夜空にただよう①

「おじゃましますよ」
深夜と言うにはまだ早い時間。夕飯も風呂も済ませたイルカは明日の授業で使う資料をまとめていた。
持ち帰る程のものではなかったがアカデミーで手がつかず、持ち帰ってみたものの、実際今もペンが進まず半分も作れていない。
定規をぺたりと唇に当てたままの顔で、下足を窓枠に踏み入れた男と目が合った。
気配を消しているのは故意なのか恣意的なのか。不意の訪問者に一瞬目を丸くして溜息と共に相手を見据えた。
「また貴方ですか」
「また俺です。…仕事中でしたか」
イルカの口にした不快な声色の台詞にも気にする事なく、部屋に入る承諾と受け取ったかは不明だが、下足を片手に居間に降り立ち手元に広げられた紙の束を見ていた。
「そうです。だから貴方の相手をする時間はありません」
書類に目を落とし手につかない作りかけのグラフにペンを持つ。
「うわぁ、つれないですね」
傷ついたと嘆くように大げさに受け答えしているが、口元は上がっているに違いない。
この上忍が自分の家に訪問(もとい不法進入とも言う)するようになってから幾分月日が経った。彼の保つ距離感はイルカを悩ませる。上忍であり元教え子の上忍師であり、時々誘われ飯を食う間柄であり、それ以上の頻度でこうして家に現れる。
結論、深い間柄ではない。しかし、彼が心に踏み込んでくる深さは、イルカにとって難しいものだった。
「難しいですか」
見透かされたかと、ハッと顔を上げる。
カカシはちゃぶ台に向かい合うように胡座をかき、顎を掌で支える姿勢で、一向に進んでいない資料を見ていた。
「あぁ、…まぁ、そうですね」
いかにもつまらなそうな顔をしている。目が合い、思わず資料に視線を戻した。
「あとどの位で終わりますか」
「……先ほど言ったじゃないですか」
同じ言葉を繰り返すのが嫌いな性分のくせに。自分の催促は論外らしい。
ただでさえ手がつかないのに、カカシの訪問に頭の切り替えがつかない。
それに、今日は特に顔をあわせたくなかった。
「ねえ、お茶貰ってもいいですか?」
首を傾げて聞くカカシに小さく嘆息してキッチンをペンで指した。
「どうぞ、ご自分でお願いします」
「は~い、じゃお言葉に甘えて」
勝手知ったるとばかりに立ち上がり背を向け、洗い場にある急須を手に取った。カチャカチャと陶器を鳴らす音に不思議と安堵感を覚えていた。
「イルカ先生はいります?」
「……いえ、俺は結構です」
カカシの淹れるお茶は美味い。葉の量、お湯の量、お湯の温度、浸出時間。どれを取っても適当さがなく完璧なものを感じる。お茶の味もろくに分からない自分が感じるくらいに、味が変わる。
「そろそろ麦茶の季節ですね」
急須にヤカンで沸いたお湯を注ぎながら投げかけられる言葉。彼の手に持つ茶缶と急須から立ち上る湯気の間を見つめて眉を顰めた。
気が休まる自分に苛立ちを感じ、これではいけないと仕事に戻る。
「はい」
湯呑みが目の前に置かれた。柔らかい湯気立ち昇らせる藍色の湯呑み。
「いらないって言ったけど、どうですか?」
「………いただきます」
さらに深くなる眉間の皺のまま、おずおずと湯呑みを持ち、口内を湿らせた。
暖かい。
張り詰めていた気持ちが溶ける暖かさに、知らず口を開いていた。
「俺は、間違ってましたか」
カカシは湯呑みを両手で持ち、ずずずとお茶を啜りながら間を置くようにイルカの顔を見た。
「間違ってないよ」
サラリと言われて目線をあげれば真顔でイルカを見るカカシがいた。
「じゃあなんで…っ」
言葉が続かなかった。同じ言い争いをまたここで始めるつもりはなかった。だから今日はカカシに来て欲しくなかったのに。
唇を噛んだイルカを見て困ったような顔をして、目尻を下げて微笑んだ。
「歯切れの悪い原因はそれでしたか」
ははと笑って湯呑みをちゃぶ台に置いた。
なんともずれた感覚に苛立ちが積み上がるのは簡単だった。
「そりゃ、そうですよ!」
バシリとちゃぶ台を手で叩く。
熱くなってしまったイルカにまたしてもカカシは無言で力なく微笑んだ。
昼間の険悪な空気はどこに行ったんだ。乾いた笑いを漏らす相手に呆れ気味になる。
消化しきれない苛立ちを分かりきっているのに自宅まで顔を出し、話しを切り出すまで昼間の事がなかったかのような態度をとり、どうも理解し難いものを感じる。

昼間とは。
召集命令が下り中忍選抜試験の話があった事だ。
アカデミーを卒業したばかりの生徒をあっさりと推薦したカカシに驚き目を剥いた。
一言言わずにはいられなかった。が。問題を提議した自分にカカシははっきりと言い切った。
『口出し無用。アイツらはもうアナタの生徒じゃない。今は…私の部下です』
カカシだから分かってくれていると思っていた。あれだけ手の焼いていた生徒に心配の念を持っていたのを一番良く知っているのもカカシのはずだ。切り捨てられたと思った。
鋭い痛みが胸を刺した。


