蝶々結び③

女は、自分と同じ黒い目に黒い髪。自分から見たらぱっとしない、特徴があるわけでもない、普通の女性だった。
ただ、女の黒い瞳は、自分と同じ色だからではない何かを感じる。それは葵を惹きつけた。
酷く緊張している。
それは一目瞭然だった。父親のような名のある大名の屋敷にくれば誰でもそうなる。しかも状況が状況だ。
部屋の奥でその姿を見ていると、女がカカシを見て緊張を解いたのが見えた。まさしく恋する女性の顔。
同姓の親しい友人と呼べる人は、葵にはいない。顔を会わす女性は皆同じ身分故か、気位が高い高潔な者か、正反対に極度に控えめな者か。葵からすればつき合いづらい者ばかりだった。
自分で呼んだものの、目の前に現れた女に正直どう対応するべきなのか。葵には不透明だった。ただ、気品高く、毅然とあるようにと、姫としてあるべき姿勢を幼い頃から教え込まれてきた。それを守るかのように、葵は口にした。
「名を申せ」そう言った時に女が口にした名前。それは葵の頭を真っ白にさせた。
イルカ。
訊き間違えかと。訊き返す勇気はなかった。気が動転したのを悟られたくない。葵は気丈に振る舞うべく、侮蔑するような言葉を選んだ。
そんな名前認めない。私情が渦巻く気持ちを必死で抑える。葵は唇を噛んだ。
しかし、イルカと名乗った女は動じることがない。自分を前にして毅然と話し始める。
それは葵を驚かせた。驚きながらも、内心感銘に近い感情を覚える。葵はカカシに相手を呼べと命令したが、高を括っていた。
カカシが頷いたのは予想以上の日数を要した。どうでもよければすぐにでも頷いていただろう。それほど相手が大切なのだと言っているのに他ならない。
だが、それはカカシの一方通行な想いに過ぎないのかもしれない。
気持ちが薄ければ、此処に来たくないと思うのは当たり前だ。だとすれば、屋敷に来ないとも限らない。来たとしても、自分に分が悪い状況にたじろぎ、言い訳をし、逃げだすのかもしれない。誰だって自分が一番可愛いのだ。
それでもカカシを愛していると言う女の目は本心だった。最初に見せた緊張も動揺も微塵もない。
本当に、カカシを想っている。
この女性のように、体を張って愛を口にできたらどんなにいいだろう。好きな人に声さえかけられず、儚く終わった自分の淡い恋心がなんとちっぽけなものか。女に顔を背けながらもぼんやりと思った。
これで解放する、それで終わり。
そう悟ったのに。
カカシは笑い出した。葵はぎょっとしてカカシを見る。それは女も同じだった。
「違うんだよね」
その言葉は余計に頭を混乱させる。カカシにとっても問題のない、状況のはずなのに。不機嫌なカカシは指を形組み女の胸に当てる。
白い煙の中に現れた男。
心の中に閉じこめたのに、忘れる事が出来なかった。今も鮮明に焼き付いている。
そう、ずっとーー恋い焦がれていた。
イルカ。
思わずそう口が開きそうになり、震える唇を強く引き締めた。驚きで足下がぐらつくのに、頭の中は白く溶け落ちるような衝撃だと言うのに。
怖いくらいに葵の心の中は静まりかえっていた。
イルカは動揺と怒りをカカシにぶつけている。それに対してカカシはーー。
この男、こんな声を、表情を持っていたのか。
(呆れる。本当、呆れるわ)
茶番劇だったらどんなに良かったか。こんな事実を突きつけられるくらいだったら、この男なら出来たであろう、巧みな演技で自分を欺いて欲しかった。
それなのに、なんでこの男はこんなにもイルカに対して真剣だ。
初めからずっと、飄々としておればよかったのに。

