薄れる⑦

酔っていた時に入ったから周りをよく見ていなかったけど。
イルカは靴を脱いでカカシの後に続いて部屋に上がり辺りを見渡した。
男にしては、いや自分の部屋を基準にしているのだが、カカシの部屋は物も少なく綺麗な部屋だった。
ただ、第一印象と変わらず部屋は広い。きっと部屋数も。自分が住んでいるアパートとついつい比べてしまっていた。
「座って?」
カカシの声にまたしても身体をビクと反応させていた。
「あ、はい」
鞄を抱きしめたまま頷き、言われた通りにソファへ腰掛けた。
わ、ふわふわ。
ソファ自体部屋にある訳ではないから、何とも言えないが。白いソファは革で出来ているらしい。何とも良い座りごごちに、イルカは何度も尻を上げて座りごごちを確かめる。
この前来た時は床に座ってたし、何よりソファの存在すら気がついていなかったな。
「楽しい?」
はたと顔を上げればキッチンからこっちを見ているカカシと目が合った。
イルカは慌てて座り直して苦笑いする。
「いや、…はい、まあ」
よく分からない肯定をすればカカシは微笑んだ。その顔は既に口布を外している。
「前も思ったけど、酔っても酔ってなくても、あんた面白いね」
カカシは言いながら湯呑を持って現れる。テーブルに置かれ、頭を下げイルカは素直に手に取った。
暖かい。
湯気が立つ湯呑を少し啜れば、濃い緑茶が喉を潤した。飲みながらきちんとしたお茶に内心驚いていた。正直カカシのイメージではない。逆にイメージすらしていなかったのだが。
そんなに飲み物を欲していないと思っていたのに。お茶を飲んだだけで、酷く落ち着いている自分がいた。
目を向ければ、同じ様にお茶を啜りながらカカシはイルカを見ていた。
「大丈夫?」
真っ直ぐ逸らさずカカシは静かにイルカを見ている。
ああ、そうか。心配をしているのか。
ようやくカカシの意図に気がつかされる。
「大丈夫です」
ならいいけど。カカシの口元が微笑んだ。
確かに、誰だってあんな場面見たらそうなるだろう。自分だって、きっとそうする。アパートの中とは言え、にしても、あんな場所で無理矢理キスするなんて。
なんて上忍だ。
思い出しただけでムカムカと気持ち悪さがこみ上げ、同時に嫌な気持ちになる。イルカはグッと眉根を寄せた。
テーブルに湯呑を置いて、ふと目に入った時計を見て自分が仕事の途中で抜け出してきた事を思い出した。
「あの、すみません。そろそろ帰ります」
「もう?」
「ええ、仕事がまだあって」
カカシは思い出したような顔をした。
「確か子供相手の仕事だったよね」
「はい」
頷けば、カカシは立ち上がった。ベストのジッパーを下ろし内ポケットから取り出したお守りを見て驚いた。
てっきり家にあるとばかり思っていたのに。まさかカカシが持っていたなんて。
イルカの表情に気がついたカカシはニヤと笑った。
「あんたにいつ会えるか分からないでしょ」
だったら何だ。身につける必要があるのか。訝しむが、いまいち納得がいかないが、兎に角無事見つかってよかった。
カカシから貰おうと手を伸ばすと、スッと上に上げられる。
「…?」
手を上に伸ばすとまた避けられ、イルカは怪訝な眼差しをカカシに向けた。
「あの、返していただきたいんですけど」
涼しい目元のカカシはまた口角を上げた。
「ね、お返し欲しいな」
「……は?」
お返しの意味が分からないし、違うだろ。
大切なお守りをそんな条件に使われ、イルカは苛立ちを隠せなかった。
「それは、…大切な物なんです」
「だったら尚更じゃない」
尚更って。
イルカはグッとカカシを睨んだ。そんな黒い目をカカシは見つめて、顔を緩ませた。
「あぁ、さっきもそんな顔してアイツを煽ったんだ」
言われて閉口した。
何を言ってるんだ。煽るって。こっちは必死に真面目に言っているのに。
「煽ってなんかいません!返してください!」
イルカは必死で手を伸ばすが上手く交わされ触れる事すら出来ない。
いい加減にしろ、と込み上げる怒りに唇を噛みグッと睨めば、カカシは不意を突かれたような目をし、顔を曇らせた。あれ、と思いそんな顔をする理由が分からなく、様子を伺うと、カカシは諦めたように小さく息を吐く。
それを証拠に、仕方ないか。と言い、掌の上に置いたお守りがイルカの前に差し出した。
あっさり渡され戸惑う。が、イルカは恐る恐るカカシの顔を伺いながらゆっくりとお守りを取る。
指でなぞればいつもの布地の感触に胸をなでおろした。赤の金襴布地に小さな花と流水草が施されている。子供の頃はこの赤い色が女の子みたいで嫌だった。手縫いの為か綻びも見られ、角が少し擦り切れてきている。
やっと返ってきた。愛おしむように手の内に入れる。もう失くさないと、お守りを握りしめれば温かい湯のように安堵の気持ちが沸きあがってくる。
イルカはカカシを見上げた。
「ありがとう」
心からそう思った。
本当に、戻ってきてよかった。
気持ちを伝えたくてカカシの目を見て微笑めば、カカシはますます戸惑いを含んだ顔をする。何かを我慢するような。そんな顔をしている。スッと目を眇め、頭を掻いた。
「あんたさ、無防備すぎ」
「え?」
意味が分からず聞き返せば。
「どうしてそんな顔するの。狡いよ」
えっと、この人は何を言ってるんだ。言いがかりもここまでくると甚だしい。
「よく分からない事言わないで下さい」