「イルカ先生はアカデミーの教師として当たり前の事を言ったんです。それでいいじゃないですか」
空になった湯呑みの縁を指で触りながらただね、と付け加えた。
「俺は撤回はしませんし謝る気もありませんよ」
「当たり前です」
そりゃそうだろう。でなければ殴ってる。
あれが間違ってましたなんて言わせない。それほどあの台詞は俺にとって強烈なパンチだったから。
「ま、ぶっちゃけ今日のイルカ先生の言葉はただの甘えです」
頭に血がのぼるのが分かった。
甘えであんな場所で軽口叩く訳がない。ただ、カカシはどことなく追撃を許さない目
をしていた。
「生徒だと大切に思い、心配する老婆心だけじゃアイツらに何も残らないでしょ。いや、それを否定してる訳じゃないですよ。アカデミーでは必要な事であるでしょうし、実際生徒である時は必要としていますから。ただね、俺らにそれをあてにしないでもらいたいんです」
「…履き違えてるとでも?」
いやあ?と首を捻った。
「そこまでは思ってません。…アイツらはもう戦場を踏み血を流しました。そこから得たものはアカデミーでは無用の長物です」
波の国の任務はイルカの耳にも入っていた。Cランクだと思われていた任務が、Aランクへの過酷な任務内容。
敵の血と死、仲間の血と死。躊躇する間もない冷酷な場所だ。
その生死の戦闘をし帰ってきた、あの時の顔は今でも忘れていない。
ナルトもサクラも、サスケも。
皆笑っていた。
あの時、深く声をかけれなかったのは事実だ。あの笑顔がそうさせた。
蘇る光景に頬にピリッとした空気を感じた。
分かってたのかもしれない。
関われば関わる程自分は深く情を抱いてしまう。その情を押し付けていたのだとしたら。
それは、カカシの言葉通り確かに甘えに過ぎない。
「でもさ、あの時ほどアイツらからイルカ先生の存在を強く感じた事はなかったよ」
同じ光景を感じ取ったのか、カカシは淡々と口にした。
「俺らは任務を遂行するだけの、言わば生きた駒です。でも先生はそうはいかない。育て上げ、その先を見、案じ、受け入れる。イルカ先生がいたから今のアイツらがいるんだよね」
「そんな…ことは」
嫌な言葉だ。
言葉の重みがズシリと胸にのしかかる。
忍びとしての在り方を、そんな簡単に口にしないでくれ。
里で忍びとしてあり続ける限り、皆一蓮托生だ。
「イルカ先生は、真面目だね」
眉間に皺を寄せるイルカにニコリと笑い、手が前に伸ばされる。湯呑みを持つ指の寸前で止まった。
「…触っても…いいですか?」
「………」
沈黙は承諾と解したのか、カカシの指の腹が、イルカの指に触れた。
質感を確かめるように動き、手の甲を撫でる。数え切れないくらいの血を流した手は冷たく、繊細な程綺麗で抵抗を忘れる程見とれそうになる。
身動き出来ず息を詰めたままの顔をジッと見られ、伏せた目をぎこちなく横に流した。
触れられたのは初めてだった。
いつも勝手に家に忍んで何を考えているのか、イルカ自身考えないようにしていた。
自分に会いに来る意味も
手に触れる意味も
カカシの言葉の意味も
俺は…卑怯なのだろうか。
目を合わせられない。
ふと指が離れた。
え〜話を戻して、とカカシはひとりごちの様に呟き、空になった湯呑みを持ち立ち上がる。
「…時期尚早か、それが分かるのは試験が終わってからでしょ。…俺はね、アイツらを信じてますから」
背を向けたカカシの表情は分からない。いつも通りの間延びした口調に、何故だか目が離せなかった。
「ま、上忍仲間にも言われましたよ。お前は甘いってね。だからイルカ先生の事言えな
いんですがねー」
手際よく洗い物をしながら笑い、カゴに洗い終わった食器を置いた。
振り返ったカカシは見上げるイルカに笑みを浮かべた。
言葉が出てこなかった。悔しくなるくらい頭が上手く回転しない。
「そんな顔しないで」
「え…」
困った顔をしてカカシは苦笑した。
そんな顔と言われる意味がわからないくらいに、自分の心境の不透明さに気がついた。
「…こんな野暮な事話しに来るつもりじゃなかったのに…なーんか今日は調子狂いっぱなし。だからさっさと退散するね」
入ってきた窓に足を掛け、一瞬身体を止めた。
「じゃ、またね」
肩越しに振り返る、カカシの顔は闇に呑まれたようによく見えなかった。
「カカシさ」
言い終わる前に姿は消えていた。
窓から広がる闇は染みるように暗く、いつもの事なのにカカシがいない窓を見るだけで無性に落ち着かない気持ちになった。
追いかけるべきか?
いや、らしくない。
自分に言い聞かせ立ち上がる。
カカシもらしくなかった。
いつもはたわいの無い会話しかしないくせに。ふざけてるようでふざけていなくて、真っ直ぐな気持ちを見せてきた。
なのに自分は。その心を見るのが怖くて、そっぽを向いた。
触れられた左手を摩る。
いつか、触られると思ってた。
何故だろう。いや、それも考えないようにしていたのかもしれない。
触られるより、押し倒されるのかもしれないと思っていた。

窓枠から夜空を仰ぐ。
カカシの気配もない空は、なんとも空虚な気持ちにさせる。
「またね、…か」
イルカは呟いて窓を閉めた。

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