手を動かせば指にグラスが触れ、音を立て落ちる。その音は遙か遠くで落ちたように、葵の耳には微かにしか聞こえない。
葵はカカシを睨みつけた。
なぜ嘘をつかなかった。
「わらわを馬鹿にしておるのか」
渦巻く気持ちが抑えられない。その怒りを葵はカカシに向けるしかなかった。
男が男を本気で愛しているだと?
そんな酔狂紛いな事実、誰が信じるか。
カカシは葵を真っ直ぐに見つめた。
「まさか」
驚くくらいにカカシの声は冷静だった。嘘偽りがないその青い目は、葵の身体の芯を掴む。カカシが口を開く度に、ゾクリと寒気が背中を走った。
その目は、葵に誤魔化そうと必死になるイルカに向けられる。
寝台に押したおされるイルカをただ見つめるしかなかった。カカシの怒りは激しい憎悪でも何でもない。
まっさらな愛だけだ。
それが葵に苦しいくらいに伝わる。
男同士の色路など、穢らわしく下劣なものだと疑って信じなかった。それは父親からくる考えが自分を今まで支配していた事が強い。
でもそれはーー間違いだったと、気がついてしまった。それが何とも痛々しく、胸を突き刺す。
葵の目に薄っすらと、涙の膜が張る。
扉が激しく叩かれ、葵の身体が跳ね上がった。振り向けば父親の直属の部下である男の声が聞こえる。謁見という名目で、父親からの遣いが週に一度やってくる。それが、今日だったとは。
潤んだ目に、イルカの強い眼差しが飛び込んできた。それは不安に満ち満ちている。
イルカは、知っている。城下町にいた時、彼が大名の、葵の父親の嫌悪の対象が何かと、に耳にしていてもおかしくはない。

守らなくては、ーーいけない。

イルカの目を見てそう思った。
葵は突き動かされるままに、自分着物を緩めた。そしてイルカを奥のクローゼットへ押し込む。
「立って。ーー入って、声を出さないで」
恋をした相手に初めて声をかけた台詞。夢に見た言葉の欠片もない。返答さえない、交わる事のない、会話。
守りたい、それだけだった。
自分の恋を護るように。硝子で出来た宝物を壊さないように。

気がつけば、父親の遣いは部屋を出て、それを遮るように露によって、部屋の扉が閉められた。
葵は息を鎮めるように呼吸を繰り返すと、着物を直す。クローゼットの扉を開けた。
黒く輝く目は、驚きとまだ残る不安と、後はーー安堵だろうか。
(...仔犬のよう)
愛くるしくも思えるその目を見つめ、心の中で微笑んだ。そして、胸をなで下ろす。身体の中からも力が抜け、葵は愁眉を開いた。
イルカの目を自分の視界から追い出すように瞼を伏せた。
「...あの」
イルカの声が葵にかかる。目を見れなく葵は顔を背けた。
「もうよい。出て参れ」
同時にカカシがイルカに歩み寄り、優しく声をかけ、肩を撫でる。疑う余地のない甘ったるい口調に、仕草に、それを視界の隅で見つめ、視線を外した。
(太刀打ちなんて、....出来ない)
「葵姫...」
さらにかけられるイルカの声。それを振り切るように葵は口を開いた。
「もうよい」
それは自分に奮い立たせるように。
「男を相手にする者など、興味はない。連れて帰るがよい。露」
露が顔を出した。心配そうな表情に、もしかしたら何かを悟られているのかもしれない。
丁寧にカカシとイルカに頭を下げる露を見つめた。
「こやつらの任務は終わりじゃ。裏から帰らせよ」
「しかし、」
イルカがまだ戸惑いに自分に視線を向けているのが分かる。胸が苦しく、葵は思わず息を止めた。
早く行け。
早く。
でなければ、涙が落ちてしまう。
ふわりと、触れた暖かいもの。
足下に目を向ける。パックンがじっと葵の目を見つめていた。
葵は眉を寄せながら顔を緩ませる。撫でてと催促しているようにも思える。葵はしゃがみこんで頭に触れた。ゆっくり、ゆっくりと小さい頭を撫でる。
(...優しいなお前は)
目でパックンに語りかける。涙が零れるのを必死で耐えた。
露がカカシとイルカを外へ向かうよう促す。カカシ達が歩き出したのが分かる。それでもパックンは動こうとしない。
「パックン、行くよ」
飼い主から声がかかる。それでも、カカシを見ようともせず、葵に身体を擦り寄せた。
「一日...この犬を、貸してはもらえぬか」
パックンの目を見ながらそう口にしていた。暫くして返される了承の言葉。葵はそのまま、カカシとイルカがいなくなっても暫く動くことはなかった。パックンの身体を撫でる。
(...行ってしまった)
外で風が強く吹く音が聞こえる。葵は立ち上がって、窓を開けた。途端窓から吹き込む風がカーテンをたなびかせ、葵の髪をなびかせる。
大好きな金木犀の香りが自分をふわりと包んだ。幾度となく感じた香りなのに、鮮明に葵の心に染み込んでいく。閉ざした心を、記憶を解きほぐすように。
(...本当に、行ってしまった)
ようやく、葵の目から涙が一粒こぼれ落ちた。