不機嫌な顔を見せると、カカシはクスリと笑い、指がイルカの頬に近づき、微かに触れた。今度は指の腹で。その手を払いのけようとも思ったが、イルカ自身カカシのその手は嫌いじゃなかった。きっと、さっきも。摩る指は優しく頬を撫でるように動く。自然頬に血が上り赤くなるのを悟られたくなくてイルカは瞼を伏せた。一頻り撫でた指が髪に触れ、黒く長い髪を梳かす。何度も髪を梳かす。
丸で自分が犬か猫になったみたいだ。
そんな事を思い、だけど、いい加減離してくれないだろうか。
髪を梳かしていた手が耳から首元に移り、うなじをその長い指で触られただけで小さな声が漏れ、それに自分自身でも驚き、思わず息を呑んでいた。
これじゃ本当に女みたいじゃないか。一気に身体も熱くなる。恥ずかしくて堪らない。
「あの、いい加減に、」
顔を赤らめながら伏せた瞼を戻せば、顔を近づけたカカシと間近で視線がぶつかった。
あ、と思ったが、遅かった。
ゆっくりと唇が合わさる。柔らかく啄ばまれ、舌が入り込む。それだけで流石経験の差だと思い知らされた。こんなことした事も、勿論された事もない。次第に呼吸が荒くなりゆるりと入り込んでいた舌が更にイルカの口を開かせた。カカシは自分の額当てを取り床に投げ捨てる。
どうしよう。キスを受け止めてしまったからには、同意したという事になるよな。
でもキスだけって言ってたし。
などと言い訳がましい事を並べてみても、それを裏付け、信じさせるものは何もないのも事実だった。
熱く口内を荒らす舌に身体がビリビリと痺れる。目を瞑って必死にキスを受け入れていたが、次第に身体の力が抜けてきていた。カカシは背中からイルカを支え、ソファへ座り込む。もう片方のカカシの掌がイルカの後頭部を支えた。その動きさえあまりにもスムーズで、キスに集中していたイルカはそれに気がつけなかった。
どう応えたらいいのか分からず差し出す形になったイルカの舌を、カカシが我が物顔で犯していく。とろとろになった唾液がイルカの口角から滑り落ちた。
イルカは焦り出していた。身体の奥が熱い。腰から背中は甘い痺れで、それは脳も同じらしく。ボンヤリした思考で、これキスなわけ?と自問していた。
顎を上に向かされたイルカは熱い唾液を飲み込む。それを確認したかのように、カカシは唇を離した。
目の縁がじんわりと赤く、目は涙で滲んでいる。頬は火照っていた。
嫌だ。
下半身が熱い。
女性の身体だからだろうか。ジンジンと疼いているのが分かる。
それがすごく嫌だった。
何回か瞬きして、とろんとした目を擦る。
「か、…帰ります」
声はか細く震えていた。
それでも力を入れて立ち上がろうとすれば、カカシの顔がまた近ずき、イルカは顔を背けた。
「やっ……っ」
「何で?」
「何でって、」
あんたさっきキスまでって言っただろう。と顔で訴えれば、カカシはその意図が分かっているかのように薄笑いを浮かべた。
「続きをしたくなるのが男の性ってやつでしょ。大体さ、どうして嫌なの?キスだけでとろとろなのに」
図星にイルカの顔がまた更に赤く染まった。
「駄目?」
耳元で言われ、思わず小さな声を上げていた。
素直に身体はビクと跳ね、それが悔しくて堪らない。
厭らしい台詞なはずなのに、どうしてこの男が言うと胸がドキドキとするんだよ。
堪えるように身を固くした。
「やっ…、やですっ」
耳まで赤くしながらも顔を横に振り続けるイルカに、カカシは顔を覗き込んだ。整った顔立ちに胸が締め付けられる。苦しさで目を細めながらもイルカはまた嫌だと首を振った。
「いやいやばっかだね。なのに無防備で色気丸出しでさ」
「はあ?それ、違いますから」
「それでいて無自覚。それって罪だよ?」
何を無茶苦茶な。
「ほっといてください!」
「ほっとけないから言ってんの」
茶化した声色が消えたのが分かり、カカシの目を見返してしまった。
カカシは、ん?と首を傾げてキョトンとした顔のイルカを見る。
「もう一度言おっか?あんたが放っておけないの。自分らしくないと思うんだけどさ、そう思うから仕方がないよねー」
そうでしょ?
同意を求められても。
イルカは固まったまま答える事が出来なかった。
いや、嘘だ。そんな事ない。あるはずがない。
表情は張り付いたままなのに、身体の内では心臓がバクバクと跳ねんばかりの勢いで動き出した。薄い耳鳴りもしている。
だって本気にならないって。そう言ったじゃないか。
縋るものは、前カカシから聞いた台詞しかなかった。
だから、違う。と必死で否定を繰り返す。
カカシの顔が見れなくなり、軽く顔を下に向け、黒く長い睫毛を避けるように伏せた。
「あんたも同じ気持ちでしょ?」
だが追い打ちをかけるかのように問われ、更に混乱する。
「あの男のキスと俺のキス、全然違うよね。上手い下手じゃなくて、された時のあんたの感覚ね。気持ち」
自分でも薄々気がついていた事をあっさりとカカシに言われる。
あの男にされた時、嫌悪感しか湧いてこなかった。なのに、カカシにされると胸が締め付けられて、身体が求めてしまっていると、気がついていた。

でも、

痛い。

痛くて、苦しい。

存在しない偽物に恋させて、偽物の身体で恋してどうすんだよ。

自分の口からどうしても肯定する言葉は出せなかった。




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