蝶々結び②

要請してから約三ヶ月後。ようやくカカシが自分の屋敷に赴いた。
「カカシ。以前お前が言った、色々とは、何じゃ」
カカシを部屋に招き入れ、開口一番に言った台詞。自分の事を断ってまでの理由を葵は知りたかった。
「はぁ、またその話ですか」
「またと申すな」
明らか様な嘆息に、葵は飄々とした態度のカカシを睨みつけた。
やはり、この男の態度は一貫している。相手が誰であろうとも変わらないのだろう。苛立ちはするが、葵の中でそれは感心する部分があった。姫だからと。あの大名の娘だからと。その色眼鏡で見られなかった事はない。産まれてから、ずっと。葵の麗しい容姿にさえも一片の興味もないような言動も、また興味を覚える。
「はぁ...」
その葵に眉を下げ、苦笑する。その顔は、先日目にした敵を瞬殺する忍びにはほど遠い。
(....掴めない男)
葵は椅子に腰をかけ、手に持った畳んだままの扇子を口元に当てながら、その様子を眺めた。
(大体あのちっちゃいのは何?)
葵はカカシの足下に目を落とす。小型の犬がカカシにぴったりとついている。
犬自体苦手でも何でもない。ただ、屋敷には犬は番犬しかおらず、大型犬ばかり。気性も荒く攻撃的であり、愛玩する対象ではなかった。興味が湧くが少し怖い気もする。忍びが連れている犬なのだから、きっと訓練されているのだろう。
カカシの足下に座り込んでいる愛くるしくも眠そうな目を見て、飼い主に似ていなくもないと捉えていると、その目が葵に向けられ、驚き思わず目を横に逸らしていた。葵は立ち上がると、窓辺に向かい、庭を眺める。
「兎も角、そなたは来ないと思っておった。少しは骨のある男のようじゃな」
振り向きカカシに目を向ける。風がふわりと入り込み、葵の髪を撫でていった。
椅子に座る事せず、カカシは壁に寄り添うように背中を預けて立ったまま。組んでいた腕を解いた。
「そりゃあ何と言っても、あなたが要請した通り。うちの里長の命令ですからねぇ」
嫌味混じりに取れなくもない口調で言うと、葵の目を見つめる。ここにきてようやくカカシが葵を見た。
葵は眉を寄せた。
「依頼するには正式な手続きであろう」
「俺に直接言えばよかったんじゃないんですか?」
手紙でも何でも、と当たり前のように言われた台詞に葵は頬をかぁと赤くさせた。そしてまた眉を寄せる。
「お、男に手紙を書くなど、....っ、出来るわけなかろう」
面識などない男に。と強い口調になる葵に、カカシは目を丸くした後、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「はぁ、まぁ。....そうですか」
そのまま葵を眺め、カカシは続けた。
「それなのに、よく俺と寝る気になんてなりましたね」
「寝る?」
「セックスですよ」
「せ...っ」
葵は言葉を詰まらせ目を見開いた。オブラートに包む事もない率直な物言いに、耳を塞ぎたくもなった。動揺を抑えるように深呼吸し、カカシを見る。葵の言葉を待っているかのようなその、カカシの顔から視線を外す。
背を向け葵は顔を顰めた。
「...そなたには関係のない事だ」
自分の決意を此処で揺るがせたくない。葵は赤い唇をぎゅっと噤んだ。
もう決めたのだ。木の葉の忍びと、この男と一夜限りの契りを交わす。それは葵の中で大切な決意だった。忘れたくないと言うのが根底にあるのだと自分でも分かっている。それだけの為の決意なんて、なんて浅はかなのだろうか。馬鹿らしいとも思える。
それでもいい。自分に嘘を突き通すくらいなら、馬鹿でいい。
ーーそしたらきっと、忘れられる。鳥籠の中で一生暮らしていける。
「...夜まで、ここでゆっくりして参れ」
葵はそう伝えると、部屋を出た。

