先生⑥

「あの美人さんがいなくなるのは寂しいわよねぇ」
大家が箒で枯葉をはきながら笑った。
久しぶりに早く帰ってきたイルカに、思い出したように話してきたカカシの引っ越す話題に、イルカは無理に笑顔を作って、それに応えた。
木の葉の凄腕の上忍を美人さんと言う大家は、少しだけ自分の母親と似ている。しっかりしているが少しだけ抜けている所があったり。笑った目元が、記憶している優しい母とかぶっていて、このアパートに決めた理由の一つでもあった。
「でも、イルカ先生は引っ越したりはしないんでしょ?」
「ええ、まあ」
ここを出たら、俺は他に行く場所がないからなあ。イルカは苦笑いして頭を掻いた。
「イルカ先生。そんな寂しがらないで」
「え?俺は別に、」
そんな顔をしたつもりもなく、笑っていた筈なのに。慌てれば、大家がそうだ、と嬉しそうな顔をした。
「引越しの食事会でもしない?私が腕をふるうから」
「え、そんな、」
「いいのよ!そうしましょう!たまには若い人と食事しないと。おばあさんと2人きりで寂しいのよ」
そう言われれば断りきれない。イルカは弱々しく頷くしかなかった。
カカシは上忍で任務に忙しいはずだが、イルカから聞いたカカシは最初目を開いたが、直ぐに緩めて首を縦に振った。
「大丈夫…なんですか?無理に承諾されなくても、」
任務で隣に住んでいても中々顔を合わす機会がなく、アカデミー内で見かけたカカシに声をかけていた。あの受付で話をして以来、ろくに会話が出来ず、キッカケに乗じて話せる事は嬉しかった。
「何で?嬉しいじゃない。それに先生も同席するんでしょ?」
「ええ、それは勿論」
こくんと頷けばカカシは微笑みを含んだ目を見せた。
「だったら尚の事。楽しみにしてますよ」
尚の事。
背を向けて歩き出したカカシを見つめて、その言葉に少しだけ頬が熱くなり、イルカはぐっと唇に力を入れた。
でもきっとそれがカカシと一緒に食べる最後の食事になるのだ。
時間は刻々と経っていく。
壁一枚挟んだ隣の住人は、自分の中でこんなに近くになってしまっているのに。
意識しないように。自分に言い聞かせているが。
「はたけ上忍」
嬉しそうに駆け寄っていくくノ一の先にいるカカシを眺めた。
わかってる。
俺はただの隣人だ。
ああやって擦寄る事さえ出来ない。あの綺麗で柔らかい笑顔は、自分だけに向けている訳じゃない。
声に振り返り、くノ一を見るカカシの表情。
ため息を零してカカシに背を向けて歩き出した。
上忍の。写輪眼のはたけカカシ。自分は平凡などこにでもいる中忍。
それ以外何が覆されようか。
もやもやが自分らしくない。早く気持ちを一掃したくて歩きながら伸びをする。背中からは、まだくノ一が嬉しそうに話している声が聞こえていた。









風が強い。雨も降っている。
イルカは夕飯を食べ終わり、流しに運んだ皿を洗いながら、ガタガタ揺れる真っ黒な窓に視線を上げた。
元々古い建物だから、鍵を閉めていても窓枠はガタガタなり、風が微かに吹き込み雨の匂いが入り込んでくる。
雪は降っていないから、冬の嵐とまではいかないが。雨は雨で寒さが強まっている気がする。流しの蛇口をキュッと締め、その蛇口から、ポタンと一滴流しに落ちた。
それにイルカははたと思い出す。
大家が雨漏りがして困ると言っていた。この雨で、また雨漏りで困っているのかもしれない。
時計を見ればまだ8時前を指している。寝るにも早い時間だ。
まだ大家もきっと起きているに違いない。
様子だけでも見てこようと、パーカーを羽織ると、イルカは大家の住む部屋に向かった。
チャイムを鳴らす。
部屋は灯りで灯されているのに、暫くしても返事がない。イルカは首を傾げ、何回かチャイムを再び鳴らしてみた。
やはり返答がない。風呂に入っているのか、しかし部屋からはテレビの音が微かに聞こえる。
躊躇いがちに、玄関のドアを叩いた。
「大家さん?いますか?イルカです」
それでも一向にない返答に眉を寄せ、不謹慎だと思いながら部屋の中の気配を探る。確かに2つ、大家とその母親の気配が感じるが。微妙に弱々しい気配に胸騒ぎがした。
ドアノブに手をまわすと、鍵はかかっていない。扉がガチャリと開いた。
「……大家さん?」
窺う声をかけて部屋に上がり。
イルカは目を見開いた。
コタツの脇に横たわっている大家が目に入っていた。側にうずくまるように座っていた大家の母親がイルカに気がついた。
「声をかけても返事がないのよ、あんた助けてくれるかい?」
その声はしっかりとイルカに入っているのに。身体が凍りついたように動かない。目を瞑っているその大家の顔。自分の母親の、あの最期の顔とダブっていた。怖くて恐ろしくて、泣き出したくて。受け入れられなかった母親の死。眠るような顔で目を閉じていたあの顔が。今、目の前にある様で。
イルカの高鳴る心臓から、不定期に呼吸が漏れた。
どうしよう。どうしよう。助けなきゃ。大家さんを、助けなきゃ。しっかりしろ。
ぐるぐる頭に回るのに。
足が床に縫い付けられたように動かない。身体がガタガタ震えだす。
「……カシさん…」
何故か浮かんだのはカカシの顔だった。何故だか分からない。

