先生③
イルカはアパートの1階の扉の前で考え込んでいた。
昨日から大家のおばさん親子(高齢のおばあちゃんが大家の母親)が旅行に出てしまっている。分かって尚チャイムを鳴らしたが、案の定誰も出てこなかった。
困り果てるイルカにカカシが声をかけてきた。顔を向ければ、今日は普通に歩いてきている。
「先生、どうしたの?」
言わずに置くべきか、考えたが隠しても仕方がない。イルカは苦笑してカカシを見た。
「部屋の鍵を失くしてしまって」
少しカカシの目が見開いたのが分かった。呆れているのだろう。初日から忍びらしさの欠片もないような自分を晒し、今度は部屋の鍵を失くしたときた。正直なところ、自分でも呆れる痴態だと思う。
だが、誤魔化すのはもっと恥ずかしい。
「さっき、アカデミーに戻って探したんですが、やっぱりないみたいで。お恥ずかしいです」
「そっかー」
カカシは何かを考えるようにポケットから出した手で銀髪を掻いた。
「大家さん、いないの?」
「はい、昨日から旅行に行くと言われてまして」
大家から信頼を寄せられているのか、留守はお願いね、何て言われていたのに。
本当に情けない。
カカシはそれを聞いて少しだけ眉を下げた。
「あの大家さん、備品や建具壊さないようにって言ってましたよね」
「あ、カカシさんも言われましたか」
そう。入居者が忍びだと一般的な賃貸は借りれない事が多い。忍び同士のイザコザに巻き込まれたり、建物を破壊されると、毛嫌いする人間は少なくない。だから一般的に里が用意したそれぞれの階級に沿ったアパートに住むのが大半だ。家賃も安い。だが、それに甘んじるのが嫌で、イルカは幼い頃から1人で普通のアパートを転々として暮らしていた。生まれ持った人柄のおかげか、内勤の忍びだからか、アパートを決めるのに、そこまで今まで苦労はしなかったが。
しかも、ここの大家は特に細かい事は気にしていなく、忍びがいれば逆に安心だと、イルカが交渉した時も直ぐに快く頷いた。流石に備品を壊すのだけはやめてね、なんて冗談交じりに言われたのは、しっかりと覚えている。カカシもきっとそうなのだろう。
だから、鍵がないからと言って玄関や窓の鍵を壊そうとは考える選択にはなかった。
カカシはまた困った顔をして息を吐き出した。
困っているのは自分であって、カカシが何を困るのか分からない。
「部屋、貸してあげたいけどさ、」
カカシの言葉に驚いた。そんな事を考えていたのか。そんな図々しい事、頭に微塵も浮かばなかった。イルカはぶるぶる首を横に振った。
「いや!それは!」
「いやね、俺今日はデートなの」
言いかけていた言葉が止まった。
カカシは困った顔のまま続ける。
「今から直ぐに出なきゃいけなくて。先生は恋人は?」
あっさりとプライベートを聞かれて、イルカは流石に困った。
が、それこそ嘘を言っても仕方がない。
「今は…いないです」
「て事は、別れちゃった?」
「…はあ、」
意気消沈しかけているイルカをカカシはジッと見つめた。
「大丈夫?」
心配そうな目に、イルカは無理に笑った。カカシのそんな顔を見たくない。いや、見せたのは自分だ。
「友達もいるから、大丈夫です!明日になれば大家さんも帰ってくるし」
「うん、そうだよね」
「じゃ!」
イルカは笑顔を崩さず歩き出した。早足で歩いてそのまま何処へ向かうか決めずに歩きに歩き、ピタと立ち止まる。そこからゆっくりと歩いた。
「…そうだよな」
彼女ぐらいいるよな。
しかも今日はデート。
にしても、大体俺に彼女いようが関係ないだろ。聞くなよ。
そうだよ、先月別れたよ。それが何だ。
地面に転がる石を蹴る。意外に力が入った蹴りで石は見事に横に広がる河原まで伸びた。
……あれ、俺イライラしてる?
自分の苛立ちに気がつき、口をへの字にして考える。
腹が立つ理由は何処にある。
ないない。理由なんて、ない。
『いやね、俺今日はデートなの』
ない。
『先生は恋人は?』
ないない。
イルカは河原を眺めて伸びをすると大きく深呼吸し、友人宅へ足を向けた。
*
翌朝は友人の家から受付へ向かった。
「お前ほんとーにドジな」
「…………」
話を聞いた同僚は笑いが止まらないらしい。鍵は結局見つからない。イルカは隣で無視しながら書類を纏める。しつこいくらいに笑われ、イルカは頬を赤らめた。
悔しいけど、それは間違ってない。
「だから女にも呆れられるんじゃねぇ?」
無視し続けていたイルカはムッとして顔を上げた。
「関係ないだろ」
「そうか?だって、」
「関係ない」
たぶん。
と心の中で付け加えながら、書類を両手でトントンと揃える。
笑い顔が可愛かった彼女の顔を思い出した。柔らかい笑みが、好きだった。
確かに、きっと色々な要因があったんだ。価値観や性格の不一致。それが原因で喧嘩もよくした。後は俺が抜けてる所。確かに。だから、他に好きな人が出来た事さえ気がつけなかった。
ほんと、俺は間抜けだ。
結局、彼女の気持ちなんて、何一つ分かってなかった。自分への小さな苛立ちが湧き上がる。
イルカは立ち上がった。
「これ、書庫室に戻してくる」
「あいよ」
廊下にでて、突き当たりの書庫室へ向かう。歩きながら、自然とため息が出ていた。
「せんせ」
背後から声をかけられた。カカシだと直ぐに気がつく。
振り返ればいいのに。
何故だがそれが躊躇われた。
何だろう。顔を見たくないし、今自分の顔を見せたくない。
「…………」
「あれー、先生ってばー」
黙って歩き続けるイルカにまた声がかかる。下げていた目線を上げる。イルカはようやく足を止め振り返った。
里を誇る忍びは中忍の自分に優しい笑みを浮かべていた。ぼんやりと吸い込まれるように見つめてしまっていた。
それに気がつき、思わず視線を廊下に落とす。
「昨日は大丈夫だった?」
「……はい」
「あれ、元気、ない?」
流れからしたら当たり前の質問。そんな事ないですよ。って言えばいいのに。
得意の愛想笑いをカカシに向けれなかった。不透明な感情から出る憤りは自分になのかカカシへなのか。それすら分からない。
ふと思う。
カカシさん。この人は何で俺の隣に越してきたんだろうか。
上忍専用のマンションだって、この人の財力なら普通のマンションや家だって買えるはず。
あんなボロアパートに越してくる理由が何処にあるのか。
青い目はそのイルカの表情に気が付いたのか、
「ちゃんと寝れた?」
思慮を含んだ目に変わっていた。
駄目だ、顔をちゃんと見れない。
気遣いは嬉しいのに。それを素直に受け取る気分になれなかった。カカシは続ける。
「友達の家に泊まったの?それとも元カノ?」
「…………」
「せんせ?」
「…すみません。失礼します」
俯いたまま頭を下げ、イルカは早足に書庫室へ入った。扉を閉めて、電気も付けていない暗い中、1人眉根を寄せ、書類を両腕にきつく抱え込む。
「………はぁ〜……馬鹿」
完全な八つ当たり。
同僚や友達ならまだしも。あろうことか天下の写輪眼のカカシに八つ当たりを、した。
「馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿……」
だから周りからドジだって言われるんだよ。
きつく目を閉じ項垂れる。
閉じても、カカシの微笑んだ顔までは消せなかった。
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