「姫様?どちらへ」
部屋を出て玄関へ向かう葵に、露が歩み寄って来た。
「散歩よ」
「はたけ様はどうされたのですか」
「部屋にいるから、持て成しておいて」
露の問いかけに草履を履きながら応える。当たり前であろう質問に、葵は目を草履に落としたまま。
「ーー姫様?」
葵のいつもと違う面持ちに気がつき、露が心配そうに声をかける。葵は顔を上げ、安心させるように微笑んだ。
「ラーメンを食べてくるわ」
「...は?ら、らーめん...ですか?」
葵の口から出たことのない食べ物の名前にぽかんと口を開けた露に、また葵が笑った。綺麗な白い歯を見せる。
「そしたらすぐ戻るから」
「....はぁ」
その笑顔は久しぶりに見せた、晴れやかな笑顔だった。露は戸惑いながらも、軽く頷いた。

城下町は相変わらずにぎわっている。イルカを見なくなってから、葵は出歩く事はしなくなった。言われるままに、作法や勉学を行う毎日だった。だから、ここに一人できたのは四年ぶりなのに。その道を歩いているだけで、イルカに会いたく毎週のようにこの道を歩いていたのが、まるで昨日だったかのようにも思える。不思議な感覚に包まれながら、葵は歩き、やがて足を止めた。
ラーメン店は相変わらず繁盛しているらしく、昼時でもないのに客の姿が見えた。当たり前だがそこにあの姿はない。麺の茹でる匂いだろうか。独特の香りに葵は微かに顔を顰めた。どの客を見ても、男が一人で黙って食べている。女性がいないその光景は葵を躊躇わせた。
もしかしたら、女性が食べる物ではないのだろうか。食べに行くと言った時露は酷く驚いていた。あれはそう言う意味だったのかもしれない。
一度足を止めてしまうと、中々踏み出せない。
イルカが美味しそうに食べていた光景だけが葵の頭に浮かび、葛藤に唇を噛んだ。
ふと、片方の足下に暖かさを感じ、葵は視線を向け、目を開いた。
「なっ....」
犬が自分の足にぴったりとくっついている。驚きに胸を押さえながら後ずさりし、その犬を見つめる。
カカシの連れていた、あの小さな犬だった。
犬はまた葵との距離を縮め、近づくとちょこんと座る。
(え、なに?)
よく分からない。葵は困惑しながら、かがみ込んだ。
「...どうしたの?お前もお腹が空いたの?」
小声で話しかけてみる。が、何も答えない。
「パックン、探したよ」
「えっ....」
後ろからの声に振り返る。カカシが立っていた。大きな目で瞬きをしている葵を見て、カカシがため息混じりに小さく笑った。
「どうもねぇ...あなたが心配だって、ついて行っちゃったみたいで」
すみませんねぇ、と頭を掻く。
(心配?私を?)
この犬が?
信じられない言葉にもう一度かがみ込みパックンを見つめた。
「お前、パックンと言うのか」
言って、手を伸ばす。恐る恐る頭を撫でた。思ったよりも暖かく、なめらかな質感だ。垂れた目を葵に向ける。葵は微笑んでいた。
「...心配、してくれたのか。...私を」
頷くようにパックンが頭を下に向ける。ぺろと葵の指を舐めた。それが違っていたとしても、その仕草は葵の心をとても和ませた。
「ありがとう」
小さな声で言えば、ウォン、とパックンが答えた。
「...で、葵姫は、ここに入るつもりだったんですか?」
カカシが葵に歩み寄り、目の前にある店に目を向けた。
言われ、葵は立ち上がると、眉を寄せ顔を背けた。恥ずかしさに顔が熱くなる。
「た、たまたまじゃ。こんな店、に入る...つもりは、」
「そうですか。俺はここで食べようかと思いますが」
「え?」
まさかの台詞に葵はカカシを見る。
「良かったら一緒にどうです?」
何を考えているのか。推し量ろうとしても、眠そうな目からは何も読めない。葵は目を泳がせた。この男と一緒なら、入りやすいのは確かだが。一人で食べにくるつもりだった。どうすべきか、すぐに決断できない。
「ラーメン、食べた事ないなら是非。旨いですよ」
旨い。と言われ、またイルカの食べていた表情が頭に浮かんだ。
幸せそうに、美味しそうに食べるイルカの姿。
「...そこまで言うなら、食べてもよい」
そう言って葵は恥ずかしそうに唇を結んだ。