「先生?」

背中から声がかけられ、弾かれるように振り返った。カカシが大家の玄関先に立っていて、キョトンとしてイルカを見ている。顔面蒼白のイルカに少しだけ顔をしかめた。
「シさん…カカシさん…大家さんが。大家さんが、」
絞り出した声は明らかに掠れ震えていた。その声にカカシは靴のまま部屋に上がりこむ。大家の姿を見つけて、直ぐに駆け寄り身体を調べた。
未だ全てが上手く機能しないイルカは呆然とその光景を見つめて、カカシが自分に振り返っても動けなかった。
「先生、息はしてるけど、呼吸が乱れて心音も下がってる。病院に運ぶよ」
カカシによって仰向けにされた大家の顔は白く、ぐったりとしている。再びイルカの頭が混乱したように真っ白になっていく。
母さん。
どうしよう。
母さんが。
「先生!!」
肩を強く揺さぶられカカシの声に我に帰る。
カカシがイルカの顔を覗き込んでいた。
「大丈夫」
「…………え?」
「大丈夫。大丈夫だから」
肩を掴んでいた手が背中に回り腕の内に包み込まれていた。途端暖かい温もりに呼吸が落ち着き始める。とくんとくん、とカカシの心音が、自分の身体に伝わってきた。
大きな手が背中を優しくさする。
大丈夫。耳元で囁かれた声。その声にイルカもカカシの背中に手を回していた。少しだけ強くカカシから抱擁が返される。
暫く背中を撫で、身体を離すと、カカシはイルカの手を掴んだ。そして再びイルカを覗き込んだ。青い目を見るだけで落ち着きを取り戻す。それを確認したのか、カカシは口を開いた。
「大家さん、今から俺が病院に運ぶから。先生はここでお婆さんの側にいて。いい?」
「は、はい」
「じゃ、」
ゆっくりとカカシの手が離れる。カカシは大家を脇から腕を通し抱き上げると、玄関から飛躍し直ぐに見えなくなった。


大家は軽い心臓発作を起こしていた。持病があったらしいが、イルカも知らず、今回は命に別状がなく、ただ、少しの間入院をする事になった。大家の母親はその間は1人では心配だと、施設に預ける事になった。
イルカは仕事を済ませてそのまま大家のいる病院に向かった。
大家が倒れているのを見て、何もしてやれなかった。それが酷く後悔として伸し掛かる。もう何年も過ぎ去った過去の事なのに。母親と顔がダブっただけなのに。
俺は忍びなのに。
ーーなんて情けない。
袋に入ったリンゴを抱えながら廊下を歩く。
忍びがいない、普通の一般病棟に来るのは初めてだった。だが、病院は病院で。あまり足を運びたくない場所には変わりないなあ、と感じてしまう。鼻につく消毒液の匂いを感じながら思った。
病室に着き、ドアを叩く。扉を開けると、カカシが立っていて驚いた。驚き立ったままのイルカに大家さんが笑顔を見せた。
「イルカ先生も来てくれたの」
「あ、はい」
「ありがとうね」
倒れた人とは思えないくらいに生力ある笑顔にイルカは内心ホッとした。いつもの大家の優しい笑顔に。
「先生、俺も林檎持ってきたの」
カカシがポケットに入れていた手を出して横にあるテーブルを指す。
真っ赤で大きな林檎が幾つか置かれていた。
「本当ですね。かぶっちゃいましたか」
「2人はシンクロしてたのね。羨ましいわ」
「あー….、いや、」
他意がないと大家が嬉しそうに笑う。イルカは困ってカカシを見ると、カカシは嬉しそうに目を細め、イルカの目を見た。
ほわりと心が暖かくなる。ただ、目が合っただけなのに。殆ど素顔が隠されているのに、優しい笑みを浮かべているのが分かる。

たぶん。いや、前から気がついていたけど。必死に思わないようにしたけど。

やっぱり、カカシが好きだ。

柔らかな笑みを見て、自分の気持ちに改めて気がつかされ。不覚にも泣きたくなった。
でも、好きなだけで、それだけでいい。
そう。こんな凄い人を好きになれて、それだけで幸せだ。

片想いだと分かっていても。



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