「おいで」
葵は浴衣を着ていた。露が内密に外出する時の為にと、何着も仕立ててくれていた浴衣の一つだった。16の夏から途端に出歩かなくなった葵を心配していたのもある。一度も袖を通さなかったが。
葵は水色の生地に、淡い黄色の花が散りばめられている模様の浴衣を選んだ。今はもう16ではないから、この模様は少し子供っぽい。
それでも葵は嬉しかった。あの夏を思い出させてくれる。草履を脱いだ葵は裸足だ。白い足をゆらゆら動かし、夜風を感じる心地よさに浸る。
葵に呼ばれて、パックンは部屋から外に駆けてくる。
小石づたいに軽々飛躍し、庭にある、大きな石に座った葵の横まで来る。夜空には明るいくらいの大きな月が庭を照らしていた。
横に来たパックンの頭を、葵の小さく綺麗な手が撫でた。嬉しそうに尻尾を動かすのを見て、葵は大きな目を緩め、細める。
「ねえ、パックン」
その呼びかけに、顔を上げると、葵の綺麗な目が見つめていた。
「本当は、喋れるんでしょう?」
目を弓なりにした葵の目を見つめ、暫く黙っていたが。何もかも見透かすような黒く透明に輝く瞳に、パックンは口を開いた。
「知っておったのか」
葵がそれを訊いて小さく笑いを零した。
「小さい頃ね、露が教えてくれたの。忍びに仕える動物はみな人の言葉を操れるって」
忘れてたのよ。なのに、急に思い出したの。葵はそう言うと。またパックンの頭を撫でた。
葵の視線は、闇に続く丹青な広い庭に注がれている。彼女から漏れる微かな香りは、忍犬であるパックンの気持ちを緩める。それは不思議と、あのカカシが惚れ込んでいる中忍と同じ香りだった。人を惹きつけ、忍犬さえ惹きつける。ある意味、特殊な能力と言ってもいい。勿論、彼女もイルカも気が付いていないのだろうが。
(気が付いていないから恐ろしいんだろうがな...)
そう思いながら、葵が撫でる手の心地よさにパックンは身体を寄り添わせた。
彼女が忍びでない故に、漏れる香りの様に、自分の気持ちも溢れさせていた。並々ならぬ葵の決意とその裏にある恋心の葛藤は、パックンの気持ちを揺るがせた。カカシが言ったように、ただ心配になった。
ただ、今はそれも静まりかえった海のように穏やかだ。
心配で側にいるが。そんな心配は必要なかったのかもしれない。
(人とて動物とて、女心は分からぬものだ)
穏やかな表情を浮かべる葵の顔を見つめながら思う。
冷たく心地よい空気が庭にそよいでいる。きらきらと輝く黒い瞳は欠け始めている月に向けられている。
「私ね....パックン」
空に向かって、ぽつりと葵が口を開いた。
「イルカ先生が好きだったんだぁ」
驚きにパックンは微かに目を開いた。
「大好きだったの」
葵がひた隠し閉ざしていた硝子玉のような心。それは金色に纏われた輝きを放つリボンによって硬く結ばれていた。蝶々結びされた黄金のリボンが、パックンの目にははっきりと見えた。そのリボンが揺れ、解かれ、溶けるように消えていく。暖かさを保った硝子玉は葵の心の臓辺りに消える。
葵の大きな目からは涙が溢れ、こめかみ辺りを伝う。幾度となく大きな涙は零れると言うのに、口元は嬉しそうに微笑んでいる。
悲しい時、嬉しい時、怒っている時、悔しい時、人間は色んな時々に涙を見せる。葵の涙は一体どの気持ちを含んでいると言うのか。
分からない。
パックンは立ち上がると葵に前脚を置き、頬に流れる涙を舌で掬った。
感情の種類で涙の成分は変わる。それを知りたいと思ったが。それ以上に彼女の慰めたい。そう思った。
これでは丸でただの犬だと思えてくるが。葵は嬉しそうにパックンを見つめ、微笑んだ。
「ありがとう」
その微笑みは、カカシの父親、さくもの妻と面影が重なった。綺麗な女性だったが。葵とは似ても似つかないはずなのに。不思議な気持ちがパックンを包み込む。昔の自分を不意に思い出させていた。
そんなパックンの気持ちを知らず葵はジッとパックンの目を覗き込んだ。
「あのね、一つお願いがあるの」







