、会話すらまともにしてないのに。接点がそもそもないのに。
「謝るって...何をでしょうか」
それを聞くと、カカシは、うん、と応え。手を口布に当てる。ずるりと下げられイルカは驚いた。驚くイルカを前に、カカシは額宛も取る。
素面をいきなり晒され、勝手に向こうが見せているから見ていいものか。固まったまま、カカシを見つめる事しか出来なかった。
思った以上の端正な顔立ちを眺めるが、意味が分からない。
格好いいって事を自慢でもしたいのだろうか。
「俺に見覚えない?」
イルカは素直に首を傾げた。
いきなり自分の顔を見せ見覚えないって。どう言う意味だろうか。
「いえ...?」
「ま、そうだよね。朝会った時もそんな感じだったし。じゃ、これで思い出す?」
言うと同時にカカシはイルカの手を取り引き寄せた。
顔が近づいたと思うも、口を塞がれ目を剥いた。
柔らかい唇の感触。
ちゅっと音を立て何回か触れる。
唇は耳に移動し、甘く耳たぶを噛む。
「思い出した?」
「やっ...」
耳元でささやかれ、イルカは身を捩った
そこでイルカはその感触を思い出す。はっきりと。
忘れたいのに忘れられない、あの日無理矢理された口づけ。
だが、それは直ぐには信じられない。
いや、違う。
まさかそんなはずはない。
記憶の片隅にある、あの髪の色は、この人の色とは違う。はずだ。
唇の感触も。声も。
きっと、違うはずだと思いたいのに。
「あんたにした事謝ります。だから、俺の恋人になって?」
言って、ぐいと強く抱き締められた。
あれがカカシだと裏付けるように。固まったまま、この現実を受け入れるしか出来なかった。
でも。
イルカは唇を噛んだ。
「...冗談はやめてください」
忘れようと思っていたのに。
された事は許せないし、許されることでもないと思う。でも、自分は忘れようとしていたのに。
何を今更。
たとえそうだとしても、放っておけばいいはずなのに。
「嘘じゃない」
言われて頭が真っ赤になった。
「ふざけるなっ」
カカシを腕で押しやり、カカシを睨む。
「人が忘れようとしてるのに、何言ってんだあんたは?」
「だから謝りにきたでしょ?」
「....謝ればすむ問題だとでも思ったんですか?」
怒りに身体が震える。
「あれは...っお互い酔ってしてしまった事で、俺にも責任があると思っています。それに、今更謝られても困ります。忘れたいんです。俺はっ」
「それじゃ俺の気が済まない」
気が済まないって...何だ?
ただでさえ頭に血が上っていると言うのに。理解出来ないカカシの言動に、半ば頭が混乱し始める。
こっちはもう忘れたいって言ってるのに。何でこの男はこうも食い下がるのか。
カッとなり言ってみたもの、改めて気がつかされる。相手は上忍だ。しかもあの、里を誇る忍び。
男相手にあんな痴態をした相手が里を誇る忍びだと言えるかどうか、今更定かじゃないけれど。
苦虫を噛み潰した気分になった。
気持ちを落ち着ける為に、視線を外しイルカは深く深呼吸をする。そこからもう一度カカシへ顔を向けた。
「とにかく。もう帰っていただけないでしょうか」
「......」
カカシは動かない。
「お願いします」
「じゃあまた来ます」
それに答える事が出来なかった。来られても困るし、これ以上話したくない。
押し黙るイルカを前に、カカシは取っていた額宛を巻き直し、口布を上げる。
闇に消えていくカカシの背中を、イルカはじっと見つめながら、もう二度と関わりたくないと、心から思った。


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