ラーメンは美味しかった。同じ麺でもうどんや蕎麦と全く違う。汁が味が濃いが、出汁が効いていてとても美味しい。イルカはこれを食べていたのだろうか。そう思っただけで、胸が暖かくなる。きっとこれが大好きなのだろう。
カカシを見ると、食べる度に口布を下げ、すぐに上げる。というのを繰り返している。隠すような顔立ちではないと言うのはすぐに分かった。予想した通り、綺麗な顔だ。しかし。葵は眉を寄せた。
「面倒くさい食べ方じゃな。...大体それは必要か?」
言えば、ちらと葵を見る。ラーメンを啜り、口布を上げる。
「勿論です」
言われ、首を傾げたくなった。自分には分からない忍びの事情があるのだろうが。不可解にしか見えない。
しかも。
「美味しいなら、もっと美味しそうに食べたらどうじゃ」
「そうですねぇ、目立った表情は隠すのが常なんで」
スープを飲み干しながら言う。
忍びなんてそんなものですから。そう言われて、葵は目を自分のラーメンに移した。
忍びだから。その通りなのだろう。不思議な感覚に陥る。忍びなのに。忍びらしくない。きっとあの人は、喜怒哀楽がはっきりしているのだろう。本当、忍びらしくない方だった。
「木の葉には、ラーメンがあるのか」
葵の問いに、カカシは、ん?と顔を上げた。そしてすぐに頷く。
「えぇ、ありますよ。勿論」
「美味しいのか?」
「えぇ、旨いですね。こことはまた味が違うんですがね。確かに美味い店ですよ」
「そうか」
葵はそう呟くと、ラーメンを無言で食べ続ける。
目の前にいる男に、イルカの事を聞いたら何と答えるのだろうか。そこまで思って葵は可笑しくなった。荒唐無稽そのものだ。瞼を閉じると、行った事のない木の葉の里の、ラーメン店にいるイルカが思い浮かぶ。
何故だろう。泣きたくなっていた。
こんなにも胸が痛い。
このラーメンの味は生涯忘れないだろう。
葵はそう思った。





広い湯船に身体を沈める。白い肌を擦るように指で触れながら、一人、葵は静かに息を吐き出した。
葵は金木犀が好きだった。幼い頃から庭に植えられている大きな木には、その大きさにはそぐわない位、可憐で小さな橙色の花を咲かせる。花には余り興味がなかったが、その花だけは好きだった。幼い頃亡くなった母親が好きだったと訊いたからだろうか。部屋にまで香るあの花の匂いも好きだ。落ち込んでいた事があっても、不思議に気持ちが落ち着く。
自分にとっては特別なーー花。
その花の香りに似たお香を入浴時に焚くのが週間だった。葵は湯船の縁に両腕を置き、顔を乗せ目を閉じる。
カカシは既に湯あみを済ませ部屋で待っている。そう思っただけで否が応でも緊張が高まり身体が震える。眉根を寄せぎゅっと唇を結んだ。
(大丈夫)
香りを吸い込むようにゆっくり深呼吸する。
葵は目を開けた。