****




パックンは夜道、路の陰に座っていた。鼻を上げ感じる気配に匂いを嗅ぐ。
ーー本当は断っても良かったのだ。何の関係もないと、もう忘れるべきなんだと。そう諫めても良かったのだ。自分を見つめ幸せになるべきだと。
それでも、そう言えなかったのは。あの夜感じた不可解で不思議な葵の目に見えない、言葉で言い表せない力を感じてしまったから。
(...もう歳だからか)
若いおなごの言う事をすんなり聞き入れてしまうとは。
パックンは確実に感じ取っている匂いが近づいてきたのを感知し、やれやれと立ち上がる。
所詮何を思っても言い訳に過ぎんのだ。何故なら、ーー葵と同じ。わしもカカシとイルカの行く末を心配しているのには違いないのだ。
そう、一日遅れで里に帰り、家に戻れば消沈しきったカカシが家にいた。今まで見たことがないような落ち込みっぷりは、他の忍犬も驚き、呆れ、途方にくれるほどだった。巻物に戻してくれれば良いものの、寂しいのかパックンを含む他の忍犬を、代わる代わる呼び出しては自分の側に置く。添い寝を要求する。しまいには、庭に紛れ込んだミドリガメを飼い慣らし名前を付け話しかけている。あれにはほとほと呆れ果てた。
木の葉を誇る忍び、他国から恐れられる写輪眼の名の微塵もなく、その姿からほど遠い。女のように、めそめそいじける姿は目に余る。あの葵姫の爪を煎じて飲ませようかと本気で思った程だ。

思い出してパックンは深いため息を吐き出した。目当ての人影を確認する。背後まで歩み寄っても、全く自分の存在に気が付いていない。酒の匂いがとっぷりと漂ってくる。なんたるしまりのない注意散漫さだ、と呆れもするが。
「おい」
声をかければ、ぎくりと、目に見えるほど身体を固くしたのが分かった。
振り返り、足下にいるのに気が付いたのか、イルカは胸をなで下ろすと、顔を緩ませた。自分を好いてくれている。それがよく分かる。そんな事どうでもいいと思うのに、この男に撫でられると、どうしようもなく嬉しくなる。そう、葵姫と同じ匂いを漂わせているからかもしれない。
愛嬌のある笑顔を浮かべたイルカは、子供のように純真な目を向けている。多少心が痛んだが。
「わし迷子だ」
無理矢理な台詞に、イルカは目に困惑の色を浮かべた。カカシとの間に何があったかた知らないが、頑なにカカシを嫌っている、そんな風でもない。それを確認できただけで、自分は十分だが。それではきっと、この二人はこの気持ちのまま平行線を辿っていくのは間違いなく、目に見えている。部屋を汚し、任務に明け暮れている飼い主をどうにかせんといかんのは変わらない。
カカシは間もなく自分を、イルカを見つけるだろう。そこからは、もうわしにはどうしようも出来ん。ただ、あの男は幼い頃から不器用だった。忍びとしての才能に恵まれてはいるが、父親に似たせいか人としては劣っている。才能が、環境がそうさせてしまったのは分かっている。しかし、カカシは幼い頃からずっと、他人と交わるのを恐れている。ーーそう、怖いのだ。最初から諦めている。決めつけている。こんなに朗らかな男と仲良くできたと言うのに。途中で投げだし、逃げだそうとしている。
パックンは腕の中で抱かれながら、顔を上げイルカを見つめた。
この男に背を向けられたら、カカシはこの先の人生どうなっていくのだろうか。忍犬として、飼い主が天の才能を受け継いだ事だけを喜べばいいのだろうか。
最初の気持ちから、微かに揺らぐ。カカシの事を少しでも知ってもらってもいいだろう。
パックンはイルカに訊かれた事を素直に答え、亀の事も口にする。イルカが思っているほど非道で心のない男ではないのだ。ただ、不器用でどうしようもなく真っ直ぐな心を持っている。
「パックン?」
カカシの声に時間切れだと、イルカの腕から飛び降りる。
「何やってるの」
「散歩だ」
呆れた声をだす飼い主を一瞥して答えると、そのまま二人にするべくその場を離れた。
あの場にあれ以上いたら、恥ずかしさにこっちまで赤くなる所だったわ。お互い気が付いてはいないが、カカシ。ダダ漏れだ。恋心がダダ漏れだ。思わずため息が漏れる。
(後は。黙って見守るしかかなろうな)
軽快に歩みを進めながら、パックンは家路へと向かった。


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