「もういいんですか?」
足を組んで椅子に座っていたカカシが、葵の姿を見て立ち上がった。葵は一瞥しただけで、すぐに視線を外し、「勿論じゃ」と小さく言った。
大きく柔らかい寝台に葵を寝かせると、カカシが顔を近づけたのが分かった。部屋の明かりは全て消えている。葵がそう頼んだ。
首もとにカカシの唇が触れたのが分かり、身体が反射的に強ばりそうになる。葵はそれを必死に抑えた。
自分が望んだ事なのだ。何を恐れるのか。自分に強く言い聞かせる。
緩められた着物をゆっくりと、カカシの指が解いていく。更に心音が高鳴った。白い肌が段々と露わになっていく。葵はシーツをぎゅっと握りしめた。
が、ぴたりとカカシの動きが止まる。そう言うものなのかと、葵は暫く身体を動かさず息を詰めたままにしたが、カカシは一向に動かず、指の動きも止まったまま。やがて、葵の肌に触れていた指が離れたのが分かった。
「......?」
葵は薄っすら目を開ける。闇の中でも目が慣れてきたのか、カカシの銀色の髪が目に入った。
何故止まったのか。ジッと闇の中でカカシの顔を見た。
「....あ~、....すみません」
謝りの言葉に、頭にハテナが浮かぶ。葵は服を直しながら起きあがった。
「何だカカシ。何故続きをせんのじゃ」
素直な問いに、カカシはがしがしと頭を掻いた。柔らかい寝台の上に座ったまま息を吐き出す。
「どうしても、無理みたいなんですよね」
情けない言い方に葵はカカシを睨んだ。
「ふざけるでない!そなた何を言っておるのか分かってるのか!?」
人の決意に一度やならず二度までも言い切るその神経が信じられない。怒りに身体を震わせ、握っていた自分の着物をぎゅっと力を入れた。
「だって、勃たないんですよ」
「...たた...?...何と申した?」
「いやね、ここが使えないと無理じゃない?どうしても、反応しないんですよね」
首を傾げた葵に、カカシが自分の股間を指さす。要約その意味が分かり、顔に一気に熱を持った。
「そ、...なっ...」
「いや、違いますよ。あんたは悪くない。十分魅力的ですから」
「…では、何故じゃ」
カカシは問われると、小さく笑った。
「俺の問題です」
笑ったが、カカシはふざけるような顔をしていなかった。真剣な表情をしている。それは、カカシの本心であり、嘘ではないと、知る。葵はそのカカシの表情に眉を寄せた。
頭に思い浮かぶ事を確かめるように、葵は口を開いた。
「言い訳があるなら言うが良い」
「いえ、ありませんよ」
カカシは肩を竦めて言った。葵はカカシから視線を外さぬまま、口を開く。
「理由がないのに、そのような状態になるのか。だったらあの里長にそう言えば良かったのではないのか?」
カカシはそうですねぇ、と相槌と打つ。
「...そなた、前訊いた時には契りを結んだ相手はいないと言っておったな」
それにカカシは素直に頷いた。
「ええ」
「では、想い人はおるのか?」
カカシの目が少し開いたのが分かった。間を置き、カカシは口度濁す。
「いや、....いるって言うか...いないって言うか」
「どちらかしかないであろう。はっきりせよ」
大きな目でジッと見つめながら口調を強めると、カカシはまた観念したように小さく息を吐いた。
「まあ、...いますね」
たぶんそれは嘘ではないだろう。男の身体はよく知らないが、好きな相手がいるのだったら説明つかなくもない。だが。
葵は鋭い視線をカカシに送った。
この男は木の葉の一番の忍びと訊く。話術も巧みなはずだ。嘘でないと思うが、それを結びつける事実は何もない。
この男と契りを交わす事は自分には必要な事だった。何よりも、大切だった。
無理だと言うならば、それを証明するもの。
「カカシ」
「はい?」
カカシが葵を見た。
「その想い人をここに連れてまいれ」
葵の命令に、今度はしっかりと目を開いた。
「はぁ?何言ってるんですか」
「良いか。そなたの立場は分かってはいるな?わらわを侮辱したのは事実じゃ。その言葉だけで納得するとでも思ったか」
顔を顰めるカカシに向かって続ける。
「嘘だったら、分かっているであろうな。カカシ」
「........」
黙ったカカシの眼差しの中に葛藤が見えた。初めて会った時から飄々としていたカカシとは違う、真意の含む眼差し。その目を葵はジッと見つめる。
「そなたに時間を与えよう。考えたければ考えるがよい。この屋敷でな」
わざと、選んだ言葉を突きつける。

カカシは青色の目を空に漂わせたまま、眉根に深い皺を寄せた。

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